時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百九十九)

2010-07-06 23:10:48 | 蒲殿春秋
北条時政はその後暫く色々と考えあぐねた。
時政の娘政子を頼朝は生涯鎌倉殿唯一の妻として遇すると宣言した。
だが、その言葉を信用してよいのだろうか?時政が鎌倉を去った背景の一つに頼朝の女性問題への不信感があったからである。
亀の前の事件もそうであるが、その前に新田義重の娘に頼朝が艶書を送った事実もある。
もしこの時頼朝が新田義重の娘を妻として迎え入れていたならば、その時点で政子は正室の座を追われることになり義重の娘が頼朝の正室に納まったであろう。
河内源氏の血を引き都の官位を有する新田義重の方が時政より格上なのだからである。
そのようなことをしでかした頼朝を時政は信用しきることができない。

けれどもそれから一年以上もの間頼朝は政子以外の女性を妻として遇していないのもまた事実である。
その父親が鎌倉を離れていたにも関わらず、である。

頼朝の言葉は果たして信用できるのか。
そしてまた、頼朝は政子を唯一の妻として遇することとの引き換えに時政が甲斐源氏との主従関係を解消することを要求してきている。
この時代の主従関係の解消は後世と違っていとも簡単に起きることであり、しかも家人側から解消を申し出ることも少なくない。

頼朝の舅という立場の方が甲斐源氏の家人という立場より時政にとって魅力的なのはよく判る。
だが、甲斐源氏との縁をそう簡単に切るのもためらわれる。

時政は暫くの間頼朝に甲斐源氏のことは明確な返答をしなかった。

一方頼朝はその時政の態度をあまり問題にはしていない。
━━ 甲斐源氏は壊滅させる。
という方針が彼の中で固まっているからである。
━━ だから、その後は舅殿は甲斐源氏に接触する利は無くなる。
頼朝が甲斐源氏壊滅を行なっている間時政がおとなしくしていてくれればそれで良いのである。
少なくともあの夜の言葉があった以上、頼朝がここにいる間は露骨に甲斐源氏に接触はできないであろう。

その後の時政は明確な返答をしなかったものの結局甲斐源氏の元には顔を出さなかった。
頼朝が暫く伊豆に居座った事、そして仕えている一条忠頼が未だに在京中だったことなどもあるが、とりあえず時政と甲斐源氏との縁はあの夜以後薄いものとなっていった。

そして頼朝のあの夜の宣言はその後も守られた。
頼朝とて男である。
政子の目を盗んでその後も色々な女性に手を出したりもした。
中には頼朝の子を産んだ女性もいた。
だが、頼朝が「妻」として遇したのはその生涯を通じて政子一人だけであったし、他の女性が産んだ子は頼朝自身の方針で「庶子」として遇し鎌倉には置いておくことはなかった。
政子は頼朝が死ぬまで頼朝の唯一の妻であり、頼朝の死後は鎌倉殿頼朝の後家として鎌倉において重みを持つ女性になったのである。

そしてその事実が頼朝の死後北条一族が力を得るのに大きな力となったのは間違いないのである。

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