今は亡き灰谷健次郎さんが
障害のことを個性と呼び
その理由を著作物で幾つも明確に掲げておられる
それはどう歪曲しようとしても不動だにしない
明確な人間倫理だ
僕のように一般的な生活を送って来た人間でさえ
人に言えぬ葛藤の多少はあるのだから
健常者と呼ばれる人等が大枠を作ったこの社会
の仕組み、利便性の中で
障害と言う呼び名を付けられた人達は
いろんな不安や生きづらさがあるだろう
でも自分の中の固定観念を取り去り
少しでもアンテナを伸ばせば
すぐにそういう存在と触れ合う事が出来る
例え直接浦賀ベテルの家を訪問しなくとも
例えば「キミと僕」が取り扱いのご縁が繋がらなかったとしても
自分の身の回りで出会う人達の心の中に
生きづらさはいくらでも存在しているのだから
健常者でも障害者でも垣根を作らず
リスペクトすれば良いのだ
今回
菊地康之さんのご尽力により
ベテルさんとのご縁が出来たこと
誤解を怖れず言ってみるなら
単純に嬉しいとか光栄とかいう類いの感情とは
少々違うように思います
自分が普段生きている波長が
こういう場所と同調出来たのだな
と
思うばかりなのです
少し抽象的な言い方ですが…
僕の中に既にベテルは在り
ベテルには既に僕が内包されている
ベテルは
どの地にも誰の心にも
最初から在って然るべき存在の象徴なのでしょう
自分が
今まで見たことも無い風貌で
見たことの無い動きをし
聞いたことの無い声を発し
体験したことも無い触れ合いをしてくる相手
が居たとしても
その相手の発する信号を
心の芯で真直ぐキャッチ出来れば
すぐに仲良く慣れる
僕にとって
ただそれだけのことなのです
そしてその経験はお互いの人生に
歓びを運んでくれる
また1つ
大切な確認が出来ました