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門田隆将

団塊の世代の「功と罪」2013年07月14日 16:31門田隆将

 

裁判官は「日本」を滅ぼす  門田隆将   2013年09月30日 14:11

老人は、認知症で徘徊し、家族で介護していた。産経抄は、「事故は、妻がまどろんでいる間に、男性が家を出て起きた。認知症の人を24時間監視するのは不可能だ。そんな実態を無視して、“監督責任”を認めた判決は、遺族だけでなく、介護に関わる多くの人に衝撃を与えている」と書いている。

これは、日本の官僚裁判官の典型的な病理が表われているものなので、興味深い。日本の裁判官が、裁判で重視するのは「要件事実」だけである。「事情」には踏み込まない。それが鉄則だ。なぜなら、いちいち「事情」に踏み込んでいったら、一人の裁判官が200件、300件、あるいはそれ以上抱えている案件が「処理できない」からである。

そこで、判決に組み込んでいかなければならない「要件事実」だけが判断のポイントになる。ここでは、老人が「線路に侵入」し、「列車事故が生じ」、JR東海に「総額720万円の損害」が生まれ、JR東海がその損害賠償を「請求した」ということが確定すれば、それでいいのである。

裁判官は、司法修習時代から延々とこの「要件事実」を抽出するための教育を受けている。それは「訓練」と言い換えた方がいいかもしれない。判決に必要な「要件事実」だけを抽出させるこの教育(訓練)は、法曹関係者の間では「要件事実教育」と呼ばれている。

彼らにとっては、老妻が徘徊老人を24時間介護しているなどという「事情」はまったく関係がない。JR東海による損害請求の「全額」と「介護者の監督責任」をすべて認める判決が出る理由は、そこにある。

日本の官僚裁判官が、とんでもない判決を出してしまうのは、この「事情」というものが排除され、「要件事実」だけで判断しているからにほかならない。

今日、私はその日本の官僚裁判官から凄まじい判決を受けた。「書籍廃棄判決」である。私は、新潮社から10年前に『裁判官が日本を滅ぼす』を上梓しているので、この「要件事実教育」によってもたらされた日本の官僚裁判官の悪弊と、裁判のおかしさを、かねて指摘してきている。

それだけに驚くべきことではないことかもしれない。だが、私は今日の判決を受けて、当事者としてはもちろんだが、むしろ納税者の一人として絶望感を抱いている。国民の一人として、日本の官僚裁判官のレベルに、ただ溜息が出てくるのである。

私は日航機墜落事故から25年が経った2010年夏、『風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故』(集英社)というノンフィクションを上梓した。これは、1985年8月に起こった日航機墜落事故の6遺族の「その後の四半世紀」を追った作品である。

この本は、それぞれのご家族を取り上げた全6章から成るものだ。初めて「父と息子」にスポットをあてたもので、あの悲劇を乗り越えた家族の感動の物語としてノンフィクションで描かせてもらった。

本書に登場する6家族の方々に、直接、私自身が取材に伺い、絶望から這い上がってきた四半世紀に及ぶ「勇気」と「感動」の物語をお聞きし、すべてを実名で描かせてもらったのである。ご本人たちの了解を得て、取材させてもらい、日記や手記があるならそれを提供してもらい、「事実」と異ならないように気をつけて原稿を書かせていただいた。

しかし、私は、この作品の第3章に登場するご遺族、池田知加恵さんという80歳になる女性から「門田は自分の作品である『雪解けの尾根』(ほおずき書籍)の著作権を侵害した」と訴えられた。

経過はこれまでのブログでも詳しく書いてあるが、池田知加恵さんは、日航機墜落事故で亡くなったご主人を持つ未亡人である。私は、「父と息子」をテーマにしていたため、あらかじめこの知加恵さんのご子息に10時間近い取材をさせてもらっている。そして、その上で、母親である知加恵さんご本人にも別の日に3時間半にわたって取材をさせていただいた。

その取材の折、知加恵さんは17年前に出したという事故の時の自身の体験をまとめた当該の『雪解けの尾根』という手記本をわざわざ「門田隆将様 感謝をこめて 池田知加恵」とサインして私に提供してくれた。

この時、事故から25年も経過しており、ご高齢だったこともあり、ご本人が「私にとっては、この本を書いた時が“記憶の期限”でした」と仰られたので、私の取材は、提供されたこの本に添ってご本人に「事実確認」をする形でおこなわれた。

ご高齢の方への取材というのは、こういう方法は珍しいものではない。戦争関連をはじめ、多くのノンフィクション作品を私は出しているが、たとえば太平洋戦争の最前線で戦った元兵士に取材する際は、自分が若い時に戦友会誌などに書いた回想録を提供され、それをもとに「記憶を喚起」してもらいながら取材させていただくことが多い。

より正確に事実を書いて欲しい、というのは誰にも共通のものであり、私は池田知加恵さんにも長時間にわたって、この本に基づいて記憶を喚起してもらいながら、取材をさせていただいた。

記憶が戻ってきた知加恵さんは、「このことは本に書いてなかったかしら?」「そうそう、それ書いているでしょ」と途中で何度も仰り、そのたびに本の中の当該の箇所を探すことが度々あった。

私はノンフィクション作家であり、いうまでもなく作品はすべてノンフィクションである。つまり、私の作品には、フィクション(虚構)がない。記述は「事実」に基づいており、そのため、取材が「すべて」である。

つまり、ノンフィクション作品とは、作家が想像によって「創作」することは許されない。小説との決定的な違いがそこにある。つまり、ノンフィクションはその性格上、「本人証言」と「日記・手記の発掘」が極めて重要なのである。

取材の際、知加恵さんは著書だけでなく、事故に関連してご自身が登場したニュースやワイドショーを録画したDVDを提供してくれたり、取材後も自分の発言の訂正部分を手紙で書いて寄越してくれたり、積極的に取材にご協力をいただいた。

私は、ご自宅をお暇(いとま)する時も、「大変ありがとうございました。今日の取材と、このご本に添って、事実を間違えないようにきちんと書かせてもらいます」と約束し、その言葉通り、事実関係に間違いのないように原稿を書かせてもらった。そして、巻末には、「参考文献」として『雪解けの尾根』を明記したのである。

私が書いたのは、彼女がどう行動し、どう思ったのか、という「事実」だけである。つまり、私は「本人に直接会って」、「手記本を提供され」、記憶が曖昧になっていた本人に「記憶を喚起してもらいながら、その手記本をもとに事実確認取材をおこない」、これを記述したのである。

もちろん、手記本と同一の文章はひとつもなく、忠実に「事実」だけを描写させてもらった。事実がひとつしかない以上、突き詰めて取材すれば、「事実」が当事者の手記と似ているのは当然だ。いや、似ていなければ、それはノンフィクションではなく、小説になってしまう。

しかし、『風にそよぐ墓標』を発刊後、知加恵さんは「著作権侵害だ」と訴えてきたのである。私は、およそ30年にわたって記事や本を書く仕事をしているが、このようなことは無論、初めてである。

取材相手には、さまざまな方がおられるので、これもノンフィクションライターとしての宿命には違いない。この訴訟が起こされる4か月も前に、まだ当事者以外、誰も知らない時点で朝日新聞が社会面を5段も使って「日航機事故遺族、作家提訴の構え」と大々的に報じたのも、不思議だった。

以来、私はノンフィクション作品の取材と執筆に忙殺される中で、この訴訟とつきあってきた。私は取材時の録音テープやノートなども証拠として提出し、取材の時のようすを含め、すべてを法廷で立証した。

しかし、そこで私は「要件事実教育」を受けた官僚裁判官の実態にあらためて驚かされた。前述の通り、日本の裁判では、「事情」には踏み込まない。裁判官には、「小説とノンフィクションとの違い」や、「取材時のやりとり」、あるいは、本人が「手記本を提供した時のようす」……等々、そんな「事情」は関係がないのである。

今日、私は3月の一審につづいて、二審で、著作権侵害額として「2万5200円」、慰謝料を「50万円」、弁護士費用「5万2520円」という計「57万7720円」の支払いと書籍の「廃棄」を命じられた。

つまり、日本の著作権裁判では、著作権侵害で訴える人がいて、ふたつの書籍の記述の一部が「類似」しているという「要件事実」がそこにあれば、それでいいのである。

この判決に従えば、私は取材の時に「利用してはいけないもの」をご本人から提供され、それをもとにご本人に対して「書いてはいけない事実」を3時間半にわたって「確認取材」しつづけていたことになる。

私は溜息だけが出る。日本のノンフィクションはこれからどうなるのだろうか。この判決によって、今後、先行する「当事者の記述」が存在する場合、ノンフィクションは、どう「事実」を描写するのだろうか。

「わざと間違えて書く」か、あるいは、それを参考にすることに対して取材時に「契約書を交わす」ことが求められるようになるのだろうか。フィクション(虚構)のない世界を描く「ノンフィクション」は、今後、どうなっていくのだろうか。

いずれにしても、ノンフィクションの息づく範囲は極めて狭くなったと言わざるを得ない。「表現の自由」を脅かすこの判決が、「要件事実教育」がもたらす弊害であることは前述の通りだ。

判断をする時に問題の「本質」や「事情」に目を向けることができない官僚裁判官に、国民はいつまで「法廷の支配」を任せるつもりだろうか。私は、ふと、そう思った。日本は、官僚裁判官によって、やがて滅ぼされる。私は10年前に上梓した私自身の本の題名を今、あらためて思い起こしている。

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