時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

頼朝流刑の背景を考えてみる 2

2009-07-04 06:10:23 | 源平時代に関するたわごと
永暦元年(1160年)当時清盛に頼朝の流刑地を決定する権限があったのでしょうか?

源頼朝は3月11日に流刑となります。
この時流刑になったのは頼朝一人ではありませんでした。

この日流刑になったのは
 大納言 藤原経宗 阿波
 中納言 源師仲  下野
 検非違使別当 藤原惟方 長門
 右兵衛佐 源頼朝 伊豆
 頼朝弟  源希義 土佐

の合計五名です。(「清獬眼抄」)
そして、護送役人として検非違使がそれぞれついています。

この流刑の処分と行き先は別個に決められたのでしょうか?

同日に流刑が行なわれたということは、彼等の処分は同時に決められたと見てよいと思います。

では、誰が決定したのでしょうか。

それは「陣定」によって決定されたものではないかと思います。
「陣定」は当時の参議以上(△)の公卿の会議で、政策の決定を行なう現在の「閣議」のようなものですが、三権分立の概念のない当時、重大な刑の決定を行なうのも「陣定」によって行なわれるのが常でした。

大納言、中納言といった大物が流刑になっているのです。
彼等の処分は「陣定」によって決められたはずです。
ついでにいうとこの中では官位的には小物の源頼朝も従五位下を得ていた「貴族身分」でしたから、「陣定」の対象でしょう。

つまり、源頼朝の伊豆への流刑というのは「律令」にのっとった刑を「陣定」で決定したと見てよいものだと思います。

さて、その頃の清盛の立場はどうでしょうか?
清盛は確かに武力面における「平治の乱」鎮圧の功労者です。
しかし頼朝らの流刑が決定した当時、清盛の身分はまだ公卿ではありません。
清盛が正三位という「公卿」の地位を手に入れるのはそれから三ヵ月後の6月20日、「参議」になるのはさらに遅れて8月11日なのです。

また、政界における清盛より上位の実力者がまだいました。
平治の乱の武の英雄は清盛ですが、
もう一人の英雄が政界には存在していました。
二条天皇の六波羅行幸を画策した内大臣藤原公教です。
彼も清盛同様乱鎮圧の功労者です。さらに言えば「内大臣」という肩書きから想像できるようにこの時点で公卿にもなっていない清盛より政界に及ぼす力は大きかったものと推測されます。

さらに隠然たる力を持つ人物が二人存在していました。
鳥羽法皇の意思の継承者たる美福門院と前摂政藤原忠通です。*
この二人の政界における影響力は無視しがたいものがあります。

このような実力者たちが隠然たる力を保有していて、政界はまだまだ清盛の意見が強く通る状態ではありませんでした。

清盛が政界で頭角を現すのはこの美福門院、藤原忠通、藤原公教が平治の乱直後に相次いで死亡してから、ということになります。

しかも清盛が頭角を現してきても、二条天皇派と後白河院政派が対立を続け清盛はどちらにも気を遣うという時期がしばらく続きました。
「平氏政権」という言葉がありますが、実際には清盛の意見が強く通るようになったのは平治の乱からかなり期間がたってから、ということになります。

というわけで、「頼朝の流刑地を決定したのは清盛」という前提条件がかなり疑問符のつく代物になると思われるのです。
頼朝の流刑を決定したのは、おそらく「陣定」で決せられた「朝廷の決定」で清盛にその決定権は無かったとみるべきではないのかと思われるのです。(つづく)

△ 陣定に出席できるもの 左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議
  (摂政関白は出席しない)

*備考
美福門院は当時鳥羽法皇の御領だった莫大な荘園を管理しており、自身の荘園も多数所有していた。この鳥羽院領と美福門院領は八条院が継承し、その莫大なる荘園を背景に八条院はその後の政界に隠然たる力を有することになり、治承寿永の乱に少なからず影響を与えたといわれる。
また、藤原忠通は保元の乱で没収されかかった父の所有する領地を継承していた。この摂関家領を巡って後に清盛と関白基房、そして清盛と後白河法皇が確執を起すことになる。

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