しばらくして、政子の体調不良の原因は懐妊によるものであると判明した。
不安が一転して鎌倉は喜びに包まれた。
一番喜んだのは政子の夫である源頼朝である。
彼はすでに三十五歳。
十代で父親になる男が少なくなかった当時にあって、三十半ばに達していた彼の子供は四歳の娘一人しかいない。
どうか無事で生まれて欲しい。できれば男の子を。
それが彼の偽らざる希望であったであろう。
その生まれてくる子供が将来範頼に少なからず影響を与えることも
この懐妊の前後に鎌倉に沸き起こる騒動もまだ誰も知らない。
人々はひたすら御台所ご懐妊の報を喜ぶのみである。
しかし当の政子の体の調子は思わしくない日が続き暫くの間周囲を心配させる。
その不調は範頼と瑠璃の婚儀をまた遅れさせることになり、二人の周囲をやきもきさせた。当の二人はあまり婚儀の遅れをあまり気にすることはなかったのだが・・・
さて年は明けて養和二年(1182年)を迎えることになる。
その年は大きな戦は起きていない。
前年、前々年の天候の不順による農作物の不作、そして戦乱による農地の荒廃と
物流の混乱がそれに加わって各地に深刻な飢饉をもたらしていた。
特に都の飢饉は深刻であった。
都の辻には餓死者の山が出来上がり、飢えた人々がうつろな目をしてあたりを見回している。
飢えというものに無縁であるはずの高僧の中にも餓死するものが出るという始末であった。
そのような状況では官軍の立場にある平家も出兵することはままならず
各地で反乱を続ける諸勢力も大きな戦を仕掛けることはできなかった。
目だった戦のない養和二年(改元があり寿永元年)。けれどもその年治承寿永の内乱が停滞していたわけではない。
大きな戦はないものの静かなる変化があり、それが翌寿永二年の激流につながっていくのである。
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不安が一転して鎌倉は喜びに包まれた。
一番喜んだのは政子の夫である源頼朝である。
彼はすでに三十五歳。
十代で父親になる男が少なくなかった当時にあって、三十半ばに達していた彼の子供は四歳の娘一人しかいない。
どうか無事で生まれて欲しい。できれば男の子を。
それが彼の偽らざる希望であったであろう。
その生まれてくる子供が将来範頼に少なからず影響を与えることも
この懐妊の前後に鎌倉に沸き起こる騒動もまだ誰も知らない。
人々はひたすら御台所ご懐妊の報を喜ぶのみである。
しかし当の政子の体の調子は思わしくない日が続き暫くの間周囲を心配させる。
その不調は範頼と瑠璃の婚儀をまた遅れさせることになり、二人の周囲をやきもきさせた。当の二人はあまり婚儀の遅れをあまり気にすることはなかったのだが・・・
さて年は明けて養和二年(1182年)を迎えることになる。
その年は大きな戦は起きていない。
前年、前々年の天候の不順による農作物の不作、そして戦乱による農地の荒廃と
物流の混乱がそれに加わって各地に深刻な飢饉をもたらしていた。
特に都の飢饉は深刻であった。
都の辻には餓死者の山が出来上がり、飢えた人々がうつろな目をしてあたりを見回している。
飢えというものに無縁であるはずの高僧の中にも餓死するものが出るという始末であった。
そのような状況では官軍の立場にある平家も出兵することはままならず
各地で反乱を続ける諸勢力も大きな戦を仕掛けることはできなかった。
目だった戦のない養和二年(改元があり寿永元年)。けれどもその年治承寿永の内乱が停滞していたわけではない。
大きな戦はないものの静かなる変化があり、それが翌寿永二年の激流につながっていくのである。
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