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第461回 ロシア流反アルコール運動の顛末

2022-02-25 | エッセイ
 1920年代から30年代初頭にかけて、アメリカで実施された「禁酒法」は、ギャングを儲けさせただけで、散々な結果に終わりました。
 旧ソビエト時代のロシアでも似たような取り組みが展開されていたんですね。米原万里さん(ロシア語通訳・エッセイスト(故人))のエッセイで知りました。結果はご像像通りですが、その顛末がなかなか興味深いので、「ロシアは今日も荒れ模様」(講談社文庫)に拠りご紹介します。

 1985年3月、ゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカ(構造改革)とグラスノスチ(情報公開)という大胆な政策を打ち出しました。その影に隠れ気味でしたが、同時に「節酒令」(禁酒令ではありません)を発布しています。二日酔いでの遅刻、欠勤が日常的になるなど、並外れたウォトカ好きがもたらす弊害が社会問題化していたことが背景にありました。ウォトカを睨む(?)ゴルバチョフです。



 取り組みの柱は2つ。ひとつは、ウォトカの販売と飲酒を午後2時以降とすること、もうひとつは、反アルコール・キャンペーンの展開です。

 まずは、キャンペーンの経過から。
 テレビ、ラジオはこぞって節酒促進番組を流すなどメディアを総動員しての「啓蒙」が始まりました、また、官製(党製?)で、非アルコール宣言都市が続々と名乗りをあげました。そして、目玉は、それまでは黙認されていた膨大な密造酒製造機の押収です。

 その成果を誇示すべく、大きな会場に押収品が山積みされ、内務大臣がコメントするテレビ番組が放映されました。舞い上がった大臣から、製造機について「本来なら粗大ゴミとして捨てられる素材を実に巧みに活かしてますな」「こりゃあノーベル賞もんで」(同)などのトンデモ発言が飛び出して、番組は、中断、打ち切りになる始末。
 いかにもロシア的大らかなエピソードで、キャンペーンの成果のほどは、推して知るべし、といったところでしょうか。

 さて、販売、飲酒は午後2時以降というのが、(予想通り?)大混乱を巻き起こしました。2時前になると、みんな職場を抜け出して、買いに走ります。それまでは、瓶単位で買っていたのが、ケース買いが普通になって、かえってウォトカの消費量はうなぎ上りという結果を招きました。こんなロシア流小咄を紹介しています。
「酒屋の前の長蛇の列に待ちきれなくなった労働者が「こんなことになったのも、ゴルバチョフのせいだ。クレムリンに行ってヤツを殴ってくる」と息巻いて出かけたが、しばらくすると、戻ってきて、「向こうの行列の方がはるかに長かったよ」と言って肩を落とした」(同)

 それでもアルコールを口にしたい人々は、アルコールを含む商品からそれを抽出する方法を考え出しました。まず化粧品が店頭から消え、果ては靴クリームまでが奪い合いになったのです。砂糖もイースト菌で発酵させればアルコールができますから、スイーツ類を含めてこれまた品薄になったといいます。いやはや凄まじい執念というか連想ゲームです。

 そんな大騒動の転機となったのが、「節酒令」発布の約1年後、1986年4月に置きたチェルノブイリの原発事故です。それ以前なら、隠蔽していたのでしょうが、グラスノスチのおかげもあって、事故の概要、大規模な放射能漏れなどが伝えられました。

 そして、1週間後、「放射能の特効薬はウォトカを浴びるほど飲むことだ」との噂(まったく根拠はありませんー念のため)が米原の耳にも入りました。
 外国人として滞在していた米原の耳に入るくらいですから、相当広く、スピーディーに伝播したのは間違いありません。
 ウォトカの復権と大いばりで飲むための大義名分を狙っていた人間が流した、との説を米原もあえて否定はしていません。証拠はありませんが、なにしろロシアですから、う~ん、十分ありうる話です。

 それやこれやで、キャンペーンは「傑作な小咄を山ほど生んだ以外の目に見える成果は何一つ残すことなく、2年ほどもすると、なし崩し的に終息した」(同)というのが顛末です。
 原発事故が、反アルコール・キャンペーン終息のきっかけになったというのがいかにも皮肉です。そして、「歴史、先例に学ぶ」ことの大切さも教えてくれた気がします。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。