さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

諸書雑記 8月12日

2022年08月12日 | 
 やっと夏休みである。
 
〇先週から芳賀徹の『文明としての徳川日本』を愉しみながら読んでいる。著者も楽しみながらつづっている。自分の審美的体験のおさらいのような内容なのだが、あらためて江戸時代の代表的な芸術・古典の持つ滋味を思わせられる。つながりのあるところでは、新潮社の「波」の八月号をみると、落語や浮世絵を取りあげた連載があって、江戸時代との文化の連続性を意識した編集なのかもしれない。

〇この休みのために買っておいた「群像」9月号を取り出して、町田康の小説を久しぶりに読む。それから松浦寿輝の小説を読み始めて、よみおわるのが惜しくなって、読みさしてこのブログの文章を書き始めた。

 そのむかし、思潮社刊の白い松浦寿輝詩集の「封筒、水漏れ」なんていうことばの響きが好きだった。ふうとう、みずもれ、この四音、四音の心地よさ。私は渋沢孝輔の詩が高校時代から好きだったが、どうも即興的に音数律のうえで定型的な響きをつくりだす詩が好きなのである。私がどちらかというと短歌プロパーなのは、音から詩に入っているせいだろう。ちなみに松浦のこの最新小説には、シェークスピアの詩の訳がある。岡井隆に『夢と同じもの』というタイトルの歌集があるが、そのタイトルのもとになったシェークスピアの詩だ。一部を引く。

雲を頂く塔も、豪奢な宮殿も、
荘厳な寺院も、巨大な地球そのものも、さよう、
地上に受け継がれてきた何もかもが、いずれは消滅し去り、
今この場に薄れつつある実体のない見世物さながら、
後には何の痕跡も残しません。われわれは
夢と同じ材料でできていて、われわれのささやかな生は
眠りで包まれているのです。     松浦訳

この文章は14日に書き加えているのだが、お盆にぴったりな気もする。

〇横尾清志『日本語を鍛えるための論理思考トレーニング』(2007年 ベレ出版)という本を版元に問い合わせたら品切れということだった。帯文に「これまでの学校教育における国語教育のなかでは文学的なものがその主流となっており、「議論」や「論証」といった実際の社会生活において求められる論理性といった視点から国語を訓練するような場が設けられてこなかった。」とある。

ここで著者が言っていることは別にまちがっていない。けれども、極限まで小学校での「国語」の時間数を削ってしまって、その上で「論理」といっても砂上に楼閣を築こうとするようなものである。いまは高校で「論理国語」なんていう科目が新設される時代だが、そもそも「論理」が可能になるには、その前提として、さまざまな文脈を持つ日本語の文章をたくさん読むという経験の蓄積が大切である。ここに気になる報道がある。

最新のニュースによると、小学校では「ごんぎつね」さえも文章の中身を読み取れないという子供がふえているそうだ。文章の細かい内容の「読み取り」は、一定の文章を読む訓練を積み重ねているから可能になるのであって、昨今のように映像を先に見てしまうと、絵本に見向きもしなくなる子供がいるのである。そういう子供は漫画も読めないということで、これまで世間の大人が常識としてとらえてきた子供の言語、文章(文脈)理解力の発達というものについてのイメージが根本的に揺らいでいる。

文章を一文一文読み取ることを重視する教科研の国語指導方式を何十年も文科省は敵視して来て、「文章の丁寧な読み取りに偏してはならない」と学習指導要領に書き込むぐらいだったが、ここに来て、ユーチューブ全盛時代のなかで事態は予想もつかないところにまで進展してしまっているということができる。「英語」や「情報」に圧されて「国語」の時間を最小限にまで削ってしまった結果がこれである。「ごんぎつね」のラストの兵十の言葉の意味、「ごん、おまえだったのか」という言葉にこめられた兵十の感情が理解できないというのは、悲劇としか言いようがない。

これは参考までに書いておくが、先日子育てをしている私の同僚と話していたら、子供にユーチューブを見せてしまったら、夢中になって、もっとみせろ、もっと見せろ、と要求する。それでグズらないのはいいいけれども、今は絵本なんか見向きもしない、どうも失敗した、と言っていた。

保育や幼児教育の現場では、安易に映像に流れることなく、絵や簡単なひらがなの喚起するイメージを大切にして、読み聞かせによる集中力、傾聴力の育成につめとてほしいものである。

〇「方代研究」71号をめくる。阿木津英の文章に引かれた一首、

  力には力をもちてというような正しいことは通じないのよ  『迦葉』

ウクライナでの戦争を思いつつこの歌に言及する筆者の平衡感覚を私はいいと思う。

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