洋の東西、時代を問わず「歴史」にことのほか興味があり、いろんな本を読んできました。最近は、年齢的なことなどもあり、あまりに大部なもの、掘り下げたものには手が伸びません。手軽に知識の整理が出来そうなもの、ちょっとした発見がありそうなものを中心に書店の棚を渉猟しています。
そんな中、格好の一冊を見つけました。「もう一度!近現代史 明治のニッポン」(関口宏/保阪正康 講談社)がそれです。
対談という形で、慶応3(1867)年の大政奉還から、明治45(1912)年の明治天皇崩御までの出来事を、47の章立てで、順を追ってカバーしています。
各章は5~6ページ程度とコンパクトですし、対談なので読みやすいです。タレントの関口氏も、(たぶん)だいぶ準備、勉強したのでしょう。その成果を発揮して、うまく話題を展開しています。
ノンフィクション作家の保阪氏も、歴史的評価とか、歴史観など小難しい話には踏み込まず、事実と背景に絞った説明が明快です。
そんな中から、明治の高官たちの修学旅行ともいうべき「岩倉使節団」を、豊富なエピソードとあわせ紹介することにします。
歴史の授業で習った覚えはありました。でも、元・公家の岩倉具視をリーダーとする海外視察団が出発したのは何と明治4年11月というのが驚きです。
新しい国作りで多事多難なはずのこの時期に、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允などまさに中枢の人物を含む107名の使節団を送り出したのですから、大胆です。一行のこんな写真が残っています。左から、木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通です。岩倉の頭にはチョンマゲが乗っています。
「意地の悪い見方をすると、岩倉さんや大久保さんは日本を背負うのが面倒になったかなという気もしますが・・・」との関口の発言に、「彼らには、敵も増えているんです。これまでかなり強引にやってきましたからね。大久保は西郷を、岩倉は三条(実美)を日本に残すことで、自分たちへの恨みをさりげなく逸らす狙いもあったかもしれませんよ。」と応える保阪。
重大な決定をしないようクギは刺していましたが、留守政府に好きにやらせてのガス抜き。確かにそんな政治的な狙いがあったかも、と目からウロコが落ちました。
一行がまず向かったのはアメリカです。サンフランシスコまで1ヶ月の船旅、開通したばかりの大陸横断鉄道でさらに1ヶ月。到着したワシントンでは、グラント大統領ほか政府の要人から大歓迎を受けます。
使節団の目的の1つが、幕末に結んだ不平等条約改正の「予備」交渉でしたが、あまりの歓迎ぶりに浮かれたのでしょうか、「本」交渉に入ってしまいました。やれ天皇の委任状が必要だ、5カ国で結んだ条約だから単独での変更は無理など、すったもんだの挙げ句、アメリカは条約の変更を拒否します。日本にとっては、ほろ苦い外交交渉デビューとなりました。
次いで彼らが向かったのはイギリスです。すでにロンドン地下鉄が開通するなど先進ぶりを誇る国内の各地を視察しています。世界の国々の発展ぶりを視察するのがもうひとつの目的とはいえ、まるで「オトナの修学旅行」です。そんな中、「世界の工場」として、外国から原料を輸入して輸出するイギリスの方式が富国の基本だと見抜いていた大久保の冷静さが光ります。
そこでとんでもない事件が起こりました。旅費を預けていた銀行が破綻して、2万5000ドル(現在の価値で約5億円)が消えてしまいました。当時、欧州にいた日本人留学生の間で作られた狂歌です。
「条約は結び損ない 金とられ 世間に対してなんといわくら」(同書から)
なにしろ初めての海外ですからね。狂歌の作者にザブトン1枚!。
海外初体験の日本人ならではのエピソードも残っています。ナイフやフォークを使っての食事には苦労したようです、また、現地では、男子は和服から背広に着替えたのですが、なにしろ不慣れですから、用を足す時に、スムーズに脱げません。間に合わずつい・・・ということが多く、アメリカの船員たちは「なんで日本人はあんなに小便臭いんだ」と言っていたといいます。
また、アメリカの広大なホテルでは、「小さな部屋に入れられ、あっという間にドキンと動いて吊上げられた」とエレベーターに驚いたエピソードが「特命全権大使米欧回覧実記」(久米邦武)から引用・紹介されています。
その後、フランスなどヨーロッパの10カ国を回って帰国したのは、予定を大幅にオーバーした1年10ヶ月後。旅費は50万円、現在の価値で100億円という豪勢なものでした。
留守政府も、鉄道の開通、富岡製糸場の操業など文明開化に取り組む一方、徴兵令の発布があり、征韓論をめぐって国論が二分なんて出来事もありました。
いいことばかりではなかったですが、スピード感に溢れた、ダイナミックな時代だったことを痛感します。
いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。