時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二百三十)

2008-03-29 06:06:07 | 蒲殿春秋
伊勢神宮の神官渡会光倫はしばらくの間鎌倉に滞在した。
頼朝は光倫を歓待した。
光倫はじっと見ていた。鎌倉の様子を、頼朝を。

養和元年が暮れ、養和二年(1182年)を迎えてすぐ、頼朝は伊勢神宮に願文を奉ることにした。
この話を聞いた渡会光倫はその願文を伊勢神宮に届けることを快諾した。
頼朝、そして鎌倉の御家人たちは伊勢神宮権禰宜渡会光倫に認められたのである。

文士らによって作成された長い長い願文は渡会光倫へ託された。
光倫は鎌倉御家人数名と共に伊勢へと向かった。
願文に添えて大神宮に奉納される十匹の名馬もともに西へと向かった。

それから一月後、頼朝が進上した願文と奉納の馬十匹が伊勢神宮に受け入れられたとの報が鎌倉にもたらされた。
ただし、受け入れられ方は非公式なものであったのであるが。

これにより頼朝は非公式ながら伊勢神宮に認められたことになる。
前年の治承五年(1181年)五月に同じく伊勢神宮に願文を奉り、伊勢からその願文の受付を
拒否された叔父の源行家とは対照的である。

伊勢神宮が頼朝の願文を受け入れた効果は養和二年(1182年)になって徐々に現れていくことになる。

年貢が上がらないことに困り果てていた伊勢神宮は頼朝に確実に年貢を伊勢に進上することを依頼するようになる。
その要求は、頼朝が根拠地とする南坂東だけに留まらなくなる。
駿河、遠江、三河といった甲斐源氏が支配する地域まで年貢を進上するように働きかけを依頼される。
頼朝は伊勢神宮の神威を背景に
最初は甲斐源氏の各棟梁を通して、そして次第に各棟梁を通さずにそこの住民に
直接頼朝の名の下に伊勢への年貢貢納を命じるようになっていく。
平家方勢力とじかに接する地域にいる甲斐源氏にとって頼朝との提携は欠かせないもととなっている。
甲斐源氏は伊勢神宮の名の下に行なわれる頼朝の一連の発言に異を唱えることができない。

こうして頼朝は甲斐源氏が支配する領域にまで自らの力を浸透させていくことになるのである。

しかし、頼朝が他武家棟梁が支配する地域に自らの力を浸透させていくのと同様に他武家棟梁も頼朝の根拠地である坂東に棟梁としての影響力を持つようにもなってきたのである。
その一人が新田義重である。

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