時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四十八)

2006-09-15 01:08:06 | 蒲殿春秋
けれども義朝室は長年待賢門院や統子内親王に女房として仕えてきた女性である。
実家に戻って心が落ち着くと宮仕えの経験で研ぎ澄まさせてきた彼女独特の政治感覚が蘇ってきた。

夫が、雑仕女をいくら愛しても彼女が自分にとってかわって正室になることは断じてない。実家の力がなく財力も中宮の女官組織のほかに人脈をもたない常盤という女性。
一方自分の父は従四位を得ていた。夫の父よりはるかに上の位階を得て世を去った。尾張、三河には広大な熱田の社領がある。
兄弟姉妹は院や内親王に仕え、婚姻によって宮中に人脈が張り巡らされている。
自分の一族の持つこの力は主流を離れているとはいえ今後も宮廷社会において夫にとって大切なものである。
東国の諸豪族の多くを傘下におさめようとする夫にとっては宮廷社会とのつながりは必要不可欠なものである。
東国の武士団も朝廷、院、摂関家、有力社寺とのより強い結びつきをそれぞれに欲している。
その仲介者となり彼らを従わせる為にも夫は今後も自分達一族の力を欲するに違いない。
自分が夫を離別することがあっても夫は自分を離別できない。
雑仕女が何人子を産もうと自分の子供達に取って代わることも出来ない。
母方の力の弱い彼らは下級官人か出家者の道を歩むしかないであろう。
それならば、むしろ彼女を利用して夫を呈子の人脈に送り込み、
その得た人脈を息子や実家の兄弟に利用させよう。
もし、呈子の産む子が皇子ならば積極的に常盤をこちら側に取り込もう。
熱田大宮司藤原季範娘である義朝室はしたたかに腹を決めて夫の元に戻った。

このような一組の夫婦の軋轢があったが、事態は意外なほうへ向かっていく。

まず、呈子の懐妊は結局懐妊ではなかった。月が満ちても、数か月過ぎても子は生まれない。最初から懐妊していなかったのである。
そして、近衛天皇は多子、呈子の二人の后に子を産ませることなく世を去った。
次に即位したのは、待賢門院所生の四の宮、後白河天皇であった。
さらに、保元の乱の後その姉統子内親王が天皇の准母として立后する。
一方、呈子は夫君近衛天皇の死後すっかり影の薄い存在となってしまった。

「国母になるかもしれない后」の人脈としての価値のなくなってしまった常盤であるがそれでも義朝は彼女を愛し続けた。常盤を都の北の別邸に住まわせ三人の子を儲けた。

一方義朝室は押しも押されもせぬ正室として六条の義朝の本邸に住まい一族郎党を
夫と共に束ねつつ、統子内親王の元に女房として出仕していた。

他にも義朝には都の内外の多くの女性と契っていた。

彼女達は夫がその日どこに行こうがまったくお構いなしにそれぞれの領分と子供達を守っていた。
義朝はその日の心のおもむくままにそれぞれの妻のもとに比較的平等に通った。

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