時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

工藤祐経の経歴 ー伊豆国武士の主は誰?ー 下

2010-10-17 06:01:56 | 蒲殿春秋解説
さて、源頼朝は挙兵以降一貫した方針を有しています。
それは「自分と同格の武家棟梁の存在を許さない」です。
その方針に基づき新田義重を臣従させたりしていまし、義仲との対立としたのもその方針が大きな要因になっていたのではないかと思われるのです。

当時の武士達は何人もの主を持つのが普通でした。(それは武士には限らない)
しかし、軍事的意味を考えると、その場にくるまでどちらの主に従うかわからないというのは主側にしてみれば困る話ですし、土地の訴訟問題などが絡むと
片方の主が下した裁定ともう一つの主が下した裁定が異なるということでは余計な混乱を招きそれらが積み重なると主同士の深刻な争いをもたらすということになるでしょう。
(例えて言えば、現在のA地裁とB地裁同時に同事件の訴訟が持ち込まれA地裁とB地裁が正反対の判決を出して、高裁以上が存在しないという状況)

そのようなことを考えて頼朝はそのような方針を堅持していたのではないかと私は考えています。

頼朝と同格だった新田義重は屈服し、敵対した志田義広は東国を去り、義仲は滅びました。
そうなると東国に残る同格の棟梁は甲斐源氏の面々ということになります。

甲斐源氏の人々のうち、加賀美遠光・長清親子ははやいうちに頼朝に接近して長清などは頼朝のお側衆となっています。信光も頼朝に早いうちに臣従したものと思われます。
安田義定は一旦は義仲と共に上洛し平家を都落ちに追い込んでその功績で遠江守になりますが、それ以前から頼朝と提携していた様子が窺えますし、その後も頼朝とは良い関係にあったようです。
一方武田信義、一条忠頼の場合はどうでしょうか?
一条忠頼は殺害され、その後甲斐侵攻があります。そのことを考えるとその時期までは彼等は頼朝と同格の地位を保ち続け頼朝に臣従する見込みはなかったものと考えるべきだと思われます。

その忠頼殺害、そして甲斐侵攻の直前に当たる3月中旬から4月初頭にかけて頼朝は伊豆国に滞在してます。
朝廷との折衝や畿内西国への軍進駐問題等を難事を抱えている最中にです。

その理由は何でしょうか?
それは一条忠頼と源頼朝両方を主としている伊豆国住人たちに、「頼朝だけを主にせよ」という下工作、すくなくとも一条忠頼側につくなという圧力をかけるためだったのではないかと思われるのです。

そのように考えますと、治承3年以降「吾妻鏡」に登場しない天野遠景の復活や、工藤祐経が「吾妻鏡」に登場するのは何故なのかという理由がはっきりする気がします。

伊豆国における一条忠頼勢力の排除と頼朝のみへの忠誠を誓わせる、その結果がその「吾妻鏡」の記載に現れているのではないかと思われるのです。

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