僕はそもそも本を読まない人間なのだが
ある時期、急に枯渇したように貪り読むことがある
そして今、本を読んでいて一番面白い行為とは
カテゴリーの垣根を取り去り
自分が専行している音楽の横に並べて
両者の間に共通の真理を見いだすこと
何故か、ここ数日、芥川龍之介を読んだ
多分、最期を自害したことがずっと気になっていたのかもしれないし
僕の好きな漱石がデビュー作の「鼻」をベタ誉めたということを
最近知ったからかもしれない
まずネーミングに惹かれて「地獄変」を読んだ
次に「鼻」「芋粥」と読んだ
この人の葛藤と美学が(良いとか悪いとかいう意味でなく)スーッと僕の中に入って来た
ミュージシャンには、その人その人の好きなコンポーズの雛形が必ずあるように
文学者にも同じような雛形があることを感じる
その雛形を、一つ作るだけでも大変なエネルギーが必要だし
満足出来るような雛形を、結局一つも作れぬまま今生を終えるアーチストも多数いる
それを、一つ作った雛形を自ら破壊し、また別の、更に進化させた雛形を作るアーチストは
本当に凄まじいものを感じる
例えばピカソのように
文学素人の僕の、気分で読まれてしまった芥川3作品は
僕の中では「ブルース」と同じ位置に置かれた
漱石と同じ
作品が変わっても、同じことを繰り返し書いてる
(僕は漱石をブルースだと思っている)
そしてStephen Ray Vaughan (スティーヴン・レイ・ヴォーン)と同じ
そして僕は、
こういった同じことをずっと一生言い続けてる奴に親しみを感じているのかもしれない
この際、表面的な文体とか、時代設定だとか
音楽でいうなら、方法論をどこから持って来たか、とか
そういったものは関係無い
その人にとって「ずっと、同じことが引っかかっている」ということ
分析して、考えうるあらゆる角度から書いても(弾いても)
引っかかりは無くならない
そして気付くと、また同じことを喋っている(書いているor演奏している)
何故だろう...
病院や医師の都合のため
無理に合理的な出産をさせられた母子に残るトラウマがあるということを最近知った
また、乳児の頃から別部屋で一人で寝かせられるのが通常の考え方(らしい)アメリカでは
催眠で記憶退行し、乳児まで戻ると、殆どのアメリカ人が
一人で眠らされた乳児期が悲しかったことを思い出し、ベソをかくそうだ
ある程度、成長してからのトラウマは
記憶の「横」に居るらしいが
出産時や乳児期おトラウマは記憶の「中心」に居座るそうだ
こういうものが例えば
レイボーンのあのパッションを生み
漱石や芥川に(僕の勝手な表現ではあるが)
ブルースのような、同じ(スピリチャルの)フレーズを繰り返させた根源的な要因の重要な一つではなかろうか、なんて思う
そして、もう一つ
僕等は誰もが、そのメビウスの輪から抜け出そうとしている
ある意味では究極な時間であり環境である出産時に
まだ解明されきってない、人間の心のケアが
100% 十分になされることの方がまだまだ少ないだろうと思うが
そうは言ってみても、現実、心に摺り込まれた傷は
本人が意識出来ない領域で僕等を困らせる
そういうものに効く(であろう)一例(と僕は受け止めている)として
赤ちゃんに、ベビーマッサージをし
スキンシップを通して傷を癒してゆく
そういうちょっとしたカリキュラムのようなものがあることを最近知って
そして思った
いくらもがいても抜けられない感があるなら
それは、当たり前かもしれない
もがくのではない
なるだけ静かに
眠りに落ちる時に近い、深い呼吸で
そしてベビーマッサージをする
僕等、大人はどうするか、っていうと...
それは、それぞれが独自に考え出した「大人のベビーマッサージ」をすれば
少しはピカソに近づけるかもしれない