(この地図は日本の白地図を加工して作成しました)
上記の地図の境界線は現在の県境です。
また、諸勢力の配置は必ずしも正確ではありません。
さて、それぞれの勢力の構成人員の有名な人を列記しておきます。(1180年現在)
血縁関係は省略しますが、近い血縁の人々によって構成されています。
北条(氏は平氏)
北条時政、北条宗時、北条(江間)義時
中村(氏は平氏)
土肥実平、小早川遠平、土屋宗遠、土屋義清
岡崎義実(本人は三浦出身、妻が中村一族)、佐奈田義忠(余一)
三浦(氏は平氏)
三浦義明、三浦義澄、三浦義村
和田義盛、佐原義連
大庭(氏は平氏)
大庭景親、俣野景久
懐島景義、梶原景時
伊東(氏は藤原氏)
伊東祐親
工藤祐経
黄色字は平家方
今後必要に応じてこのページ追加していきます。
なお、()内の氏とは何か?と疑問に思われた方は
「氏と苗字」をご参照願います。
また本記事は
永井路子「相模のもののふたち」(文春文庫)他を参考に作成させて頂きました。
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上記の地図の境界線は現在の県境です。
また、諸勢力の配置は必ずしも正確ではありません。
さて、それぞれの勢力の構成人員の有名な人を列記しておきます。(1180年現在)
血縁関係は省略しますが、近い血縁の人々によって構成されています。
北条(氏は平氏)
北条時政、北条宗時、北条(江間)義時
中村(氏は平氏)
土肥実平、小早川遠平、土屋宗遠、土屋義清
岡崎義実(本人は三浦出身、妻が中村一族)、佐奈田義忠(余一)
三浦(氏は平氏)
三浦義明、三浦義澄、三浦義村
和田義盛、佐原義連
大庭(氏は平氏)
大庭景親、俣野景久
懐島景義、梶原景時
伊東(氏は藤原氏)
伊東祐親
工藤祐経
黄色字は平家方
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なお、()内の氏とは何か?と疑問に思われた方は
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ようこそいらっしゃいました。
今後ともよろしくお願いします。
さて、上杉謙信と俣野景久との関係ですが、
結論から言えば残念ながら直系の先祖子孫の関係ではありません。
ただし、上杉謙信の先祖とされている人と俣野景久とは多少は関係があります。
上杉謙信は、元々は長尾家の出身ですが上杉家に養子に入りました。
謙信の頃の長尾家ですが、鎌倉御家人の長尾家の子孫と名乗っていますが、その鎌倉時代の長尾氏はいったん滅んでいるのでその家系の信憑性が薄いものと言われていますが、とりあえずその「御家人長尾氏が謙信の先祖(ただし自称)」を前提に話を進めます。
1180年石橋山の合戦で大庭方の俣野景久と頼朝方の佐奈田義忠が戦います。
そのとき、俣野景久に加勢して佐奈田義忠を討ち取ったのが長尾定景です。(ちなみに、俣野景久と長尾定景は親戚です)
その後頼朝が勢力を得ると俣野景久は平家の元に行き木曽義仲との合戦で死去します。
一方長尾定景は、いったん頼朝方に捕らえられますが、紆余曲折の末御家人に取り立てられます。
そういうわけで、
俣野景久と上杉謙信の先祖とされる人は平安末期に少しだけ関係があったということになります。
俣野家のこと色々ご存知でしたらまた教えてください。
ありがとうござました。
こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。
またちょくちょくのぞかせてもらいます。
12世紀から16世紀までの俣野の系図を発見するのは不可能のようです。
俣野は景久亡き後一族郎党全国に散ったようです。私の先祖は1600年代までたどれました。庄内藩の文書を保管するところに戒名とともに系図がありました。自費出版で本もだしています。国会図書館に俣野時中伝として寄贈してあります。
20年前ですが確かその系図のせてあります(かな?)。
いろいろしらべましたが、東京方面にいる俣野はこの系統が多いようです。
他は関西の
今後ともよろしくお願いします。