時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百二十九)

2007-05-04 11:32:09 | 蒲殿春秋
頼朝は相模に入ると即座に松田に入った。
そこは頼朝に対して最後まで旗幟を鮮明にしなかった波多野氏の領地である。
暫くの間頼朝は松田に滞在した。
そこでその近辺における親平家残党勢力の徹底排除を行なった。
あるいはこの時点で甲斐に近いこの地域にて行なった滞陣は
同盟関係にはある甲斐源氏に対する警戒があったかもしれない。
相模北西部は甲斐に近い。甲斐源氏の相模進出も懸念された。

鎌倉に戻った頼朝はすぐに兵を常陸に向けた。
未だ平家寄りの立場を貫く佐竹氏を討つためであった。
佐竹討伐に最も熱心だったのが上総介広常、そして千葉常胤であった。
保元の乱より以前から領地等をめぐり上総・千葉両氏は佐竹氏と長年の確執を抱えていた。
彼らが頼朝を担いだ理由の一つに佐竹氏排除があった。

治承四年十一月六日、頼朝勢の攻撃に晒され佐竹一族が篭る金砂城は落ちた。
佐竹義政が上総介広常の謀略により殺害された他、この戦で佐竹一族にも死傷者は何人か発生した。
これで、頼朝の背後を脅かす勢力のうちの一つ佐竹氏は常陸からひとまず駆逐された。
だが、佐竹秀義ら多く者は金砂城から抜け出し奥州に逃れた。
また、秀義の父隆義は在京中で健在であった。
この戦で佐竹氏は一旦常陸からの撤退を余儀なくされたものの
その後、期を見ては常陸に舞い戻り、根拠地奪回に執念を燃やすことになる。
この金砂の戦の後も佐竹氏は数年にわたり常陸で蜂起と撤退を繰り返し
頼朝を悩ませ続けることになるのである。

が、とりあえずこの戦いは上総・千葉両氏と佐竹氏との間の長年にわたる
相馬御厨等を巡る所領の争いにおける上総・千葉両氏の主張が
武力によって反映されるという結末をもたらした。

この金砂の戦いの後二人の親族が頼朝の元を訪れた。
常陸志田荘を預かる志田先生義広と、
その以前以仁王の令旨を全国の源氏、藤原氏に渡して歩いていた新宮十郎行家であった。
義広、行家は頼朝の父義朝の弟、つまり頼朝の叔父たちであった。
この時この三人の間でどのような話し合いがもたれたかはわからない。
そして暫くの間義広は常陸で沈黙を保つことになる。
行家は令旨を配っている間に故郷熊野の情勢が不穏になり、そこに戻ることができなくなっていた。
そのため兄義広の元に身を寄せていた。
が、その後行家は兄と袂を分かち別の行動を取ることになる。
そして、意外なところでその頃遠江蒲御厨で感慨に浸っている範頼と関わることになるのである。

一連の戦いを終えた頼朝は鎌倉に帰還した。

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蒲殿春秋(百二十八)

2007-05-01 06:15:29 | 蒲殿春秋
一方親平家方の者には一転没落の運命が待ち構えていた。
石橋山の平家方の大将大庭景親は相模国河村に逃れていたが
遂に頼朝方に投降した。
景親は許されることなく首を刎ねられた。

伊東祐親は、甲斐源氏と頼朝の勢力に挟まれたのを知り
鯉名浜から船で脱出をしようとしていた所、
甲斐から急いでやってきた天野遠景に捕らえられてしまった。
遠景は祐親の身柄を武田信義、源頼朝のどちらに身柄を引き渡すかしばし思案した。
思案した結果、配下に伊東祐親の娘婿を何人か抱えている頼朝に引き渡すこととした。
甲斐源氏に引き渡せば即刻祐親の首は飛ぶであろう。
しかし、そのようにすれば義父を殺された諸豪族の甲斐源氏に対する反感を招くであろうし
ひいては、甲斐源氏に舅を引き渡した自分に恨みが向けられる。
頼朝に引き渡せば、祐親の婿たちは頼朝に舅の助命運動を引き起こすであろう。
三浦義澄、土肥遠平などの婿たちの意見を聞いたうえで頼朝が処分を下すならば
少なくとも自分に対する彼らの遺恨は残らない。
天野遠景はそのように考え、伊東祐親を頼朝に引き渡した。

頼朝と伊東祐親の間には深い因縁があった。
かつて頼朝は祐親の娘と恋仲になり子まで儲けていた。
しかし、それを知った祐親は二人の仲を引き裂き、その間に生まれた子供を殺してしまった。
子を殺された頼朝は深く祐親を恨んでいる。
頼朝個人の心情としては祐親を八つ裂きにしたい思いもあったであろう。
だが、頼朝を盟主としている相模の豪族たちの中には祐親の婿もいる。
彼らはこぞって舅の助命活動をした。
彼らの意向は無視できない。
ここで自分の我を通して祐親を殺せば、その婿たちの反感を招く。
反感は離反に通じかねない。
ここで相模の諸豪族の離反を招くわけには行かない。
決断の前に頼朝は目を閉じて今は亡き愛児の顔を思い浮かべた。
それでも、頼朝は子の仇祐親を殺すことなくその身柄をその婿たちに預けた。

相模におけるその他の親平家勢力だったものは
縁を頼って頼朝の元に投降した。
頼朝はすぐには処分を下さず、投降したものの元にしばし預け置くことにした。
縁者に預けられた者の多くは後に鎌倉御家人として頼朝の配下につくことになる。
頼朝に従わなかったものに対する処分のほとんどは寛大といってもよいものであった。

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