時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二十四)

2006-05-28 12:03:07 | 蒲殿春秋
その夜、泊まって行けばいいという能保の言葉に範頼は甘えることにした。
姪たちは大柄な叔父のどこが気に入ったのか
「おじちゃま、遊んで、遊んで」と何度もせがんだ。
やがて、遊びつかれた姪たちは乳母たちの膝の上にいつの間にか
寝入っていた。

7歳の子の寝顔がどことなしか亡き父の寝顔に似ているような気がした。

乳母たちが子供達を部屋に連れて行き
侍女たちが散らかりきった部屋を片付ける。
その様子を見ていた姉は
「あら、この鞠は」
とある鞠に目をやった。
それは、上野に旅立つ範頼の餞別に姉が持たしてくれたものだった。
今日その鞠を使って範頼は姪たちと思いっきり遊んだ。

「東国はどうでしたか?」
と姉は聞く。

上野 ではなく 東国 という言葉が範頼の中にある意味を持って響いてきた。

「とても、広大な平野が広がっています。
馬を飼う者あり、田を開くものあり、絹をつくるものあり
都とはちがう雄大さがあります。」

それから範頼は姉の顔を覗き込んだ
「父上もご幼少の頃は、その坂東を駆け巡ったのかと思えば
なにかしら格別なものを感じました。されど、坂東は広いのです
私がいた上野と父上が昔すごされた、上総や相模とは趣が違うのです。」

上総や相模は南で海に近く比較的気候が温暖である。
しかも、その当時はまだ湿地沼地や入り江が多く基本的な移動手段は船の
「海の地」である。

一方上野は坂東の北方に位置し、夏は暑く冬は寒い。
上野国のなかでも山岳と山すそではかなり違う。
坂東の北のほうは山に囲まれた「陸の地」であった。

そのような話を姉にしたのだが心なしか姉の顔に興味の色がない。
上総や相模、父が国守を勤めたことがある下野の事は一生懸命聞いてくれたのだが
上野の話はあまり面白いと思っていないようだ。

━━やはり一番聞きたいのはあのことかな?

範頼は周囲を見回して人が誰もいないのを確認した。
ここまで人払いしているということはやはり━━


「三郎兄上はお元気に過ごされています。伊豆で静かな生活を送られています」

そういったとき時の姉の顔をみてやはり一番聞きたかったのはこのことなのだ
と範頼は悟った。

夜がかなり更けるまで範頼は伊豆での出来事を話した。
その様子を一言も聞き漏らすまいと姉は喰い付く様に聞き入っていた。

翌日範頼が能保の家を出るに当たって姉に安産を望む言葉を言った。
その時こう付け加えた。
「姫も可愛いですがこのたびはおのこも一人授かりたいものではないですか?」

その時姉は悲しそうな笑顔でこう答えた。
「私、男の子は産みたくない。殿は男の子をのぞんでおられるけれど・・・」

その時の範頼は姉の心の奥底に刻まれた深い傷を知る由もなかった。

前へ 次へ

そして、軍記物について

2006-05-28 09:06:34 | 日記・軍記物
さて、とりあえず「保元物語」と「平治物語」について色々と書いてみました。

しかし、気をつけなければならないのは
これらの軍記物は「あくまでも物語」であるということです。
つまり
「この物語は、事実を元に作成したフィクションであって、
実際の事件とは関係ありません」
というテレビのドラマの最後に出で来るテロップを流しても良いような内容です。

従って「文学的に面白い」かどうかが「価値を決める最大の要素」になるはずなのです。
ですから、多少突拍子もないことが書かれていても「文学的」にはOKなはずです。

しかし、「歴史」というも問題が絡むと多少厄介な部分が出てきます。

まずは、時代が古いということで、「正史料」の不足を補うのに
「軍記物」を一部使わなければ研究ができないという事情があります。
どこまでを事実かということの尺度が研究者によってばらつきが出てくるのも
仕方がないのかもしれません。

つぎに「一般の人々にその内容があたかも事実だと思わせてしまう危険性」
があります。
現在でも「事実を元に作成したドラマ」を「ドラマだよなー」と思いつつ
その内容の一部分(人によってはほとんどの部分)を「事実そのもの」と
思ってしまうことがあります。

歴史好きでも最初は「伝記」や「伝説」、「物語」から入った人の方のほうが多いと思います。
はじめから難しい「学術専門書」から入るひともいないでしょうし
「物語」でああ面白い。で終わってしまう場合もあるでしょう。

また、多くの歴史小説家も「軍記物」の内容をベースに使う人も多いと思います。
(つまり、それほど軍記物が面白いということでしょう)

そうなると「軍記物の記載」が「あたかも本当にあったこと」だと思ってしまう人が多数出てくるケースが多くなるのではないかと思うのです。

事実、この時代に関しても専門家の方でも今まで研究者も「平家物語の呪縛」から離れられなかったのではないかとの指摘があります。

そういった意味では「軍記物」はあくまでも軍記物として「史実とは別物」という心構えを持つ必要があるのではないのかと思います。

事実、日記類と軍記物の比較をすると「フィクション性の高さ」がよく判るようです。

しかも、「つい史実だと思ってしまう危険性のある軍記物」も
「フィクション部分の増加した後年完成の『近世近代調』源平軍記」
が幅を聴かせているということも
より一層注意が必要なのではないかと思うのです。

平治物語の比較

2006-05-28 08:40:30 | 日記・軍記物
こんどは、「平治物語」です。
こっちのほうは「保元物語」より一般的に出回っている内容と
「新古典大系」との乖離は凄いものがあります。

義平の阿倍野清盛襲撃提案

一般的に知られている内容
義平が清盛が都に帰る前に襲撃しようと提案し、信頼に拒絶される。
しかも、信頼から任官が勧められるが義平はそれを一蹴する

「新古典大系」
襲撃の「噂」を清盛が聞くが、信頼方の軍議はない。
任官拒否どころか義平の任官の話すら出てこない。


源太が産衣&髭切の太刀
一般的に知られている内容
「源氏方勢ぞろえ」の中で
頼朝の装束の紹介のなかで「髭切の太刀」と共に「源太が産衣」を
嫡流の証とのことで彼が着用していることになっています。

「新古典大系」
頼朝の装束の紹介はまったくありませんし「源太が産衣」は
まったく登場しません。
「髭切」に関しては物語の終盤に「重代の太刀」という表現で二回だけ出てきます
頼朝が所有していましたが「嫡流の証」という表現はどこにもありません。


義朝軍の戦力
一般的に知られているもの
1000騎、2000騎という表現。
しかも「源氏方勢ぞろへ」というサブタイがある

「新古典大系」
義朝軍は「その数200騎にも及ばざるなり」
最終局面の六波羅襲撃のときは「20余騎」になっている。
上記で「源氏方勢ぞろへ」となっているサブタイは「信頼方勢ぞろえ」となっている。

(ちなみに信頼軍全部あわせると1000騎位になったようですが、うち光保の300騎はすぐ
清盛方に寝返ったようです)

義朝の娘のこと

一般的に知られている内容
江口遊女が産んだ娘を鎌田政家に殺害させてから義朝一行は都をはなれる
青墓に住む夜叉御前は頼朝が捕まったのを苦にして川に身投げして死亡

「新古典大系」
上記二人の娘は一切出てこない
後藤実基が育てている娘(頼朝同母妹)を義朝が「殺害指令」するが
その指令は実行されない。

義朝の美濃の愛人の名前

一般的に知られている内容
青墓に住む「延寿」でその娘に「夜叉御前」がいる

「新古典大系」
愛人の名前は青墓長者「大炊」 娘は登場しない。(娘がいる事実だけ紹介)
今様うたいの「延寿」は義朝の側近鎌田政家の愛人として登場する。
(ちなみに、「吾妻鏡」では鎌倉殿になった頼朝が上洛する際
頼朝は「大炊の娘」と面会したとの記載があります。たぶんこの娘でしょう)

平治物語では後半部分の諸本の差が激しいものがあります
とくに、「新古典大系」は一般的な話を知っている人からみれば
目が点になる部分が多いのですが、こちらのほうが元ネタに近いと言われ
後出本のほうが「創作部分」が大きいようです。