時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四十四)

2006-09-13 00:57:59 | 蒲殿春秋
兄乙若が童とはいえ俗人として宮に仕えた結果苦労したのを見た
一条長成と常盤は、牛若も出家をさせるのが一番だと考えた。
長成は伝手を頼り牛若を鞍馬寺に入れた。
前夫義朝の死後その間にできた三人の息子を必死に守ってきた
常盤にとっては
その最後の息子を洛中に近いとはいえ洛外の山奥の寺に入れるのは
さすがに切ないものがあった。

寺から送られてくる愛息からの手紙を何度も何度も繰り返し読んだ。
宿下がりするときは何をおいても息子をもてなした。

長成も気にかけて何度も寺に牛若の消息を尋ねた。

その消息の伝えるところはつぎのようなものであった。

兄弟のなかでも最もやんちゃだった牛若はけわしい鞍馬の山道を日々軽やかに駆け抜けているという。
時折、僧兵相手に武芸の稽古もつけてもらっているが
体格の大きな僧兵を小柄な牛若が何人も打ち負かしているという。
また、それが楽しくてかなり武芸の稽古にのめりこんでいるという。
それが高じて、夜宿所を抜け出して異形の者と人並みはずれた武芸の稽古をしているとの噂もある。

そのようなことは決して悪いことではないのだが
武芸に熱中する余り肝心の学問や僧になるための修行はおろそかになっている。
素質は悪くは無いのだが、修行に身が入らないため同年輩の子に比べると
はるかに僧の修行は劣っている。

このような知らせを聞くたびに長成そして、常盤は嘆息した。

やがて牛若が長じて十を過ぎ
同年代の者達は得度をうけ正式に出家していく。
けれども牛若は修行が足らずに出家させられないという。

このような話を聞くたびに長成と常盤はつらい思いをするのであるが
牛若は義にあつく、情が深いので一度牛若を気に入った人は
とことん彼についていこうとする。
また、愛想がいいので寺の中では可愛がられている。
という話もあるのでそれを聞いて常盤は少し慰められるのである。

けれども、中々得度させてもらえないのも困る。
僧としての修養が足りないようだとその後の牛若の生活にも差し障る。
良かれと思って寺に入れた牛若の将来にかげりが見えてきた。

思い悩んだ末、長成は牛若と常盤にある提案をした。
「奥州にいかないか」と。
奥州の主藤原秀衡の舅藤原基成は長成と遠縁に当たる。
基成と牛若の実父義朝は以前に面識もあったらしい。
基成を頼って奥州に行けばそこでそれなりの生活と将来がある
と長成はいうのである。

常盤はこの提案に大反対した。
噂に聞くことはあってもはるか彼方にある「みちのく」である。
冬はとても寒いと聞く。
第一長成と基成は縁戚であるが近年は文のやりとりすらろくに行っていない。
縁は無いに等しい
そんなところに牛若はやれないと大反対した。

けれども宿下がりにきた牛若は長成の提案を聞くと
「行くよ。奥州へ。おもしろそうじゃないか」
と簡単に決めてしまった。

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蒲殿春秋(四十三)

2006-09-13 00:54:35 | 蒲殿春秋
「私の娘です」
と、屈託なく義経は言う。
その表情の中に時折少年っぽさがのぞかさせられる。
「どうです、この子私に似ているでしょう」
自分の心の中では赤ん坊だった弟がすでに「自分の娘」を抱いて座っている。

一方自分は二十五にもなって未だに一人身・・・
そう思っても範頼はこの弟に負の感情を抱くことはなかった。
さわやかで、屈託がなく可愛げのある弟。

この弟はある種の輝きをもっている。
かつて、いや今でも憧れ続けている兄頼朝とはちがう輝きをこの弟は持っている。

さて、なにゆえ、この弟義経は子持ちとなって都からはるか離れた奥州で範頼の前に現れたのであろうか。

義経の母常盤は今若と離れた後、一条長成と再婚した。
手元に残った乙若と牛若(後の義経)は長成の子として育てられた。

しばらくして、乙若は後白河上皇の皇子八条宮円恵法親王に殿上童として仕えることになった。
けれども、童とはいえ、実父が「謀反人」義朝であることが知れると色々と不都合が生じてきた。
段々と宮の側にいることが難しくなっていった。
その状況を知った八条宮は乙若に出家を勧めた。
出家をすれば多少は、俗界のしがらみから開放される。
現に保元の乱の後に実力を振るった信西入道も
俗体の頃の彼を苦しめていた出自の低さから
法体になることによって開放され、それが彼の権力掌握の一つの手段となったのである。

乙若も宮の好意うけ、すぐに出家した。
八条宮円恵法親王から「円」の一文字を賜り円成と名乗った。
宮も乙若を気に入っていたのである。

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