源頼朝は東国においては甲斐源氏を分解屈服させ、都に対しては福原の戦いにおける恩賞の申請を行なった。
それと同時に鎌倉殿はもう一つ重要なことを行なわなければならなかった。
それは、都の治安回復を図ること。そして四国讃岐国に籠もる平家に対する軍事対応を行なうことであった。
その方策は福原の戦い(一の谷の戦い)が終結すると同時に行なわれた。
まずは異母弟義経を都に止め、都の警備と畿内の武士達の統括に当たらせることとした。
ついで大内惟義や大井実春を伊賀、伊勢に派遣しその国々に頼朝の勢力を浸透させんとした。
伊賀伊勢は東海道に属し、東海道の国衙荘園の沙汰を任された頼朝の権限に基づくという根拠があった。さらに、平治の乱以前に近江国に所領を有していた佐々木秀義が彼の地に戻った。
そして頼朝の手はさらに西へと伸びていく。
頼朝は朝廷に四か条の奏上を行なった。そのうちの一つが畿内の武士達を義経の指揮下に置き平家追討に当たらせるというものである。
その方針に基づいて、西国にも鎌倉御家人を派遣することとした。
現在平家は四国讃岐国屋島にある。
この屋島を衝く前に四国から見た瀬戸内海の向こうにあたる山陽道を鎌倉の支配下に収めて、瀬戸内海の制海権をも握り平家に圧力を加えようというのである。
その山陽道を押さえるのに抜擢されたのが、範頼、義経に軍目付として付けられていた土肥実平と梶原景時なのである。
一条忠頼を謀殺した直後頼朝は使者を発した。
既に西国に向けて出発している土肥実平にはさらに西を目指すように伝え、平重衡を連れて一旦鎌倉に戻っていた梶原景時は上洛した後西国へと向かうこととなった。
その頃の畿内から西は、
伊勢に大井実春、伊賀に大内惟義、近江に佐々木秀義、西国進出の先鋒が土肥実平という形となっている。
その彼等を統括しているのが都にいる源義経。
そしてもう一人西国にいる男がいる。
それは摂津福原にいる源範頼である。
範頼は福原の戦い(一の谷の戦い)の後東国の御家人たちの多くが東国に帰還した後も、残った手勢を率い平家の反撃に備えて福原に残っていた。
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それと同時に鎌倉殿はもう一つ重要なことを行なわなければならなかった。
それは、都の治安回復を図ること。そして四国讃岐国に籠もる平家に対する軍事対応を行なうことであった。
その方策は福原の戦い(一の谷の戦い)が終結すると同時に行なわれた。
まずは異母弟義経を都に止め、都の警備と畿内の武士達の統括に当たらせることとした。
ついで大内惟義や大井実春を伊賀、伊勢に派遣しその国々に頼朝の勢力を浸透させんとした。
伊賀伊勢は東海道に属し、東海道の国衙荘園の沙汰を任された頼朝の権限に基づくという根拠があった。さらに、平治の乱以前に近江国に所領を有していた佐々木秀義が彼の地に戻った。
そして頼朝の手はさらに西へと伸びていく。
頼朝は朝廷に四か条の奏上を行なった。そのうちの一つが畿内の武士達を義経の指揮下に置き平家追討に当たらせるというものである。
その方針に基づいて、西国にも鎌倉御家人を派遣することとした。
現在平家は四国讃岐国屋島にある。
この屋島を衝く前に四国から見た瀬戸内海の向こうにあたる山陽道を鎌倉の支配下に収めて、瀬戸内海の制海権をも握り平家に圧力を加えようというのである。
その山陽道を押さえるのに抜擢されたのが、範頼、義経に軍目付として付けられていた土肥実平と梶原景時なのである。
一条忠頼を謀殺した直後頼朝は使者を発した。
既に西国に向けて出発している土肥実平にはさらに西を目指すように伝え、平重衡を連れて一旦鎌倉に戻っていた梶原景時は上洛した後西国へと向かうこととなった。
その頃の畿内から西は、
伊勢に大井実春、伊賀に大内惟義、近江に佐々木秀義、西国進出の先鋒が土肥実平という形となっている。
その彼等を統括しているのが都にいる源義経。
そしてもう一人西国にいる男がいる。
それは摂津福原にいる源範頼である。
範頼は福原の戦い(一の谷の戦い)の後東国の御家人たちの多くが東国に帰還した後も、残った手勢を率い平家の反撃に備えて福原に残っていた。
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