Rosa Guitarra

ギタリスト榊原長紀のブログです

「サンタクロースの手」

2008-10-23 | 記憶の風景
最近、文字が出てこなかったのだが
一つ前の記事を書いたら、何故かスッキリして
記憶の風景の一つを書きたくなった


僕は、子供の頃、サンタクロースの手を見たことがある

もちろん幻だと思っているが、今でもその手を、ハッキリ憶えている



あれは何歳だったろうか
まだ小学生以前だったように思う

クリスマスにサンタクロースがプレゼントを持って来てくれる
という大人の話を半分くらい信じながら
居るなら会ってみたい、と思っていた


イブの夜、家の1階で夕食を取って
まだ皆が食事中なのに自分一人、2階へ上がった
プレゼントが置かれるとしたら、その部屋なのだ

常夜灯の薄暗い光
冬なのに、何故か窓が開いていた

寒い...

綺麗好きな母が、食事中を利用して、
部屋の空気入れ替えをするために開けていったに違いない

日曜の朝とか、布団を剥ぎ取って起こすし
冬だっていうのに、なんで窓開けとくんだ

心の中で舌打ちをしたことをハッキリ憶えている


部屋の電気を点けるよりも
プレゼントが届いてないか、と薄暗い中でキョロキョロした

押し入れも開けてみたがプレゼントは来ていなかった

軽い失望とともに1階へ戻ろうと踵をかえしたその時
開いた窓から吹き込む風に揺れるカーテンの下に
大きな手が一瞬見えて、すぐ引っ込んだ

それはジャガイモのような色をして
太い葉巻のような形の指が数本
指の甲には薄らと金色の産毛が生えていた


ビクンと恐怖で体が硬直したままカーテンを見つめた

物音は全くしない

「その手の大きさからしたら
身長2メートルくらいあるサンタが、窓の外に居る...」


窓の外に、トナカイのソリが、音もなく宙に浮かんでいるのか
空高い場所にソリを待機させて一人でやってきたサンタは
僕に見付かり、今、窓の下に咄嗟に身を隠して息をひそめているか
そのどちらかしかない

カーテンをめくった途端もし、大きな毛むくじゃらの顔と目が合ったら
サンタよりデカイ声を出して恐怖を紛らわせればいいか...
心の準備をして窓に近づいた

いつでも逃げられる体制で
限界まで手を伸ばして
指先でカーテンの端をつまんで
悲鳴を上げないようグッと息を止めて
サッと開けた途端、数メートル飛び退いた



...当然
何も居ない


緊張を解かず
やはりいつでも逃げられる体制を取りながら
そ~っと窓の下を覗いた
が、やはり何も居ない...



窓から首を出したまま、しばらくキョロキョロと外を見回した

緊張が徐々に緩み、再び外気の寒さに気付いた時
高い空のどこかから「♪シャン♪シャン♪シャン♪」と
ベルの音が遠のいてゆくのが聞こえた気がした

いや
現実は聞こえてないのだけれど
明らかに聞こえたのだ

「やっぱり来てたんだ」
そう思った


そのあと1階に転がり降り
「サンタの手を見た!サンタの手を見た!」と興奮して親に告げたことは憶えているが
親の反応は何故か憶えていない

その年のプレゼントは何だったか..
それもよく憶えていない





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「老眼鏡」

2008-10-13 | 記憶の風景
40過ぎた頃から少しずつ、譜面を見る距離が離れて来て
だいぶ経った頃、100円ショップで老眼鏡を試してみて
初めて自分が老眼になっていたことに気付いた

そして嬉しくなった


まず「遠中近メガネ」を作った

その時、鼻にちょこんと乗せる小さなメガネが欲しい
と思ったのだが、実用性を考えて普通のにした


さらに進行して最近2つ目の「中近メガネ」を買った

今回もまた
鼻にちょこんと乗っける小さいやつが欲しいと思ったが
まぁ...普通のにした

早く、小さいやつが似合う顔になりたい..




まだ魂が入る手前の、ただの木彫り人形のピノキオに
自分の子供のように話しかける独り暮らしのゼペット爺さんは鼻眼鏡をしている

その願いのこもったピノキオの冒頭部で何度泣いただろう



子育てに直接的な責任の無いポジションにいる、おじいちゃんおばあちゃんは
孫がワガママを言ってもいつも優しい

そして、おこずかいをくれる前に、鼻眼鏡をする

おじいちゃんかおばあちゃんが老眼鏡をかけたら、おこずかいが貰える
パブロフの犬状態なのだ




思春期の頃から「鼻にちょこんと乗せる老眼鏡」に憧れていた

それは、小さな自分が、気付かぬうちに受けた
大人からの穏やかな愛の象徴なのだ


早く、鼻眼鏡が似合う顔になりたい

宇野重吉みたいな^^


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「水中登校」

2008-09-25 | 記憶の風景
小学低学年の頃
雨の日に履かされる長靴が嫌だった

だけど雨が止むと
出来た水溜まりで遊ぶのは大好きだった


水溜まりは深いほど良い

深い場所を見つけては長靴の淵ギリギリまで水に浸かって
傘の先で水の底を突っついた

「ここに魚がいればいいのに」と、いつも思っていた



ある時、台風が来て
かなりの水溜まりが出来た時
町中が、いっそ胸くらいまで溜まればいいのに、と思った

そしてゴムボートで登校したら楽しい

いや、いっそ水中メガネとシュノーケルをして
水の中の風景を見ながら登校したい


水中に沈んだガードレールや街路樹に掴まりながら
街路樹の根元にいつもある、蟻の巣なんかがどうなってるかを見ながら進む
歩道橋に着いたら立ち上がって渡って
渡ったらまた水中を行くのだ


学校が近づくとクラスメートに水中で挨拶出来る

休み時間は、校庭の端の物置の裏とか
プールと塀の間の狭いところなんかに行ってみよう
水中に沈んだ雑草なんかが、ワカメみたいにユラユラ揺れているに違いない

ジャングルジムは、掴まるとこが沢山あるから
勢い良く水中を進める
そこで水中鬼ごっこが出来る


涎を垂らしそうに憧れながら
この妄想を何度しただろう

今でも、駅まで行くバス通りの途中にある歩道橋のところを
歩いて通る時
水中メガネをしてパシャパシャ泳いでいる小さい自分の姿が
うっすら見えるのだ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「屋根づたい」

2008-09-25 | 記憶の風景
晴れている

空気が赤茶けたような、乾燥しているような
それでいて空は高く、抜けるような青である

秋口なのだろうか
子供の自分が一人、家の二階に居る


多分、昭和40年くらい...
まだ、そこらへんを3輪のトラックやバスが走っていた


自宅の二階から、当時平屋だった部分の屋根へ降りようとしている


昔レンガ色のペンキで塗られたトタンの屋根が
太陽に照らされ熱くなっているのがわかる

ペンキが剥げかけ、トタンの生地が出ている部分は
更に熱そうだと思って見ている


二階の窓の外にくくり付けられた小さな手摺を乗り越えて
樋をつたいトタンの上に降り
見付からぬよう忍び足で塀までたどり着く

そうしたら隣の家の樋をつたって屋根へと登り
そのまた隣の屋根へ渡る

家が途切れた部分は、塀の上を歩き、木の枝の中を行く

時々、よその家の庭も横切らなければならない

もし庭に面した居間で食事をしていたら
身を低くして息を殺して、窓の下を這いながら通る


そうして、家から200メートルくらい離れた表通りまで
自分だけの秘密の通路を行く

最後に表通りに出る時は、近くにある交番のお巡りさんに見付からぬよう
塀の上からさりげなく「シタッ」と音も無く飛び降り
何気ない顔で歩き始めなければならない



2階の窓から外の屋根を見ては、毎日こういう妄想をしていた
だから記憶の風景として残っているのだろうか...

一人で居る心細さも無く、そこはかとなく心地良い記憶の中の風景



塀づたいにウチの庭にやってくる猫を目撃すると
今でもその妄想がよみがえる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする