Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

鉄棒

2009-02-24 | 記憶の風景


実家のある場所から裏道を通って
最寄りの駅まで出る途中に一つ小学校がある

多分、自分が幼稚園児より小さな頃
毎朝その小学校の校庭の隅にある鉄棒で遊んでいた

児童たちの登校時間の前
まだ誰も居ない校庭の隅で鉄棒を少しだけやっては家に帰る

それは、裏道から表通りに出たところのバス停から通勤する父を
母と一緒に毎朝見送りに行っていた
その帰り道の日課だった

なにか...その記憶の色は、憂色を帯びている



大人になってから
人の行動には必ず、その情動に向かう理由がある
と知るようになった

静かに記憶の中の自分の「視界の外」に想いをはせると見えてくる風景

父は働きに出る時、家族と離れるのが少し寂しかったのだ
「仕事なんか行きたくない」と出がけに冗談のように口にしたかもしれない
それで妻と子に見送ってもらいたかったのだ
母も父が出勤したあとの時間、父方の祖父母と生活することが不安なのだ
父がバスに乗って行ったあと、母はその不安を抱いたまま僕を鉄棒で遊ばせ
なるべくゆっくりと家に帰るつもりなのだ

鉄棒で遊びながら3歳くらいの僕は、後頭部で母の憂いも感じている
何かを恐れ、手放しに喜び遊んではいけない、と感じている..

「手放しに喜んではいけない」という感覚の積み重ねは
確実に僕の中に植え付けられてゆき
その後の僕を、控えめな言霊の大人へと育てていった

そこから生まれるストレスは、ギターとの縁を生み
爪弾く音の安らぎに逃避し埋没しようとしてゆく
が、その楽器を職業に選んだことは逆に
「人前に立つなら控えめではいけない」という商業的フィールにせっつかれることになる

人の憂いを敏感に察し、自分の身の置き所を控えながら生きてきた僕は
段々と押し出す強さを身に付けると同時に乱暴者になっていった

乱暴者は涙を流しながら怒号し、憂いを発する人間を軽視し
一見、自由に見えるものと引き換えに優しさを見失い、一時の糧を得る
そういった歪な物が僕の中に沢山ある

歪ゆえの葛藤がまた
音に美しい憂いをもたらす

人とは、人生とは、直視したら即、矛盾
そして葛藤...
途切れることのないメビウスの輪の中で
身が引きちぎれないようにするだけでいっぱいいっぱいじゃないか?


もうすぐ人の親になる

出来ることなら、子に、矛盾を押しつけたくない
と思うが
そんなことが出来る人間はいない、と、早くも観念した

矛盾を与え与えられながら一緒に学習してゆくしかないのだろう
あれだけ自分が脅えた「大人の憂い」を自分の子に背負わせることもしながら

諦めとともにそう思い当たった時
親から受けて「重荷」と感じてきた数々の事柄が
重荷でも何でもなくなって、ただ産み落としてもらったことを感謝する心だけが残った


早朝の小学校
校庭の端にある鉄棒
長い間、影帽子のようにまとわりついた僕の後ろ側にあった憂い
それら一連のものたちが長い年月を経て
今はやっと一枚の美しい絵になってきた






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