時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百三十二)

2010-11-03 06:20:12 | 蒲殿春秋
範頼が福原においてその軍勢を飽きさせないように苦慮していたその頃、範頼の養父藤原範季は都に於いて多忙な日々を過ごしていた。
範季が多忙となっていたその理由は崇徳院をお祀りする祠の造営に追われていたためである。
この時期この国は、旱魃、飢饉、火災、自然災害、そして全国規模の戦乱と多難に見舞われ続けている。
当時この原因は、保元の乱で破れ配所で寂しく崩御された崇徳院のお怒りによるものと思われていた。
それがゆえに崇徳院のお怒りを静めようと崇徳院をお祭する祠を造営していたのである。
祟りや加護を当たり前のように信じていたこの時代においてはこれが正しい政治判断であり、寺社造営は国政の柱の一つでもあった。

つまり、範季は国運を左右するかもしれない大事業の責任者となっていたのである。

この時期範季はそのような大事を動かす要人となりおおせていたのには理由がある。
範季の養女で実姪の範子が後鳥羽天皇の乳母であり、その範子の後見人が範季だったからである。
さらに言えば、範季は後白河法皇の院近臣でもある。
範季は、院と帝の安泰の為にもひいてはこの国に住する全てのものたちの安寧の為にもこの事業を成功させなければならない。

その範季は多忙な日々の中、もう一人の主の動向にも気をかけなければならない。
彼のもう一人の主とは右大臣九条兼実である。
兼実は故摂政忠通の子であるが、上に兄が二人いたため摂関の座に立つことはないと思われていた人物である。
その兼実に関して意外な申し出が院になされて兼実は当惑したものの喜びを隠せないという表情をここのところ浮かべている。

この時期鎌倉の源頼朝から九条兼実を藤原氏氏長者にされてはいかがかと後白河法皇に申入れをしてきたというのである。
本来氏長者とはその氏内部で決せられるべきものである。
しかし、保元の乱以降その地位は治天の君たる院によって定められるようになってきた。
藤原氏の長者ーそれは北家南家式家に分かれた藤原一族全ての頂点に君臨すると同時に、摂関家の所有する莫大な財産を得、
そして興福寺春日社などの氏寺氏社に影響力を及ぼすことのできる存在である。
そしてその氏長者になるということは、政界の頂点たる摂政関白の座に近づくということである。

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