時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

一条忠頼殺害の日付について

2010-10-07 05:34:59 | 蒲殿春秋解説
またまた物騒なタイトルで失礼します。
さて、『吾妻鏡』によると甲斐源氏一条忠頼が源頼朝によって鎌倉で殺害された日付は元暦元年(1184年)6月16日のこととさてています。

しかし、この日付に対する疑問を提示する論文がありますのでご紹介させていただきます。金澤正大『甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義 』Ⅰ、Ⅱ(Ⅰ「政治経済史学」272,1989. Ⅱ「政治経済史学」446 2003.10)です。

まず、一条忠頼が殺害された日程が記されている文献として『吾妻鏡』の外に『延慶本平家物語』があり、それによると忠頼殺害は元暦元年(1184年)4月26日のこととされています。

そして、当時に起きた出来事を並べて見ます。
まず一条忠頼の任官です。
以前の記事にも書かせていただきましたが、金澤氏は一条忠頼が「武蔵守」に任官した可能性が高いとされています。
そしてその任官の日付は、頼朝が従四位下に除せられた3月27日ではないかとされています。

次に鎌倉勢による甲斐侵攻があります。
『吾妻鏡』5月1日条によると義高の残党狩り称して頼朝は甲斐信濃へと大掛かりな出兵を行なっています。
しかし、その実態は義高残党狩りではなく、甲斐制圧にあったと見るべきなのです。
そして『吾妻鏡』養和元年(1181年)3月7日条における武田信義が頼朝に屈服したというこの記事は実は一条忠頼の死とこの甲斐侵攻の後のことであろうと推測されています。

そして、6月5日に頼朝が申請したとおり、武蔵守平賀義信、駿河守源広綱、三河守源範頼が任官され、関東御分国が成立します(『吾妻鏡』6月20日条) *。

そのように考えると、
3月27日 忠頼武蔵守任官→6月5日 関東御分国成立 → 6月16日 一条忠頼殺害(『吾妻鏡』)
よりも
3月27日 忠頼武蔵守任官→ 4月26日一条忠頼殺害(『延慶本平家物語』) → 6月5日 関東御分国成立 
の方が自然なものとなります。

(ちなみに5月に甲斐侵攻もあります)
このように考えたならば、一条忠頼殺害は『延慶本平家物語』の示す4月26日の方が正しいと考えるべきなのではないか、ということになります。

*なお、範頼の三河国については、関東御分国ではなく(頼朝が知行国主ではない)と金澤氏は論じておられます(『蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国』「政治経済史学」370 1997.4)。

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