時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百三十)

2010-10-24 16:32:26 | 蒲殿春秋
福原に留まる範頼のもとには様々な知らせが入ってきていた。
まず、西国に向かった土肥実平がまたまた甲斐源氏に悩まされているという知らせがった。

土肥実平が西国に向かったのは寿永三年(1184年)三月初頭。
その実平に甲斐源氏の板垣兼信がついていった。
平家が福原の戦いに敗れたといっても平家の力が西国から駆逐されたわけではないので連れて行く兵は多いほうがいい。
そういった意味で板垣兼信の従軍はありがたいものだった。

しかし、板垣兼信の思惑は実平から離れたところにあった。
兼信は自身の力を西国に及ぼそうと考えていたのである。
しかも兼信は「源氏一門」という自負心がある上に、今回の西国行きも木曽義仲討伐や福原の戦い同様鎌倉殿に「与力」したものと考えている。
つまり、未だに自分は鎌倉方への同盟者と考えている。

その兼信の立場からしてみれば、鎌倉殿の御家人に過ぎない土肥実平など取るに足りない存在だと思っている。
木曽義仲の戦いにおいても福原の戦いにおいても、一条忠頼、安田義定といった甲斐源氏の人々は義経、範頼と同格の存在だった。
その軍目付に過ぎない土肥実平は義経範頼などの源氏一門が同道していない以上源氏一門たる兼信に従うべき存在と信じて疑っていない。

だが、土肥実平の考えは違う。
彼が仕えるべき主は鎌倉殿源頼朝のみである。
現在畿内武士の統括と西国攻めを任されている義経はその代官に過ぎない。
義経が陣中にいない以上、実平は全て鎌倉の頼朝に判断を仰ぐべきと思い板垣兼信は単なる同行者としか見ていない。

土肥実平は自分の判断で、西国の国人を集め、国衙に入り、様々な検断を行なった。
そこに板垣兼信の口を一切挟ませなかった。
その事を板垣兼信は不快に思った。

そして兼信は鎌倉に文を送った。
「土肥実平は源氏一門である私になんの断りもなく事を進める。
今後は何でも私の指示に従うように実平に命令してください。」
と。

しかし、鎌倉から戻った使者の返事は次の通りだった。
「私(源頼朝)は実平を信頼して全てを任せている。あなたは武勇に励んでいればそれでいいのです。
すべてを実平にお任せ願いたい。」と。

兼信はこの返事に絶句した。
だが、西国に自分の力を及ぼしたい兼信はこの返事を聞いても納得せず土肥実平の近くに留まり、自分の血筋を時折協調しながら実平のすることに口出しするのを止めないという。

この話を聞いた範頼は苦笑いした。
土肥実平は、木曽攻めでは一条忠頼に振り回され続けていた。そして今度は板垣兼信に悩まされている。
つくづく実平は甲斐源氏とは相性が悪いものよ。とおもった。

その時範頼はこの一月先に起こる東国における甲斐源氏との戦いの事を予期すらしていなかった。

前回へ 目次へ 次回へ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿