Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

平和への考察

2009-12-21 | ギターの栄養






何かの事情で焦っている

その焦りから自分が盲目的になってしまい

そのことから相手と擦れ違っていってしまう苦しさや寂しさを

人はどうやって解決するだろう










擦れ違いは必ず両者共に不愉快を感じさせるのに
人は己の不愉快を先に解決させたいと願ってしまう


擦れ違いは必ず両者共の心に悲しみを与えるのに
人は己の悲しみを優先させてしまう


擦れ違いは必ず両者共に傷付けているのに
己の傷の痛みに盲目になった人は
自分の方だけが傷つけられたという被害者意識に陥ってしまう


そして目に見えぬ暴力を用いて相手への仕返しを開始する

「価値観の合わない相手のことなんか構ってないで
さっさと相手より優位な環境を手に入れてやるんだ」

それは「努力」という名を使った偽りの大義名分であり
その本質は攻撃であり
戦争の原型である

しかるに本人がそのことを意識していてもいなくても
先に「優位」を手に入れた人は、優越感を得ると同時に
反撃される恐怖も負うことになる

夜道を一人で歩けぬ身では
その後の未来も、その人の心をささくれ立たせるだろう



逆に後手を取ってしまった方は、自分が「敗者」であるという洗脳を強制的に受けることになる


強制を強いるのは勝ち抜き出世至上主義の価値観を投影した「常識」である
いわば「世間の声」「世間の目」
majority、多数派、一般論


そこで「私は敗者ではない」と楯つく者がいたならば
その人は直ちに異端児、危険人物として扱われ、村八分という刑罰が下される




それらはどちらも違う…と思う



擦れ違いから両者共に生まれる悲しみに蓋をして見ぬようにし
諦めたとこから話をスタートさせたら
最初から論点がブレてしまう

そうやっておいていくら出世しても
いくらお金儲けしても
いくら被害者ですと叫んでみても
最初から論点がブレてるんだから建設的なものは何も生み出されない



…こうやって
文字にしてゆっくり考えると理屈ではわかるが
この愚かな迷路に何度も入り込んでしまう自分が居る

他人がこういう図式にハマっているのもよく見かける


自分がハマっている時は常軌を逸しているため客観視出来ず
その愚かさに自分では気付くことが出来ないのだが
他人がこういう形にハマってるのを見るとよく分かるし
それは心に痛くて辛い

自分も含め
でも相手も一緒に
この愚かな迷路から抜け出したいと、ず~っと思っている






さて...
僕には趣味と呼べるような趣味がないのだが
「好きなこと」ならちゃんとある

例えば散歩...

しかし散歩自体が好きなのではなく
散歩で活性化された頭で、つらつらと浮かぶに任せて瞑想することが好きなのだ

運転中、風景が移り変わることからの刺激で活性化された脳での瞑想も良い

誰も居ない部屋のソファで仏像のようにじっとしたまま半眼で瞑想、でも良い



それは、瞑想中が一番自由に感じられるから
心が伸び伸び出来るからなのだ





1ミリも論点をブレさせたくないと思うシビアな人間考察と
お気に入りの瞑想が組み合わさって
僕はよく、変な妄想世界をうろつくことがある


昨日のライブの会場がある立川までは
ウチから片道で40キロ近くある
その長旅を、反射神経だけで運転して頭の中はずっと瞑想状態で過ごした



ボーッと運転しながら心地良く浮かんでくるイメージを野放しにしておく




自分の頭の中を小さな模型の街に見立てて散歩する 妄想...


チイ散歩やブラタモリみたいに頭の中で瞑想散歩を繰り広げる


その模型の街の、駅から少し離れた住宅地を想像してほしい
そこらへんに僕の家がある
あなたの家もその近くにある

そのあたりは木造の家がほとんどで、まだ所々に平屋の家なんかも残っている

アパートなんかは精々二階建ての木造モルタルで
ブロック塀だけじゃなく垣根なんかも少し残っている
要するに僕の子供時代の風景なのだ

その風景は僕に郷愁という心地良さを感じさせてくれる

そのゆるやかな快楽に後押しされながら
僕の瞑想散歩は続く




路地が細かく走り
迷い込むとどこかの民家の開いた窓越しに住人と目が合ってしまったりする
これらの入り組ん裏路地を使って、表通りに出るためのルートは
幾通りかの選択肢が存在することになる


表通りと裏路地を併用しながら国道や環線道路といった大通りにまで出るルートとなると
更に沢山の選択肢が生まれる

表通りに出てしまえば道路表示やら「どこどこ行き」のバスの停留所やら交番もあるし
まず迷子になることはない

迷子になるのは 裏路地の中なのだ



バス通りなどの表通りや国道、環線道路といった大通りには必ず名前が付いている



例えば「何故、人は傷つくことが恐いのか」という名前の大通りあるとしよう

その大通りまで出てしまえば、自分が向かいたい方向は「道」自体が示してくれる
目的地へ向かっての自然に流れは出来ているし、同じ目的を持った人達と旅の道ずれになることも出来る

そういった意味で相手との会話の論点がズレることもあまりないだろう
それは、共通の大義名分を共有出来るからなのだ




大通りの名前をもう一つ例えてみる

「映画鑑賞同好会」という名前の大通りがある

この大通りに出てしまえば、同じ志を持った人達と手を取り合って楽しく映画館へと足を運ぶのみ

しかし人には、映画を「何故見たいのか」というそれぞれの事情がある




気分転換をしたいというレベルのものから
生きるか死ぬかの精神的な瀬戸際を
映画という芸術に救いを求める規模のものまで様々だろう


「映画鑑賞同好会」という名前の国道に出る手前の細かい裏路地には
幾通りもの人それぞれの歩き慣れたルートがある

だが必ずしもそのルートは選んだ当人にとってベストなルートとは限らない



あの路地の角を右に曲がると嫌いな犬が吠えるから少し遠回りになるけど
しかたなく左の路地使っている
なんて例は沢山あるだろう

そこにもってきて誰かがその人に言う
「右に曲がった方が近いじゃん、キミはよく待ち合わせに遅刻するんだから右ルートを使うべきだよ」と

言った人は犬が苦手ではないから言われた人の気持ちがわからない

そういうポイントから話しが繰り広げられるということは
初めから論点がずれているということになる

「お互いそれぞれの事情はあるだろうが何はともあれ一緒に楽しく映画鑑賞しようじゃないか」
という名目で関わったはずなのに「あいつは何で遅刻するのか理解出来ない」
という論点にすげ替えられてしまう

人間関係とは こんな小さな擦れ違いだらけ
争いにまでならないこんな摩擦が、そこら中で無数に繰り返し繰り広げられている




それは裏路地に名前がないから

それはお互いの目的を共有出来る「タイトル」が存在しないことといえるから

それぞれが家から出て名前の付いた大通りに出るまでの間 に擦れ違いは起こる



「名前の無い裏路地」とは
言い換えれば「いたって個人的な感傷」と言える



入り組んだ裏路地のルート選びで人はすれ違いそして迷子になる


裏路地には名前が無いのだから
自分の家から大通りまでの街並を小さな模型にでもして
上からじっくり観察するのが良いと思うのだ


あの角を右に曲がる理由は犬のせい
次をまっすぐ行くのは近道だから
その次を左に曲がるのはその風景が好きだから
そのまた次を右に曲がるのは曲がった先にある時計屋のウィンドウで時間を確認したいから
次は井戸のある家の横を通りたいから
次は嫌いな人がいる家の前を通りたくないから



こうやって自分が使いなれた裏路地ルートには
曲がり角ごとに必ず理由(個人的な感傷)があるのだということを
日々、小さな模型の街並を上からじっくり観察しておけば少しは
擦れ違いという名の迷子が戦争を起こさずに済むかもしれない




















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« X\'masプレゼント@立川 J.J  | トップ | 動きたい気持ち »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。