星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

校庭と桜の木と缶ビール

2008-03-28 16:18:58 | 読みきり
 その頃私がいた職場は今の部署とは違い、急な仕事が入らなければ普段はのんびりとした雰囲気だった。私は書類の整理やデータの入力作業や忙しいときには出来ない様々な雑用などで、それほど暇というわけではなかったけれど、隣の席に座る上司は、明らかに暇を持て余しているような時があった。一応係長というポストの席だけれども、忙しい部署から忙しい部署へと移る間の、息抜きのような席だと周りからは思われていた。

 その日も特に急ぎの仕事はなく、私たちは一日が過ぎるのを長く感じていた。私は仕事に関する資料を読んで時間を潰していたし、上司も何かを読んでいた。さすがにもう一人の年配の上司がいるときは私語をあまりしないように気を付けていたが、昼も近くなり年配の上司が外へ食事に出掛けてしまうと、読んでいた資料を閉じて、係長は私に話しかけた。係長の話は、私にとっては面白い話が多かった。事務員である私の知らない、現場での経験談や失敗談、小さい頃の話、家庭での話と様々なことをざっくばらんに話した。

 俺のうちは父親がいなくて貧乏でさあ、と係長は言った。係長の実家は蚕を飼っている養蚕業をしていたということ、係長の母親と祖母がその仕事をしていたことなどを話してくれた。
「学校から帰ってくると臭いで分かるんだよ。ああ、今日の夕飯はいるかだって。すげえ臭いがするんだよ、いるか肉って。おいしくなくてさ。」
 私は聞き間違えたのかと思った。いるか?いるかってあのいるか?きっと私は何度も聞き直したはずだ。やはり聞き間違えではなく、それはあのいるかだった。いるかは食べるものではないという認識を持っていた私は、いるかを食べる人が世の中に存在しているのだと(それもイヌイットとかではなく、日本国内の普通のご家庭の普通の夕飯に出てくる)いうことにショックを受けた。だが考えてみたらくじらの肉を食べるのだからいるかだって食べるのだろうと思った。哺乳類で同じような肉質なのだろうから。

 係長には、以前どこかの職場で知り合ったという奥さんがいる。美人な奥様だと、どこかからうわさで聞いた。だが、子供と夫がいるのに家庭というものを顧みない奥様だという、係長から見ればそういう奥様らしかった。自分は和食を食べたいのにいつもスパゲッティとかそういう料理が出てくる、とか、独身時代のように家事をほったらかしで長電話をしている、というような愚痴をよく聞かされた。その当時独身でまだ若かった私は、そういう処遇をされている家庭での係長を気の毒に思ったが、結婚もして子供もいる今思えば、そういうものだろうとも思う。共働き家庭の妻は、専業主婦の妻のように、何から何までご主人好みに尽くす、という訳にはいかないのだ。

 そんな係長と奥様が、出会った頃の話も聞いた。係長はその頃、赤い色のスポーツカータイプの車に乗っていて、付き合っていた彼女であった当時の奥様と、よくドライブをしたらしい。ほら、ケンとメリーじゃないけどさあ、と係長は言った。ケンとメリー?私には何のことだか分からなかった。聞くと昔の車のCMでそういうものがあったらしい。そういう感じだったんだよ。そのくらい最初の頃は完璧だと思っていたのになあ。そういう奴じゃないと思っていたのに。係長の家庭内は今にも崩壊しそうらしかった。家に帰っても口も聞かないし、勝手に出掛ける。子供がいるから離婚しないのだろうということが何となく伺えた。

 そんな風にして、毎日私の中には係長の情報が増えていった。この人は私に愚痴りたいのだろう、と私は黙って話を聞いていた。私は人の話を聞くのは苦ではなかった。どんな人からでもそこそこ興味深く話を聞くことができた。自分から自分のことを話すのは得意ではないのだが、人の話を聞くことに関しては、私はそれは特技でもあると思える位だった。そして係長の話はなかなか興味深かった。まだ20代になったばかりの私は、結婚生活とかそういうものに、憧れとまではいかないけれども未知の世界という感覚を持っていたが、係長の話を聞くと、どんなに素敵に出会って結婚しても、所詮冷めてしまうものなのだろうか、といういささかステレオタイプ的な結婚感というものを感じないわけにはいかなかった。

 4月のある日、係長は「昨日は息子と二人で花見をしてきたよ。」と穏やかな顔で言った。家の近くに息子さんが通う小学校があって、その校庭内には桜の木が植わっている。夕方、缶ビール一缶を持って、子供と一緒に学校まで歩いて行った。子供は確か、まだ一年生くらいのはずだ。子供はジュースを持って。学校の隅にある大きな桜の木は満開で、もう来週には散ってしまうはずだった。
 私は想像した。だだっ広い小学校の校庭に、40代のお父さんと一年生の子供が腰掛けている。多分タイヤの遊具か、丸太の遊具のような、ちょうど座るのによいくらいの物の上に。二人の頭上には大きな桜の木があって、夕暮れの薄暗い中にピンクがほんのりと浮き立って見える。もう満開のピークを過ぎた桜は、風が吹くとはらはらと舞ってくる。まるで雪のように二人の上に花びらが落ちてくる。父親はちびちびとビールを飲みながら、小さな男の子は、ジュースを飲み終わり、鉄棒か何かで遊んでいる。それを父親がぼんやりと見ている。私はその光景をまるで自分で見てきたかのようにはっきりと頭の中に思い浮かぶことができた。

 その係長はやはり1年ほどで他の部署に転勤になった。その数年後、偶然本社の廊下で係長とすれ違った。私は他の人の情報から、係長が離婚をして、もと同じ職場だった事務の女の人と再婚することを知っていた。その再婚相手の方は、私も少し面識がある方だったのだが、多分、夕飯には和食を作るタイプの人だった。
「よかったですね。」
 私はひとこと言った。係長はにこにことして、本当によかったよ、と言った。お子さんは?と聞くと、元奥様が引き取ったということを言った。仕方ないな、と。

 私は桜の時期になるたびに、この話を思い出す。小さな男の子と、お父さんと桜の木。広い校庭と、缶ビール、夕暮れ。

 今年も桜の時期が来た。

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