車の運転をしてる時、BGM代わりに、時々、ジャズのCDをかけます。マイルス・デイヴィス、チャーリー・パーカー、バド・パウウェルなど、メジャーなプレイヤー中心で、大した知識はありませんので、なんとなく聞き流して、リラックスした気分になっています。
そんな私が、日本の隠れた天才ジャズピアニスト守安祥太郎(もりやす・しょうたろう)のことを紹介するのは、我ながら、大胆です。でも、たまには、音楽の話題も悪くないと思いますので、しばらくお付き合いください。
彼のことに関心を持ったきっかけは、ずいぶん前に読んだ「そして、風が走りぬけて行った 天才ジャズピアニスト守安祥太郎の生涯」(植田紗加栄 講談社 1997年)という本です。守安の天才ぶり、彼を取り巻く人間模様、そして、自殺という悲劇で終わる一生に強く惹かれました。
まずは、同書から、彼の天才ぶりを示すエピソードをご紹介します。
日本のジャズミュージシャンが、誰よりもプレイしたいと声を揃える相手が、サックス奏者の宮沢昭だといいます。
「日本ジャズ大賞」を3回も受けた彼にして、「どうしても聴きたくない」レコードがあります。それが、後ほど紹介する「幻のモカンボ・セッション ’54」。
宮沢をして、「穴があったら入りたい。」「当時、本物のジャズをやっていたのは、守安さんただ一人だったからね。」「なにしろ、普通じゃない!」と言わしめたのが、守安です。
天才サックス奏者チャーリー・パーカーを目標に、若き日の渡辺貞夫(ナベサダ)は、必死で彼のソロを聴くのですが、複雑極まりないコード進行やハーモニー、和音をどうやっても聴き取ることができません。それを聞いた守安は、数日後、渡辺に「あの曲コピーしておいたから、やるよ」と譜面を手渡されます。それには、パーカーのソロが寸分たがわず、再現されていました。
とにかく、守安の耳とそれを譜面上に再現する能力は超人的だったようで、ビッグバンドのすべての楽器の譜面をひとりで再現できたというのです。
時代は、まだまだ戦後の復興途上にある昭和20年代の後半。
本場アメリカでも最先端といえるビー・バップの演奏スタイルを、アナログレコードだけを頼りに、完全に自分のものとした上で、次から次へと独創的でアドリブに富んだ演奏(それこそが、ビー・バップだ、というのを、私は、この本で知りました)を繰り広げる守安。
その演奏を一部のファンは熱狂的に迎える一方、当時のミュージシャンたちが、一目も、二目も、置いたのは、当然と言えるでしょう。
そんな守安ですが、晩年には心のバランスをくずし、奇矯な行動が目立つようになります。そして、昭和31年、目黒駅で飛び込み自殺を図り、帰らぬ人となりました。31歳という若さでした。
音楽的な行き詰まりとか、失恋だとか、クスリだとか、いろんなことが言われていますが、真相は分からないままです。戦後の日本ジャズ界に眩しいばかりの光芒を放って、走り抜けました。
晩年の守安です。ちょっと照れたような笑顔が悲しみを誘います。
さて、唯一残された守安の演奏を「幻のモカンボ・セッション ’54」(ユニバーサルクラシック 3枚組)のCDで聴くことができます。こちらがそのCDです。
昭和29年、横浜のクラブ「モカンボ」で行われたセッションを記録したものです。
時代を考えれば、録音機材などよく準備できたと、その奇跡に驚くしかないのですが、1998年にCD化されました(当時参加したプレーヤー(おそらく宮沢も含めて)の多くが、守安に比して、自らの演奏のあまりの稚拙さを恥じて、CD化が遅れた、とも言われています)。
深夜に始まったセッションは、聴衆、プレーヤーの熱狂に包まれて、延々、翌日の昼まで続いた、といいます。
終始守安がリードする形でセッションは進みます。曲名も告げず、独自のイントロから入る彼に、他のプレーヤーは、コードを探し、音を追っかけ、アドリブを入れるのに必死だったようです。
会場には、すでにプロとして活躍していた中村八大もいましたが、レベルの違いに臆して、演奏には加われなかったといいます。ちなみに、かの植木等が受付の手伝いかなんかで、当日会場にいた、というのを別の本で読んだ記憶があります。
いかがでしたか?彼の演奏ぶり、雰囲気などを、少しでもお伝えできたでしょうか。守安と、彼を取り巻いていたジャズの世界に興味を持っていただければ、嬉しいです。
それでは、次回をお楽しみに。