さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

瑛九という画家のこと

2020年05月23日 | 美術・絵画
 インターネットのおかげで、自分の知らなかった画家の絵の写真を見ることができるようになった。オークションで瑛九の版画は比較的安価だから、私のような資力の乏しい者でも買うことができるのはありがたいが、それは裏を返せば瑛九の知名度が低いということを意味しているだろう。詩歌にかかわる人たちと私は瑛九のことを話題にしたことがない。それは自分が知らなかったのだから仕方がないが、何だかとても損をしてきたような気が今はするのだ。

瑛九の版画には、本体と影とが、男女のかたちをして絡みあったり、一人が二人に、二人が一人になっているという図柄が多い。これが人ではなく、動物や植物が主体になっている場合もある。シュールリアリズムの手法に拠りながら、鏡像関係のなかにある自己とその生活の形象化ということを試みている。ちょっと見ると、ピカソやミロやロベルト・マッタの模倣ではないかというような図柄が多いのだが、そこから出発して1960年に48歳で永眠するまで独自の自己展開する運筆法のようなものを編み出していったことが読み取れる。

その多くはきわめてエロス的な図柄なのだが、作品行為の基調に諧謔を好む闊達な精神が息づいていて、遊び心にあふれている。何よりも、自己というものが、他者や自然、それから自らの内なる無意識のようなものに反射して、自己愛は他者への愛に通じ、他者への愛は自己愛に反転するといった堂々巡りする生のなまなましい(ぐちゃぐちゃの)現場を、繰り返し飽くことなく描いているのが瑛九の版画作品というものであると私は言いたい。要するに瑛九の版画は、きわめて文学的に解釈できる要素を持っていると言えるし、また文学その他の表現に対して示唆するものを多く蔵している。

今日、注文してあった『現代美術の父 瑛九展』(1979年小田急グランドギャラリー)という展覧会のカタログが届いた。それを見ると、瑛九の友人である福井県の木水育男という人の文章が収録されている。友人への手紙のなかで画家は次のように述べている。

「僕は我々の現実を一つの理想、あるいはイデオロギーで批判しようとするよりも、その中ですべてを肯定して生きようとします。つまり日本を批判し他によいものがあるという風に精神を傾斜させるよりも日本の中に生きることを大切にするのです。」

この手紙の言葉は、瑛九の版画の画面に横溢する明るさと、軽快で楽し気なユーモアの底にある思いを直接的にあらわしている。端的に画家の生きる姿勢が表明されている。

戦後すぐ共産党に入党し、数ヶ月で離脱している。自由美術協会をやめたあと1951年に「デモクラ―ト美術協会」を組織。1952年に宮崎から浦和に転居した。そうして同じ年にデモクラ―ト美術協会の会員に加藤正、河原温、利根山光人、靉嘔、福島辰夫、山城隆一、細江英公、磯部行久、吉原英雄、池田満寿夫らの新人を迎えた、と年譜にある。そうして同年には、久保貞次郎、北川民次、室靖等と創造美育協会を設立した、とある。何という絢爛たる名前に囲まれていることか。

私の瑛九への関心は池田満寿夫からたどって行って出会ったのである。池田は1976年3月号の月刊「プレイボーイ」のインタヴューで、瑛九という啓蒙家に薦められて版画を始めたと語っているが、私はこの「啓蒙家」という言い方に池田の瑛九への評価が読み取れると思った。客観的に説明して言っているようでいて、どこか敬意に乏しい。記事を読みながら芥川賞を受賞して絶好調の頃の池田満寿夫の鼻息の荒さを思い起こした。

2020年の現在、人間や動物や植物をひとしなみに「性」的存在として一元的につかんで、その営みのすべてをカリカチュアライズし、反語的にとらえながら、同時に肯定してゆこうとする瑛九の版画の描法の意義は、きわめて高くなっているように思われる。その画面は愉快だけれども、決して安易な楽観にだけ彩られてはいない。抱き合う男女や動物たちは、あらわによじれ合いながら植物的な生態をとって投げ出されている。瑛九のエロティックな版画は、詩人や精神科医の新婚家庭の壁にかけることもできる気がする。

年譜を見ていたら、短歌の分野では歌人の加藤克巳が歌集『宇宙塵』に瑛九のエッチングを飾画として入れているのが目についた。さすがに芸術的前衛を自称していただけのことはある。加藤克巳も再読されるべき作者の一人だろう。何十年も経たのちに過去のものが新しく見えてくるということは、どの分野でもある。

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