ささかのブログ

いろんな理由からgooブログに引っ越しました。

利他的な社会子

2016-03-28 21:28:50 | 日記
「利己的な遺伝子」
進化的遺伝アルゴリズムの基礎的な理論。
自然界に適合するように細胞組織そのものが生き残る様に、生物を進化させているというもの。

ところが人はコミュニケーションを使ってコミュニティを作ることで、大きな災害にも対応するよう進化した。

極論としては、自然界からすれば人は地球生物を滅ぼす、地球のウィルスと考えられる。

とはいえ、ウィルスでさえ生物というエネルギー源がなければ繁殖できない。

人も同じく、地球の資源がない限り、生きることはできない。


厄介なのは、コミュニケーションがうまくできないがために、最終的に自分を苦しめることになり、コミュニケーション障害とか、いろんな精神病を引き起こす。

さて、ここで幸せとは何かを考える。

大金持ちになる?
グラミー賞を取る?
有名になる?
オリンピックで金メダルを取る?
ギネスブックに載る?
ノーベル賞を取る?

何を目指してもいいけど、これら全て、他の人がいてこそ成り立つ。

逆に考える。
誰かを大金持ちにする。
誰かにグラミー賞を取らせる。
誰かを有名にする。
誰かにオリンピックで金メダルを取らせる。
誰かをギネスブックに載せる。
誰かにノーベル賞を取らせる。

なんだかすごく幸せな感じがする。

更にこうしてみよう。

みんなで大金持ちになる。
みんなでグラミー賞を取る。
みんなで有名になる。
みんなでオリンピックで金メダルを取る。
みんなでギネスブックに載る。
みんなでノーベル賞を取る。

不可能な課題もあるが、幸せのようでなんだか幸せではない気がする。

結局のところ、幸せは自己単独で完結することはできない。自分以外の他者がいるからこそ幸せは感じられる。しかしながら幸せは自分に内在し、他者から与えられるものでは満足できなくなっていく。

我々人は生まれながらに「利己的な遺伝子」でもあり「利他的な社会子」でもあるので、バランスは大事である。
利己的になりすぎると社会から拒絶され、利他的になりすぎても自分が潰れる。

コミュニティに依存しながらも、自己だけの世界も必要に思う。


う~ん。あまりうまく収束しないな。
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コミュニティーとコミュニケーション

2016-03-14 21:50:32 | 日記
コミュニティー【community】

居住地域を同じくし、利害をともにする共同社会。町村・都市・地方など、生産・自治・風俗・習慣などで深い結びつきをもつ共同体。地域社会。

(出典:goo)

人が他の動物と違い優れているのは、言葉やあらゆる表現手法を用いて、他者と関わり合い、共同体を作って組織的に行動することによって、巨大なエネルギーを扱えるようになっているという点。
コミュニケーションによるコミュニティの構築であり、コミュニティを維持するためのコミュニケーションである。
どちらがなくなっても成立しない相互補完関係である。

逆に言えば、コミュニケーションのない人ほど弱い動物はいない。
快不快を訴えることもできず、要求を伝え、不可能を拒むこともできない。
衣服も食事もない、泣き叫ぶことのできない乳幼児は可哀想な話だが生きる可能性は少ない。

とはいえ人間社会はコミュニケーション不足と障がいで満ちている。

この文章も含めて、自らの意思をネット上の不確定多数の人間に公開することは、場合によっては大きな暴力であるかもしれないし、誰かを救うものかもしれない。後者であって欲しいが。

社会現象に対する評論、どちらかといえばバッシングや否定は、これもまた人の本能であると考えられる。

人は敵と味方をはっきりさせたいという本能がある。
味方であれば安心できるし、敵であれば防御や攻撃をする。

自分との違いをはっきりとさせて、これは敵、これは味方。あるいは、これは良い、悪いをはっきりさせると、防御態勢と休憩態勢をはっきりさせることができる。

ところが行き過ぎた他人との違いの比較は、結局のところ自分自身の存在そのものを否定することになる。
肌の色や民族や出身国。あるいは宗教や政治思想など、違いを明確にして行き過ぎれば、様々な闘い、衝突、戦争など、せっかくのコミュニティをぶち壊しにする。
意味がない。

引きこもりやニートなども、仮想の人格とコミュニケーションしている限り、少なくとも物理的には攻撃してこないはずなので、安心だから他者と関わらないという点で、非常に安心である。

そこにはまた経済的に自立した社会人としての義務的なものも存在するように見えるが、「カネ」という価値でさえ、人がコミュニケーションのひとつの手法として発明したものなので、コミュニティから完全に脱出してしまったら、カネの価値はない。
コミュニティがあってこそカネも意味をなす。

結局のところ、コミュニケーション次第でコミュニティに関わり続けることができる。


結局何が言いたいかというと、「敵」のように見えるものは、自分と違う異物を見出した際に見えるものであって、でもそれは単純にコミュニティに対するアンチテーゼだったり、革命なのかもしれないし、深層心理に眠るトラウマ体験を彷彿とさせるようなものであったりするのだが、否定すればするほど、自我を脅かす厄介者になる。

「そういうこともあるよねー」
と、放っておけばいいのに、まさに(自らの)墓穴を掘ってしまうという場面も多々ある。

これもそうかな?
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ゲーム

2016-03-04 08:08:35 | 日記
小さい頃、ゲームをやるよりも作りたかった私は、安いパソコンを買ってもらい、「マイコンBASICマガジン」(略して「ベーマガ」)を見ながらゲームを打ち込んだり、自分で作ったりして遊んでいた。

それ以前にもすごろくを作ったりしていたのだが、30マスを脅威の確率でサイコロを振らないと「10マス戻る」「最初に戻る」という、かなり無理ゲーを作ったりしていた。

閑話休題。

ゲームには、それ自体を解くゲームと、対戦形式のゲームがある。
格闘ゲームなどは対戦形式だと思う。

アーケードなら全くの他人と戦うわけだが、家庭用ゲーム機では知り合いと戦う。

当たり前だが、3マッチあるうち、2マッチをフルボコにすれば、やる気を失うか、険悪な雰囲気になる。

実力差があるなら、「1マッチ技の出し方でも研究したまえ」と余裕のあるところでも見せたほうが面白い。

ネットの普及に伴って、「共闘」タイプのゲームが増えてきた。
モンハンとか。

この場合、敵を倒すという共通の目的があるが、敵を倒したあとのアイテムの取り方でコミュニケーションの良し悪しが決まる。
「私はこれ持ってるのでどーぞ」
「ありがとうございます!」

アイテム全回収しちゃったら、二度と共闘なんかしてくれない。


コンピューターゲームに限らず、ベースボールゲーム、オリンピックゲームなどのスポーツも同じだと思う。

スイムウェアの素材が問題になったことがあるし、新技術の投入や、科学的理論に基づいたフォームの改良など、考えられるすべての手段を講じて勝ちに来る。
ドーピングは問題だが、プロテインを摂取することが問題とは思えない。普通にとれる栄養素だから。

国際スポーツは世界の頂点を闘う場なのだから、その場に出られるだけですごいことだ。
強いリスペクトを持って迎え入れたい。
その場にいられるだけで、強靭な精神力を持っているのだから。

そしてオリンピックの後にあるパラリンピックこそが、世界と自分との本当の闘いであることも。


本当はそれもまた自我との闘いで、同じ土俵、同じ舞台で闘った選手たちだけでも、国境などない友情が芽生えればいいと思う。
もちろん応援する側も。

あと、報道も。
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