さいかち亭雑記

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柄谷行人の言葉を参照しつつ、「論理的」「国語」とは何かを考える

2018年11月23日 | 大学入試改革
柄谷行人の言葉を参照しつつ、「論理的」「国語」とは何かを考える

 阿部昭の『千年』について、柄谷行人が『言葉と悲劇』のなかの夏目漱石を論じた章で触れたことばが印象に残っている。

「五歳の子供は、もうすべてを了解しているのではないでしょうか。彼は、親がもう万能の神ではないし、親にもどうにもならないものがあるということを、わかっています。それは、ある純粋な悲哀であり、不条理感です。それ以後われわれが何を学んだとしても、その時に感じた人生や世界についての把握に、付加するものなどないのではないか。ところが、五歳を過ぎ、小学校に行くようになれば、もはやただの幼稚な子供になってしまいます。(改行)ギリシア悲劇は、そういう意味で、五歳ごろに持っていたような世界の把握を思い出させるのです。そういう類推でいえば、シェイクスピア悲劇は、十一、二歳のころのような感じがあります。この時期の子供も、高校生や大学生以上に世界が見えていると思う。自分自身に関して、そう思うことがありますね。いうまでもなく、僕は発達心理学的に考えているのではありません。「他愛ない」ことは確かだとしても、しかし、そこに人間的条件が凝縮されて現れているのだ、ということをいいたいだけです。」(「言葉と悲劇」)

 さて、「言葉と悲劇」のなかの当面気になっているくだりについて、引いてみよう。

「オースティンの『言語行為論』によると、文には、事実を述べている(コンスタティブ)のと、行為をさせようとする(パフォーマティブ)のとがある。「このマイクはおかしい」というのは、ある客観的な事実を述べているように見えながら、それは「直せ」と語っているわけです。したがって「何々である」というようなことは、客観的な事実の陳述というより、つねに命令というか、何かしらそういうメッセージを含んでいます。
 これを数学でいえば、「1足す1は2である」は、けっして事実を語っているのではなくて、そのようにせよという命令を語っているのです。そこをまちがえてしまうと、数学の基礎論でも、ウィトゲンシュタインが指摘したように、まるで必要のない基礎づけをすることになってしまう。」

「(略)言語は、その根底においてパフォーマティヴだというべきです。ところが、コミュニケーションの理論は、まったくそれを省いています。(略)コミュニケーションというと、ふつうは事態についての言明の交換とみなされています。そして、話すほうと聞くほうの間に、客観的な、ノーマルなコミュニケーションが考えられているわけです。ノーマルなコミュニケーションとはそのようなものであり、そうでないのは例外と思いがちですね。しかし、たとえば僕らの生いたちを考えてみれば、ノーマルなコミュニケーションというのは、むしろ結果的に後から考えられたものである、というべきではないでしょうか。なぜなら、当り前のことをいうようですが、僕らにとって最初のコミュニケーションは、親との関係においてであるからです。親子の、けっして対称的でないような、均等でないような関係の中でのコミュニケーションが、いちばんの基底にあります。」

 教育の場において、文学作品は、言語のこうした「非対称的関係」についての認識を深めることができる唯一のものである。たとえば新美南吉の「ごんぎつね」は、善意(の行為と言葉)が報われないということの悲劇性と不条理の存在を子供たちに教えている。子供たちはそこから無理に「意味」を読み取る必要はない。そこで生の不条理に触れる(向き合う)だけでいいのである。

 高校の「論理国語」の内容から「文学」教材を排除するということは、柄谷の言う意味での言語のパフォーマティブな働きについて一切顧慮しない「コミュニケーション理論」に立脚して「国語」教育を構想する、ということである。

 「論理」ということで言えば、たとえば芥川龍之介の「羅生門」では、「悪をなす」ことをためらっていた主人公が、門の上で女の髪を抜くという「悪」をなしていた老婆の自己弁明の論理を逆用することによって自分の強盗行為を正当化する様子を描いていた。極限状況のなかで言語はどのように作用するか、人間のモラルが、いかに言語がらみのものであるかということを教えることができる教材である。

 しかし、一年生必修二単位の「現代の国語」にこれを収めることは、文科省の担当官の科目内容の口頭説明によれば、できない。それは「言語文化」で扱えというのである。しかし、一年生で二~三単位(週に二~三時間)しか「国語」の時間がとれない学校もあるのだから、もうひとつの必修科目「言語文化」で古典を扱ったら、とても以前のように「文学」に時間を割けない。特に一、二年でだいたい二単位程度しか「国語」科の時間がとれない商業科・工業科などの学生は、「文学」を排除した「現代の国語」以外学ぶことができないということを意味する。

 しかし、これはたとえば相手を説得する時に何が必要かを考えればわかるように、言語についての感覚を鈍らせることにつながるのではないだろうか。たとえば文化交流や外交の場において、どのような「論理」的な「国語」が駆使されているかを考えてみればいいだろう。そこでは「情念」や相手の持つ「教養」や「感性」への顧慮と歴史についての知識が不可欠である。というよりも、それに先立つ身体的な表現力や共感力とそれを表現する力がまずもとめられている。

 柄谷のいう言語の根柢的な「非対称性」についての知見と知恵を育てること、それが本来「論理国語」において求められるものでないだろうか。そうして、言葉と人間の存在にまつわる「悲劇」の意味を「文学」を通じて受けとめる感性の訓練を経るということが、若者には必要である。われわれは「伊勢物語」や「源氏物語」や「平家物語」や「史記」や「山月記」や「こころ」や「舞姫」をなぜ学習する必要があるのか。そういうことは、むろん常に検証されてよいが、今再びそこから議論を始めなければならないのだろうか。しかし、時間は限られているのだ。

 新学習指導要領に名をかりて、そういう「文学」や「古典」そのものに触れる時間を事実上減らすことにつながる高校の「国語」の新科目の設置が、いま強行されようとしている。彼ら文科省の役人がどのような「コミュニケーション理論」を持っているか、ということの検討は、九月に刊行された紅野謙介『国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領』によってなされている。これは、この問題に関心を持つ人の必読書である。

※ いま鷗外の「カズイスチカ」を見ていたら、Coup d'oeil という言葉があって、検索すると「全局を察する一眺」(斎藤和英大辞典)とあった。新学習指導要領と教科書検定の実態について、上記文章がCoup d'oeil に資することを願っている。


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