さいかち亭雑記

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伊集院静『いねむり先生』

2021年01月16日 | 
〇伊集院静『いねむり先生』(2013年8月集英社文庫)、『旅人よ どの街で死ぬか。』(2017年3月刊)
 この作家の書いたものは、エッセイは別にしてあまり読んだことがなかったので、今回はじめてまとめて読んだ。旅をしながらどこで死ねるのかを考えるということと、普通に生活しながら自分がいつ死ぬかを考えるということとの間に違いがあるとすると、それはたぶん、旅の間に死ぬということが根本的に孤独であるということだろう。だから、旅の中での死は、普通の生活者ならば事故死に近いものであり、巡礼や求道者ならば修行中の死であり、流浪人なら行倒れのイメージと重なって来てしまう。人の死は、基本は家族や友人といった人間関係の輪のなかにあるべきものなのであり、そのこと自体は種としての人間にとっての真実であると言ってもよいだろうと思う。そうだとしても、真に孤独な人間にとっては、旅の中での孤独な死は、当然の、また必然の帰結として、常に脳裏を去らない規定事実であるのにちがいない。そのことの持っている意味の厳しさは、実際にそのようにして生きている人間にしかわからないことなのだと思う。

 『いねむり先生』のおもしろさは、いったん肉体的にも精神的にも生死の淵に立った語り手が、賭け事に死活の活を求めて生きる導師に巡り遇えたよろこびを率直かつ素直に、いきいきと語っている点にある。全体に筆がのぴのびとしていて、色川武大という人の不思議さ、おもしろさ、悲劇性を帯びた翳りというものが読み進むにつれて拡がって来るので、読みはじめたらやめられなくなった。『東海道中膝栗毛』というエンタテインメントの傑作をわれわれは文学史のなかに持っているが、『いねむり先生』はそういう道中物の型を知ってか知らずか、なぞっているようなところがあり、人が動けば出会いとハプニングがあり、それに読み手は限りなく好奇心をそそられる。さらに人はどのようにして蘇生するのか、ということに対する答、またはヒントが、この小説には示されており、それは読み手が各々場面のディテールを感受することを通じて理解すればよいのだろう。私なりにあちこち付箋を付けてみたが、それを書いてしまうのは気恥ずかしいことだからここではしない。

 私がこの作家の書いたものをこれまで読まなかった理由の一つは、本のタイトルに心をひかれなかったからで、『旅人よ どの街で死ぬか。 男の美眺』も、ここまで言わないとわかってもらえない、という一種の諦念を含んだ作者の絶望が感じられるタイトルではあるのだけれども、私はこのタイトルをはじめ見た時に、その語感のセンスがいやだと思った。読了してから絶壁に身を投げ出すような孤独者の覚悟が感じられるものだということがわかって、末尾の方に触れられていた『いねむり先生』をいそいで取り寄せて読んだ。それは傑作だったのでこの小文を記すことにした。その小説は映画化されているようだけれども、私は見たことがない。

 さて『旅人よ どの街で死ぬか。』にビルバオ・グッゲンハイム美術館を訪れる一節がある。

「かつて露天掘りの鉄鋼業で繁栄し、時代に取り残され衰退していた谷間の街が、見事に再生した。そうだろうか。将来も人々はここを訪れているだろうか。
 人が特定の土地、場所に引き寄せられるのは、もっと根源的な何かがあるからではないだろうか。」

 私はこのあとの一文の調律が気に入らないので、続けてここには引かないが、こうして述べられている趣旨には頷かせられる。

 ついでに書いておくと、先週の「毎日新聞」の書評で『評伝フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕』=マーク・ラムスター著、松井健太・訳、横手義洋・監修(左右社・6930円)が紹介されている中で、フィリップ・ジョンソンとグッゲンハイム美術館との出会いについて触れられていたのを読んだ覚えがあるが、ネットで検索すると記事の後半が有料なので確かめられない。少なくとも、フィリップ・ジョンソンと伊集院静の志向するものが正反対である、ということは推測できる。今回のコロナ流行という事態のなかでビルバオ・グッゲンハイム美術館などは相当な打撃を被っていることだろう。

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