時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百)

2010-07-07 19:55:57 | 蒲殿春秋
その頼朝は伊豆に入った日の翌日、狩野川の中州にいた。
彼が二十年近く流人として過ごしていた蛭が小島の配所の中に頼朝は佇んでいた。

何年もの間過ごしたこの小屋に頼朝は安達藤九郎盛長のみを供として再びやってきた。
現在の境遇とはあきらかに違うこの蛭が小島で過ごした日々・・・
この小屋は頼朝が過ごしていた頃とよりさらにまた痛んでいた。
だが、頼朝が流人として暮らしていた頃の痕跡を色濃く残し、吸う空気もあの頃と何一つ変わっていはいない。
かつて日々読経していた場所に座り、いつも富士を見上げていたあの場所に座った。藤九郎に命じてあの頃食べていたものを用意させた。いつも食べていた場所で一人でそれを味わった。米が殆ど入っていない雑穀だけが茶碗に半分だけ入っていた、それだけの食事を。
流人としてここに来た日の心細さ、そして流人として暮らした日々の中で味わった口には出せぬ色々な思い、それを改めて噛み締めた。

━━ 忘れてはならぬ。

頼朝の心の底に深く命じた。

━━ 今は鎌倉殿と呼ばれるようになった。多くのものがわしを主と仰いでおる。
今は食うもの一つ困ることはない。
だが忘れてはならない。わしは元々流人だったということを。

今更流人には戻れないし戻らない。
だが、流人だった事実は消し去ることができない。

ならばその事実を忘れずに受け入れて生き続けるしかない。
元々十四歳で絶たれていたはずの命である。
それから何十年も生きただけでも奇跡である。
挙兵後も何度も危機があった。石橋山の戦いの後では命すら危うい日々が続いた。それを潜り抜けたことも信じがたい。

鎌倉殿となって人に仰がれる身分になって、もしかしたらそれらの事を忘れていくかもしれない。現に今も忘れかけているかもしれない。
だが、過去の自分を忘れてはいけない。
過去があって今がある。

━━ 忘れてはならぬ。わしは元々流人であったのだ。

頼朝はこの日改めて過去を思い起こしていた。

そして、次の日から未来に向けて頼朝は大きく動くことになる。

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蒲殿春秋(四百九十九)

2010-07-06 23:10:48 | 蒲殿春秋
北条時政はその後暫く色々と考えあぐねた。
時政の娘政子を頼朝は生涯鎌倉殿唯一の妻として遇すると宣言した。
だが、その言葉を信用してよいのだろうか?時政が鎌倉を去った背景の一つに頼朝の女性問題への不信感があったからである。
亀の前の事件もそうであるが、その前に新田義重の娘に頼朝が艶書を送った事実もある。
もしこの時頼朝が新田義重の娘を妻として迎え入れていたならば、その時点で政子は正室の座を追われることになり義重の娘が頼朝の正室に納まったであろう。
河内源氏の血を引き都の官位を有する新田義重の方が時政より格上なのだからである。
そのようなことをしでかした頼朝を時政は信用しきることができない。

けれどもそれから一年以上もの間頼朝は政子以外の女性を妻として遇していないのもまた事実である。
その父親が鎌倉を離れていたにも関わらず、である。

頼朝の言葉は果たして信用できるのか。
そしてまた、頼朝は政子を唯一の妻として遇することとの引き換えに時政が甲斐源氏との主従関係を解消することを要求してきている。
この時代の主従関係の解消は後世と違っていとも簡単に起きることであり、しかも家人側から解消を申し出ることも少なくない。

頼朝の舅という立場の方が甲斐源氏の家人という立場より時政にとって魅力的なのはよく判る。
だが、甲斐源氏との縁をそう簡単に切るのもためらわれる。

時政は暫くの間頼朝に甲斐源氏のことは明確な返答をしなかった。

一方頼朝はその時政の態度をあまり問題にはしていない。
━━ 甲斐源氏は壊滅させる。
という方針が彼の中で固まっているからである。
━━ だから、その後は舅殿は甲斐源氏に接触する利は無くなる。
頼朝が甲斐源氏壊滅を行なっている間時政がおとなしくしていてくれればそれで良いのである。
少なくともあの夜の言葉があった以上、頼朝がここにいる間は露骨に甲斐源氏に接触はできないであろう。

その後の時政は明確な返答をしなかったものの結局甲斐源氏の元には顔を出さなかった。
頼朝が暫く伊豆に居座った事、そして仕えている一条忠頼が未だに在京中だったことなどもあるが、とりあえず時政と甲斐源氏との縁はあの夜以後薄いものとなっていった。

そして頼朝のあの夜の宣言はその後も守られた。
頼朝とて男である。
政子の目を盗んでその後も色々な女性に手を出したりもした。
中には頼朝の子を産んだ女性もいた。
だが、頼朝が「妻」として遇したのはその生涯を通じて政子一人だけであったし、他の女性が産んだ子は頼朝自身の方針で「庶子」として遇し鎌倉には置いておくことはなかった。
政子は頼朝が死ぬまで頼朝の唯一の妻であり、頼朝の死後は鎌倉殿頼朝の後家として鎌倉において重みを持つ女性になったのである。

そしてその事実が頼朝の死後北条一族が力を得るのに大きな力となったのは間違いないのである。

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蒲殿春秋(四百九十八)

2010-07-05 05:38:40 | 蒲殿春秋
時政は明らかに動揺している。
その時政の動揺を頼朝は見逃さなかった。
「いかがなされましたかな?舅殿。」
「い、いや。」
時政は必死に動揺を隠す。
頼朝は言葉を続ける。
「私の御台は永遠に現在の御台ただ一人。ということは即ち万寿が我が嫡子、その外戚たる舅殿は私の大切な身内ということになります。」
その言葉に対して時政は声も出ない。

「しかし、困ったことがあります。
舅殿は一昨年以来伊豆の本領に引きこもったきり。
何か良からぬ事を企んでいるのではないかと私に申すものもおりまする。」

頼朝は舅をじっと見据える。
「しかも悪いことに、鎌倉には一向に顔も出さぬくせに駿府には頻繁に足を運ぶとの噂もござる。」
これは噂ではなく事実である。

「舅殿は鎌倉殿の舅御であり、御嫡子の祖父君であられるにも関わらず、甲斐の人々の家人のようなお振る舞いをされているとも言われておりまする。」
これも事実である。

「舅殿、ここではっきりさせていただきたい。
私は東山道、東海道の沙汰を朝廷より任されてものでございまする。
甲斐、駿河、遠江が誰が支配なされようがこの朝廷よりいただいたこの宣旨は不変のものでございまする。
即ち甲斐の人々も我が支配下に有るべき者達ということになるのです。
そして此度私が遣わした軍勢が義仲を討ち、平家を追い落としました。朝廷の覚えがめでたいのは甲斐の人々と私のどちらだと思いますか?
あなたは東山道東海道の沙汰を任されている鎌倉殿の舅なのです。
その舅が我鎌倉殿の配下にあるべき甲斐の者達に対してその家人であるかのようなお振る舞いをなされるということは鎌倉殿である私、ひいてはあなたの孫である万寿の体面を傷つけることになるのです。」
頼朝は時政に対して冷たい視線を投げかける。
時は旧暦三月、夜でも汗ばむこともあるこの季節に時政はまるで真冬の川の中に放り込まれた心地に襲われている。

「舅殿、今後は甲斐や駿府に居座る方々とのご交際は今後一切ご遠慮いただきたい。
この後私の舅、私の子の祖父君としてのお立場を大切になされるならば・・・」
頼朝はそれだけ言うと時政を冷たい視線で見つめ、やがてその場を静かに立ち去った。

去り行く婿を時政はこわごわと見送った。

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蒲殿春秋(四百九十七)

2010-07-03 23:25:49 | 蒲殿春秋
時政は驚いた顔を浮かべた。
頼朝は呼び寄せた二人を振り返った。
「良いな。今宵のこの言葉そなたたち二人が証人ぞ。下がってよい。」
頼朝の二人の側近はまた次の間に戻った。

時政は頼朝の言葉に動揺した。
このようなことがあるとは予想だにしていなかったからである。

無位無官の小土豪の傍流の自分の娘がこの先も鎌倉殿源頼朝の唯一の妻として遇されるということである。
唯一の妻ということは必然的に鎌倉殿の正室として扱われ、その産んだ男子が鎌倉殿の嫡男となるというわけである。

時政の娘政子は確かに源頼朝の妻である。
しかし、頼朝が流人である当時であるならば問題にならなかった時政の身分の低さが頼朝の身分上昇によってその娘が頼朝の正室になることに対してに大きな障壁を与えている。

頼朝はこの年の前年、二十数年ぶりに流人の身分を脱して「従五位下」の位階を復活させた。
この時点で政子は頼朝の正室としては釣り合わない女となっている。
さらにこのたびの義仲追討、および平家追討の賞として頼朝にはさらなる身分上昇が見込まれる。

その恩賞はにより頼朝は公卿に相当近い地位にまでのぼるであろう。
もしかしたら近い将来本当に公卿になるかもしれない。
公卿の地位に上った場合、頼朝の正室にふさわしい女性は都にいる公卿の姫君ということになる。

無位無官の小土豪の娘など「数ある妻のうちの一人」として扱われ、「側室」として遇されるのが当然であるし、そうなっても時政は文句も言えない。文句をいったところで頼朝に無視されるのが目に見えている。北条の実力などその程度のものである。

実家の実力がある格上の女性を妻に迎えるということがその家にどのような利益をもたらすか、時政自身が痛いほど知り尽くしている。
都にも通じる駿河の実力者牧宗親の娘牧の方を妻に迎え入れてから、時政は伊豆での発言力も増したし、駿河の豪族達にも口を利けるようになってきている。

政治的な利益を考えると頼朝が身分高く実力ある女性を正室として迎え入れるのは当然のことと覚悟していた。
だが頼朝が身分と実家の実力がある女性を正室に迎え入れたならば、政子は側室に追いやられ、その産んだ子も身分有る女性の子によって庶長子へと追いやられる。
そうなった場合時政は鎌倉において鎌倉殿の舅という権威は限りなく少ないものになるし、下手をすれば万寿の祖父ということで嫡子になるべき万寿の弟の周囲に睨まれかねない。

その事を考えたら時政は頼朝に全てを賭ける気にはなれないのである。
身の安全の為やはり駿河伊豆を支配する甲斐源氏との誼も保っておかねばならないのである。

しかし、今頼朝は「御台(正室)は生涯今の御台(時政の娘)のみ」と宣言した。
その言葉をいますぐ真剣に受け止めることはできない。
だが、その言葉が真実ならば、時政には明るい将来が待っている。
時政は頼朝の唯一の舅となり、頼朝の後継者の外祖父となることが確約されるのである。
その立場は坂東において時政に有利に働くはずである。
伊豆の小土豪の傍流という立場を脱する機会を手にすることができるというのである。

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蒲殿春秋(四百九十六)

2010-07-01 05:44:06 | 蒲殿春秋
頼朝は伊豆につくと北条時政の邸に入った。

伊豆北条に入った頼朝を北条時政は快く迎え入れた。
狩というのはある集団軍事訓練の一つともいえる。頼朝の狩の一行の移動は軍団の移動といっても良いものである。
頼朝には多くの武者たちが同行している。その武者たちの宿所も時政が手配した。
同行した中に愛甲季隆、下河辺行平・政義兄弟といった名だたる弓の名手が多く存在する。
彼等の存在は頼朝の舅時政に、そして他の多くの伊豆豪族たちに無言の圧力をかけよう。

時政は自らの寝殿を婿の頼朝に明け渡してみずからはかつて婿を住まわせていた離れへと移っている。
その家の主が来客に自らの寝殿を明け渡すということは、その来客を自らより上の身分立場にあると認めているということである。
舅時政は婿頼朝を明らかに「主」として遇している。

やがて頼朝一行をもてなす宴が開かれる。
膳には伊豆の山海の珍味が並べられ、宴に遊女が呼ばれた。
時政からしてみれば精一杯のもてなしであることが見て取れる。

宴が終わると頼朝の近習の者達を残して多くの御家人たちが退出を行なった。
頼朝は頃合を見計らって舅の時政の元を訪れた。
頼朝は供に連れてきた江間四郎義時と、下河辺行平を次の間に控えさせ舅時政とさしで向かい合う。

時政が現在居間として使用している部屋を眺め渡した。
「あそこに姫がつけた墨の跡が。」
と頼朝は不意に声を発した。
時政が座す後ろの壁に頼朝の娘大姫がつけた墨の跡がある。
「おお、これは。」
と、時政が目をほころばす。
かつてこの居間は頼朝が妻の政子と娘大姫と三人で過ごしていたところであった。

時政は彼の初孫にあたる大姫をことのほか可愛がっていた。
「姫は元気にしておるか。」
「はい。ここのところ急に大人びてきておりまして。」
と頼朝は答える。
その答えに時政はなんともいえない表情を見せる。

「舅殿、礼を申しまする。」
「は?」
時政は虚を衝かれた顔をする。
「今こうして姫がいるのも万寿が生まれたのも舅殿のおかげでございまする。」
「・・・・・」
「御台がいなければ、御台が私と一緒になってくれなければ今あの二人はこの世に存在いたしませぬ。
そして、御台と一緒になってくれることを舅殿が認めてくれなくば少なくとも万寿は生まれることは無かった。
そして何よりも舅殿がこの世に生まれていなければ御台がこの世に生まれることは無かった。
そのことだけでも舅殿には深い恩義がござる。」
「・・・・・」
「それだけではござりません。十四でここに流されてきて見知らぬ土地に不安いっぱいだった私を引き受けてくださったのが舅殿でござった。
舅殿にはこの伊豆にいる間色々とお世話になり申した。
そして此度の旗揚げ。舅殿のお力添えが無くば伊豆で目代を討つことなど到底できることではなかった。
舅殿には深く感謝しておりまする。」
「・・・・・」
頼朝の目が時政の目をしっかりと捕えた。

「私は舅殿の恩義を忘れることはない。そして周りの反対を押し切ってまで何一つもたぬ流人の妻になっていれた御台を私は一生大切にします。」
頼朝は次の間に控えさせていた江間四郎義時と下河辺行平を側近く呼び寄せた。二人が来るのを見届けてから次の言葉を発した。
「私はここに宣言します。私はこの先御台以外の女性を妻には迎えないと。
私の御台は私が死ぬまであなたの娘御であるあの御台ただ一人です。」

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