死 ね な い 老 人 記事 Dain 2019年06月27日
リタイアして、悠々自適の毎日を送る人がいる。趣味やレジャーや学び直しなど、第2の人生を謳歌する人もいる。(未来はともかく)今の高齢者は、高度な医療・福祉サービスを低負担で享受しており、年金をやりくりすることで、暮らしは成り立っている。
その一方で、自分の長寿を喜べない高齢者が増えているという。家族や周囲の人たちに「死にたい」と訴えながら、壁の向こう側で横たわり、生きることを強制される高齢者のことである。『死ねない老人』によると、望まない延命措置を受け、苦しみの中で人生を終える人々は、かなりの数にのぼるらしい。
著者は、高齢者医療に25年携わってきた医師だ。現場の生々しい声を聞いていると、いたたまれなくなる。
生きているのが申しわけない
本書によると、「死ねない老人」は2種類に分かれる。
ひとつめは、生きがいを見失い、家族に負担をかけたくないため、死にたい(でも死ねない)老人である。
死ぬ直前までピンピンしてて、突然コロリと逝く「ピンピンコロリ」を理想とする人がいる。だが、医療の進歩により、なかなかコロリ逝かせてくれない。むしろ、病気の後遺症による苦痛や不安・不調を抱え、介護やリハビリを受けながら生きなければいけない時間の方が長くなる。
たとえば、脳梗塞の後遺症で麻痺が残り、家族の迷惑をかけることが嫌になり、「いっそのこと、あのとき死んだほうがよかった」「生きているのが申しわけない」という言葉が出てくる。内閣府[高齢者の地域社会への参加に関する意識調査]によると、生きがいと健康状態は関係があることが分かる。生きる希望を持てずに死を願う「死ねない老人」がこれになる。
意思に反して強制的に生かされる
もう一つは、本人は治療や延命を望んでいないにもかかわらず、周囲の意向によって「長生きさせられてしまう」老人だ。
もちろん、親に長生きしてほしいと願うのは自然な思いだ。だが、一方で、人生の終わりである「死」を認めたくない家族が、本人の望まない最期を強いていることも事実だという。こうした事例を見ていると、本人の意思や苦悶を無視して、ひたすら強制的に生かそうとする行為は、治療なのか虐待なのか分からなくなる。
もっとシビアな例として、パラサイト家族が登場する。本人は「充分に生きた」「楽に逝きたい」と思っていても、家族はその年金をあてにして生活しているため、死なれると困るというのだ。この場合、本人の意思に関係なく、家族の意向が優先されるという。
長生き地獄から逃れるために
人生100年の時代、長い長い、長い老後の末、幸せな長寿を全うすることは、かくも難しい。生き地獄というより長生き地獄である。この2つの「死ねない老人」に対し、本書ではそれぞれの処方箋を考察する。
まず、生きがいを見失った「死ねない老人」に対しては、「誰かの役に立つこと」がカギとなるという。
[全国社会福祉協議会]を紹介しながら、通学路の巡回・見守りや、清掃・美化活動、いじめ相談など、さまざまなボランティア活動を紹介する。「高齢者=ケアされるお荷物」という偏見を壊し、ケアする側として何ができるか? という視点で考えようと促す。
次に、意思に反して強制的に生かされる「死ねない老人」については、諸外国の事例を紹介する。
欧米の安楽死の制度やサービス、終末期の治療方針について意思表示するPOLSTの例を紹介する。ただし、日本の場合の先行きは不透明だ。2008年に、後期高齢者の終末期に関する制度が設けられたが、マスコミから「高齢者に早く死ねというのか」と非難を浴び、3か月で凍結している。
死の制度化は、充分な議論が必要だろう。POLSTが制度化されることで、いま起きていることの逆転現象が生じる可能性があるからだ。つまり、現在、意思に反して生を強制される老人がいるように、将来、意思に反して死を強制される老人がでてくるかもしれないからだ。
こうした問題がクリアされるまで、「死ねない老人」は増え続けるだろう。ネットやコンビニで目にする元気なお年寄りではなく、「老人に死ねというのか!」とデモ行進をする高齢者ではない。「死ねない老人」は、壁の向こうで静かに横たわっている。
「死ねない老人」について、わたしは、むしろ自分の問題として考えたい。問題は現状のままで、自分の順番が回ってきたら―――その可能性は極めて高いが―――[苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために]を参考にするつもりだ。