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仁義なき経済に対するワクチン治療。

2020-03-17 | 学問
 3月16日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


経済に新しい存在次元を附与された場合、古い理論は使えなくなる。

経済に欠けた最大のものは利己的な欲求に他者を結び付ける利他である。

自らの利己の方向性が利他に結び付く時、仕事への情熱が沸き上がる。

逆に、これが欠けた毎日の仕事では、

退屈で無気力になったり自己中心的な行動へと向かわせる。

社会の実践的生活に直結する限りにおいて、その意義を持ち直し得るのは、

利己行為だけでも利他行為だけでも長続きしないのが現状だ。

利己と利他の一致。それらバランスが労働意欲として情熱と不眠不休への結果となる。

この社会活動で生き残る為に従うべき柔軟な姿勢は、

私たち人間性の中から生まれるものでなければ安定は難しい。

社会理念や共感できるビジョンをどれほど巧妙に改善を繰り返しても存続が困難なのは、

いかにも利己と利他による真の適応度に問題があるからだ。

その適応とは認識ではなく実在であり、脳は認識出来ないものには関係を築けない。

適応者を実践する際に必要なのは利己と利他による認識であり実在である。

利己と利他が同一の原理だと結び付くまでは、利益の安定を得ることはないだろう。

適応度は原理的に認識だから収入確保は、利己と利他によて初めて可能となる。

なぜなら、収益を侵害するものは内部にはなく、外部が常に立ちはだかるからだ。

あらゆる社会現象は知的なものであれ、搾取的なものであれ、博愛的なものであれ、

利己と利他による欲求には違いないのだが、

自己愛と隣人愛それらの出現によるバランスで初めて安定する。


現代の成功は、他者が失敗するという代償によって得られている。

よりどちらがその場で適応度が高いかによって出費と利益が出されている。

必ずしも競争と公平は共通とは言えないが、

人を不当に差別扱いをしないという点においては

競争と公平は同じ美点を持っている。

誰も運、不運をコントロールすることはできないからだ。

日本の場合、

有能な経営者ほど利益の最大化を追求するのが鉄の掟だ。

利益を上げられない経営者は罪人だと教えられる。

その考えではある程度の犠牲は仕方ないことになる。

そんな暗黙の価値規範は競争原理によって

徐々に過激で過剰なサービスへと進んでいく。

日本のおもてなし文化に対するモラルハザードは、

結果を追い求め過ぎるゆえの過剰なビジネスモデルへとドンドン発展し、

実際、そのサービスの4分の1にしか知恵が無く、残り4分の3は自己犠牲だ。

必要なサービスとは役に立つものであって、非生産的な想像ではない。

サービスの対価は労働力の成果によって決まる訳ではなく、

価格と消費によって決定されるものである。

サービスをそのまま自由奔放主義に委ねては、

長期的に見て労働対価を正常な状態に保つという想定は明らかに非現実的である。

現代商法は過度に進んだ経済活動にこそ問題があるように、

サービスが長期的に安定するには(発展は一先ず置いといて)、

限定的だが必要に応じた社会主義の理念を取り入れる必要があると考える。

行き詰った経済にとって社会主義の「良いところ取り」が

自由主義経済にとってはカンフル剤となるだろう。

プロレタリアの平等を求める要求の真の内容は階級社会の廃止はもとより、

労働対価の正当性にあるからだ。

また、アインシュタインの相対性理論によると、

物質とエネルギーは交換可能であるように、

自由主義と社会主義は交換可能だ。

ケインズが言うように、

競争の欠如は根本的な問題ではない。

必要なのは政府の積極的な介入だ。

社会が長期的に安定するには、

必要に応じた政府による経済への介入を選択する必要が生じる。

もししなければ、国民を裏切ることになるだろうと。





   つづく。