さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 310-315

2017年08月12日 | 桂園一枝講義口訳
310
ふじの根(※嶺の当て字)を木の間木の間にかへりみて松のかげふむ浮島がはら
五五八 ふじのねを木間(このま)木間にかへり見て松のかげふむ浮しまが原 文政元年

□これは「中空」にあるなり。うたらしきのは、茲にのせるなり。
「浮島がはら」、原の駅の處なり。
○これは「中空」にあるのだ。歌らしい(出来のも)のは、ここに載せたのだ。
「浮島がはら」は、原の駅の場所である。

311
箱根山夕ゐるくもにやどからんふもとはとほし関はとざしぬ
五五九 箱根山夕(ゆふ)ゐる雲にやどからむふもとは遠し関はとざしぬ 文化二年 初句 イザサラバ

□此れは題詠「関路雲」の歌なり。少し「関路雲」にぴたりとせぬ故旅行の部へ入れたり。
「夕ゐる雲」は、夕べにしづまりたなびく故にいふなり。此の歌、旅人の難儀の体をよむなり。箱根は里とも云へり。大山の関でなければ、いはれぬなり。さて「宿をかる」といふことは、昔より明説なきなり。宿といふことをとくと会得すべし。
「や」は家なり。「と」は中間、空穴の名なり。「門」を「かど」といふは、「外(ルビ、そと)」の「と」也。通ふためにあけてある、ぬけてある処なり。明石のせと、淡路のせとなどは、間がせまきなり。港は水の流れ出づる海と川との境の名なり。「と」は物に行き当る詞なり。とどろく物どうし行きあたるなり。とんとんとするも行きあたるなり。
奈良の末より家のことをも「やど」といふことになりたり。「万葉」では戸口の事でないとわからぬなり。時代によるなり。「戸」は「口」なれども、家一軒を一戸といふが如し。
「万葉」に「やどの梅の花」「やどの呉竹」とあるは、戸口のところをさすなり。「やど」、「万葉」、「屋前」「戸前」とかけり。即ち今の庭前の類なり。
「やど」外にあるなり。家の前ならば庭前なり。それ故「万葉」などには「やどの庭」とつづくことは決してなきなり。今のみやこよりして「わが宿の庭白妙に雪」云々と貫之仰せられたり。段々に転ずるなり。それ故同時代でも土地によりては早くかはるところ(※ことろ、は誤植)とおそきとの差別あるなり。それは書にのこりたるだけは知らるるなり。
家持の歌に、わが宿に鷹をすゑる、とあり。家持の時分、半は今の京に入るなり。「やど」といはるるは、家居のことなり。
又「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」とあるは、家持よりも前とみゆるなり。いやしけれども家持と同様に「古今」に出せり。
さて「やどり」は宿入りなりや。「や」の「戸」に入るなり。
旅をすればいづくぞに「やどり」をせねばならぬなり。それ故旅ねすることを「やどり」となりたり。旅の詞のやうになりたり。ほんまは旅には限らねども旅のやうになるなり。「やどる」といふは、宿かるわけになるなり。

○これは題詠「関路雲」の歌である。少し「関路雲」にぴたりとしないものだから、旅行の部へ入れた。
「夕ゐる雲」は、夕べに鎮まってたなびくので(そう)言うのである。この歌は、旅人の難儀の様子を詠んでいるのだ。箱根は里とも言った。大きな山の関でなければ、(そのようには)言うことができないのである。さて「宿をかる」ということは、昔からはっきりとした説がないのである。宿ということをよくよく会得するがいい。
「や」は家である。「と」は中間、空穴の呼び名である。「門」を「かど」というのは、「外(ルビ、そと)」の「と」である。通うためにあけてある、ぬけてある処である。「明石のせと」、「淡路のせと」などは、間がせまいのである。港は水の流れ出る海と川との境の名だ。「と」は物に行き当る詞である。とどろく物どうしが行き当たるのだ。とんとんと(音が)するのも行き当たる(様子を言ったもので)ある。
奈良(朝)の末(の頃)から家のことをも「やど」と言うことになった。「万葉」では、戸口の事でないとわからないのだ。時代によるのである。「戸」は「口」なれども、家一軒を一戸と言うようなものだ。
「万葉」に「やどの梅の花」「やどの呉竹」とあるのは、戸口のところをさすのだ。「やど」は、「万葉」に「屋前」「戸前」と書いている。すなわち今の庭前の類である。
「やど」は外にあるのだ。家の前ならば庭前である。それ故「万葉」などには「やどの庭」とつづくことは決してないのである。今のみやこ(平安京の頃)から「わが宿の庭白妙に雪」云々と貫之がおっしゃった。段々に(意味が)転じてきたのである。それだから同時代でも土地によっては、早く(意味が)変わるところ(※ことろ、は誤植)と遅いのとの差別があるのである。それは書物に残っているものだけは知られるのである。
家持の歌に、わが宿に鷹をすゑる、とある。家持の時分に、なかばが今の京(の意味)に入るのだ。(ここで)「やど」と言われているのは、家居のことである。
又「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」とあるのは、家持よりも前とみえるのである。歌格が低いけれども家持と同様に「古今」に出ている。
さて「やどり」は宿入りであろうか。「や」の「戸」に入るなり。
旅をすればどこかに「やどり」をしなければならないのである。それだから旅寝をすることを「やどり」と(言うように)なったのだ。旅の詞のようになった。本当は旅には限らないけれども旅のようになるのだ。「やどる」と言うのは、宿を借りることになるのだ。

※「やかたをの-たかをてにすゑ-みしまのに-からぬひまねく-つきぞへにける」大伴家持四〇三六。
※「きみまつと-あがこひをれば-わがやどの-すだれうごかし-秋の風ふく」額田王「万葉集」四九一。

312
むさし野のはてのたま山たまたまに向ふたかねのめづらしきかな
五六〇 むさしのゝはての玉山(たまやま)たまたまに向ふたかねのめづらしきかな 文化十五年 二句目 玉ノ玉山

□むさしの国に山はなきなり。西に向へば富士が真白にみゆるなり。東にむかへば常陸の筑波山が真黒にみゆるなり。玉山、玉川のあたりの山なり。至りて遠きなり。
○むさしの国に山はないのだ。西に向えば富士が真白にみえる。東にむかえば常陸の筑波山が真黒にみえるのである。「玉山」は、玉川のあたりの山である。至って遠いのである。

313
津の国にありときゝつる芥川まことはきよきながれなりけり
五六一 津国(つのくに)にありときゝつる芥川(あくたがは)まことは清き流れなりけり

□此れは芥川にやどりたる時の歌なり。
○これは芥川に泊まった時の歌だ。

314
夕附日いまはとしづむ波の上にあらはれそむるあはぢしま山
五六二 夕附日いまはとしづむ波の上にあらはれそむるあはぢしま山 文政五年

□実景を見ればたれもわかるなり。住吉にて貝拾ひたる時のうたなり。日落ちかかりてまだ入らぬさきは、霞と日光とでとんと見えぬなり。日おちてしづむとまぶき(ママ)ことなきゆゑ、その時淡路島がりんと見ゆるなり。

○実景を見れば誰もがわかるのだ。住吉で貝を拾った時の歌である。日が落ちかかってまだ入らない先は、霞と日光とでまったく見えないのだ。日が落ちて沈むと眩しいことがないので、その時に淡路島がりんとして(くっきり)見えるのである。

315
鷗とぶちぬわに立てる濱市のこゑうらなみにかよひけるかな
五六三 鷗とぶちぬわに立てる濱市(はまいち)の聲うら浪にかよひけるかな 文化三年

□いづみに行きてよめり。「ちぬわ」、ちぬの海といへり。濱市、大市なり。そこに魚荷を皆持つとるなり。
「鷗とぶ」、肴をとり食ふつもりか、ことの外かもめが集るなり。いまのかも川、鳶があつまるやうなるものなり。
「鷗飛ぶ」、といふ詞もなけれども、ここは飛びたるが実景なり。又随分いうてよき詞なり。
○和泉に行って詠んだ。「ちぬわ」は、茅渟海(ちぬのうみ)と言った。「濱市」は、大市である。そこに魚荷を皆が持ち集うのである。
「鷗とぶ」は、肴を取って食うつもりか、格別にかもめが集まるのである。いまのかも川に、鳶があつまるようなものである。
「鷗飛ぶ」、という詞(歌語)もないけれども、ここは飛んでいるのが実景である。又随分(そのように)言ってもよい詞である。

※以上。このあとの「恋歌」「雑歌」「雑躰」についての講義はない。

小索引 番号は通し番号

仁斎 伊藤仁斎 57 76
蘆庵 小沢蘆庵 62
真淵 賀茂真淵 39 279
黒岩一郎 23 206 209
『桂園遺稿』 4 7 284
契沖 119 158
六帖 『古今和歌六帖』 (8 22 28 90) 117 139 149 186 230 281
正義 『古今和歌集正義』 25 69 86 106 116
土佐 『土佐日記』 165 243 307
『新学異見』 134
宣長 本居宣長 12 19 39 78 96 138 156
山本嘉将 1 62 69 191

後記 
 景樹研究の一次資料でありながら、句読点を付したテキストも現代語訳もなかった。こみいった語釈や談義を、濁点も括弧もないテキストで読む手間と苦痛は、ちょっと言いようもないものがあった。たとえば「やは家なりとは中間空穴の名なり門をかとといふは外(そと)のと也通ふためにあけてあるぬけてある処なり」というような文章を初見ですらすら読むには相当な訓練が必要だし、そもそも時間がかかって仕方がない。それで自分で何とか起こしてみようと思ったのが、六年前にこの仕事を始めたきっかけである。当初は慣れなくて苦しんだが、だんだん景樹の話し癖に慣れて来ると、仕事や休みの合間に隙を見つけては、ぼちぼち起こして文意を考えるのが楽しくなった。これも彌冨濱雄の仕事があったればこそである。また、正宗敦夫については、明治三十年代に景樹の歌を引きながら兄の正宗白鳥と楽しげにやりとりした手紙が残されている。この作業を通して私なりに大いにリスペクトをこめたつもりである。どなたか正宗敦夫の歌集を編まないものか。

 訳は、随所で談話の筋がはっきりするように言葉を補ってみた。おかげで景樹の歌の構造や発想法がよくわかった気がする。言及されている人物や典籍についての注は、まだ補う必要があるが、ともかく一度まとまったかたちのものをここに提出しておきたい。

※なお、ここで得られた所見は、今年度後半に和歌文学会で発表する予定である。見直しをして簡単な冊子にまとめようと思うが、ここまでで何か気付かれたことがあればメール等で御批正を願いたい。


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