時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二十五)系図

2006-05-31 23:14:55 | 蒲殿春秋
徳大寺実能--+------育子
       |           ||
       |          二条天皇----六条天皇
       |           ||
       |           ||
       +--公能-+--多子
             |     ||  
             |     ||
             |    近衛天皇
             |
             |
             +---女子
                   ||
                   ||----一条能保
    上西門院乳母----通重
      

蒲殿春秋(二十五)

2006-05-31 22:41:54 | 蒲殿春秋
さて、都は変わったと範頼は実感したのだがその間に何が起こっていたのであろうか?

永万元年(1165年)範頼が都を去ったとき
二条天皇が崩御され、長きよ渡り解消されなかった天皇と後白河上皇との対立は消滅していた。
しかし、二条天皇が遺された六条天皇の側近たちが勢力を低下させながらも
政治の一極を形成していた。

その翌年、東宮(皇太子)として清盛の義妹滋子を母とする
後白河上皇皇子憲仁親王が立てられた。
しかし、この東宮擁立はすんなりと決まったわけではない。
憲仁親王には対抗者がいた。
太皇太后多子が同じく後白河上皇の皇子である以仁王を東宮候補として
推してきたのである。
多子は近衛天皇の皇后であったが、二条天皇に強く望まれてその後宮に再度入内した
「二代の后」であった。
そして、その父は閑院流徳大寺公能であった。
閑院流出身の二条天皇の后はもう一人いた。
公能の妹中宮育子である。
しかし、育子は皇子を産むことはなかった。
だが、伊岐氏の女性が産んだ六条天皇は育子の猶子となっており、
閑院流の影響力は未だ健在だった。
東宮が閑院流に関係のない人物から立てられるということは
二条天皇側近からみれば非常に都合の悪いことであった。
ここは、後白河上皇の強い意志で憲仁親王が東宮に立てられた。
最後まで以仁王を推した多子は出家をして政界から大きく退くことになった。

範頼らの姉の夫一条能保はそのような多子に仕えているのである。
彼の母も徳大寺公能の娘。つまり、能保と多子は従姉弟なのである。

ちなみに、この後以仁王はすぐに人々から忘れられる存在となる。
人々は忘れたが、ある女性が彼の庇護者になった。
その女性の名は「八条院」
源頼政、平頼盛などが仕えているもっとも荘園を多く所有する未婚の皇女。
以仁王はその八条院の猶子となった。
そのことが十年以上たってから大きな意味を持つようになる。

後白河上皇が粘って憲仁親王の東宮擁立を成功させたものの、
天皇側近の力も侮りがたく
ただちにに憲仁親王の即位を強行することもできなかった。
内心憲仁親王の即位を願っている平家一門も暫くはなりを潜めている。
しかも、天皇親政派の旗頭であった清盛の娘婿摂政基実は憲仁親王が東宮になる直前
に死去してしまった。
清盛にとっては我慢の時代だったのかも知れない。
その期間に人臣を極めると言われた太政大臣に就任したものの、
この官職は実権を伴わない名誉職であった。
清盛の心中いかばかりであっただろうか。

ここに関する系図はこちら

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高校講座

2006-05-31 21:42:29 | 源平時代に関するたわごと
昨日放映されたNHK教育の「高校講座日本史」では内容がかなり
最近の研究の成果がとりいれられていたようです。

・武士は地方に住む農民が自衛したのではなく貴族社会で発生した(軍事貴族)
・前九年の役、後三年の役の見直し(武士の残虐性、合戦終結の要因の見方の変化)
・東国武士団と源氏の結びつきの強さに対する疑問符
・保元の乱、平治の乱に関しての評価の見直し。

等々でていました。

以前私は、
今の教科書は昔とそんなに変わっていないのではないかと書きましたが

5/16記事
高校講座で上記の内容だということは
現在の「教科書」ではどうなんでしょうか
非常に気になります。