Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

「祈る」という行為へのアプローチ

2009-12-05 | ギターの栄養



「願い」ほど切ないものはなく
「祈り」ほど心を温めてくれるものはない


愛するものが幸せでありますように、と心から願っても
僕の思う幸せと、相手の感じる幸せとは絶対に一致しない


それは、
僕が一方通行で相手の幸せを願ったなら
(それがどんなに相手のことを愛しているのだと言い張っても)
そのズレが、相手の心を圧迫し拘束して窮屈にさせてしまう





そういう圧迫や拘束は、いろんな良からぬものを生む


反発、迎合、依存、共生依存

下手をすると、そこから更に屈折性の卑屈などに発展し
人はそれを恥じ、内に隠し、遂には心も通わなくなってゆく


自分独り、誰に相談も出来ず
(人にとって、それらを相手に説明を出来る適切な言葉を探すだけでも至難の業なのだ)
水面下で苦しむ人も加えるなら
この世の大半の人は、こういう迷路の中で生きている





「全」は「個」の集合体であるから
生き生きとした一つ一つの「個」があって初めて成熟した「全」となる

だが「一つ一つの個」が生き生きすればするほど「個」同士の「ズレ」は大きくなるのだ



恋をし
子を持ち
音に託し、道に託し
心を削りながら愛を育て
それがかけがえのないものに育ってゆくほどに
「自分の中で育ったその心」は「相手に対する圧迫」という暴力を所持する危険性をはらんでゆく

それは
「愛すれば愛するほどに、人は人を傷付ける」とも言い換えられ
更に
「傷付くことを避ける人は、愛する分量も必然的に少なくなる」とも言える



人とは、生まれた時からこういう矛盾を背負っている
その葛藤の中
それでもかけがえのない存在に対して幸せを願わずにいられない、
というその心が「祈る」ということなのだと
この歳になって、ようやく気付いて来た

傷付く事への恐れを、諦めず自分の中で騙し騙し少しずつ
長年かけて克服してゆこうとしてきたことが
僕の愛する力の強さを増やしてくれて
それが僕に「かけがえのないもの」を運んでくれつつある

かけがえのないものは、かけがえのないものなのであるから
失いたくない

「あぁ...本当に失いたくない」と心の奥の方から絞り出すような思いが溢れた時
そのことが既に「祈り」になっていたのだと、そう気付いた




果敢にチャレンジを繰り返し、そして人は必ず必ず繰り返し挫折をする
その後に「得られぬ」ということを学習し
「祈る」という場所に行き着く

そういう順番だから、血気盛んな若人はこう思う


「頑張る事に諦めるってことが祈りなのかよ」
「諦めて神頼みなのかよ」って


でもそうではない

最後に「祈り」に辿り着くのではなく、祈る事から全ては始まるのだ

祈った瞬間、自らの心に暖かな灯火が点され
柔らかになった心だけが夢と希望を運んでくれる



かけがえのないものが僕にこう思わせてくれる

今、この場所に僕が居られるのは
今までの全ての縁の積み重ねの上に立っているからだと

そしてそのことに手放しで感謝している


粛々と暮れてゆく年の瀬の中、
今までの様々な事、様々な人に想いを馳せながら
感謝出来ている


...たまたま今夜だけかもしれない...

明日になったらまた煩悩の中、ささくれ立った自分がいるかもしれない

でも確かに今、感謝出来ている



そしてそのことは、かつてないほどの解放感を僕に運んでくれるのだ

その解放感とは
僕を「手に入るもの」と「入らないもの」の狭間に置き
生きる事の苦痛を何処かで悟りながら
生温い羊水の中で安らかに眠っているかのような類いのもの...




今まで何度も聴いてきた
そして聴く度に良い曲だと思って来たナットキングコールのThe Cristmas Songが
今晩はひとしお、心に沁み込んでくるようだ











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いつもなら...
ここで終わり、である




「自らを多面的に省みようとしたアンテナ」が今夜は収まらないので
「祈り」という視点から一度離れて
自らの記事を用いて「伝える」という行為の多面性を示してみることにした




上記の記事のようなこういった文体を、あるミュージシャンの友人は僕に
「小難しい事書いてるね」と言ったりする

確かに小難しいが、論文的説明的な文章は記録性が高い

後で読み返した時、いつでも平均的に
「あの時、何を言いたかったか」を思い出させてくれる





「伝える」ということには幾通りもの方法がある

「言葉」という道具、まして「日本語」という道具に絞り込んでも
その方法は幾つも生まれる

説明的な文章が必ずしも「より良く伝わる」ということとイコールにはならない

心が伝わるにはむしろ「説明」は邪魔をする事の方が多いかもしれない

「言葉以外の道具」を生業にするミュージシャンである友人は
そのあたりを僕に伝えたかったのだろう



表現というものには「彩」がある

丁寧に表現していても、文勢が弱かったり表現の肌触りが難しいものならば
それは受け手にとってダークな色合いに感じられ
生理的に「触れたくない感」を持たれたりすることもあるだろう

記録性の高い文章表現が、読み返す度コンスタントに
「あの時何を感じていたかを思い出させてくれる」こととは対照的に
「読み返すその時々でまるで違うもののように形を変えて感じられる」だろうが
詩的に書くなら、その表現にもっと何倍ものスピード感が生まれ
それとともに彩りも華やぐだろう


詩とは音楽に近いものと思う








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「願い」ほど切ないものはなく

「祈り」ほど心を温めてくれるものはない





最後に「祈り」に辿り着くのではなく、祈る事から全ては始まるのだと

今夜、僕のもとに舞い降りた冬の精が
そっと耳元で教えてくれた




今、この場所に居られるのは
今までの全ての縁の積み重ねの上に立っているのだと知り
そのことに手放しで感謝出来る




...たまたま今夜だけの魔法かもしれない...



でも確かに今、感謝出来ている





それは、かつてないほどの解放感を運んでくれ

そしてそれは僕の中の涙と溶け合ってソーダ水みたいな色になっている




ナットキングコールの歌う今夜のThe Cristmas Songが
今までで一番、心に沁み込んでくる














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詩的な表現とは軽やかで彩が弾んで、良いものだな...と思うし
説明的な文章で、論理的に伝えるのがベターに思えることもある


だが、懲りもせずこんな風にいろいろな言葉で表現を試みた後にいつも感じる事は
「僕にとって言葉という道具では結局は全ては言い表せない」という「歯抜け的喪失感」で
その枯渇が「Guitarという道具を手放さないこと」に僕を執着させ続けてきた



言葉では到底描き切れない想い、僕の祈りは
全てこの道具へと流れ込んで
演奏の度に、ジュルジュルと滲み出している





.......



そして、最近は
そのジュルジュルのお漏らしがステージ上だけでなく
直情的な言動となって日常にまで及びつつある





オムツをしなければならないかもしれない...












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