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春、列島を横断する (13) - 石巻沖

2011-05-16 | 東北



はじめて見る大海。陸地も島影もなかった。波はあまたの兵士が入り乱れているように、ぶつかり、ひしめき、鬨の声をあげていた。灰色の空を槍のように船首が刺し、船体は高い水煙をあげて海の谷間に突っこんだかと思うと、ふたたび浮かびあがる。
侍は眩暈がした。額を撲つ風に息もつけなかった。東も波濤のおどり狂う海。西も波の闘う海。南も北も見わたすかぎり海。生まれてはじめて侍は海がどんなに広大かを知った。その海を前にして彼が住みついていた谷戸は一つの芥子粒にすぎぬこともわかった。おお、おお、と彼は叫んだ。・・・
「まこと大きい、世界とは」
だが風は侍の声をちぎり海の遠くに紙のように飛ばしていった。
「このような海が・・・ノベスパニアまでただ拡がっているとは信じられぬ」
(遠藤周作著『侍』より)





仙台藩主、伊達正宗の命を受け、それまで誰も成しえなかった太平洋・大西洋の二大洋を横断し、メキシコ、スペイン、イタリア、そしてバチカンと旅した常長ではあったが、日本との通商は、イエズス会宣教師らの抵抗により合意に至らない。

スペインでは、お役目達成のために洗礼を受け、過酷な7年の歳月を費やした。旅から帰国した時、幕府の政策は鎖国、そしてキリシタン禁教令下の真っただ中であったのだ。

帰国した常長を出迎えたのは、労をねぎらう言葉ではなく、仙台藩の冷たい態度であった。
常長は、非運にも反逆者キリシタンとして、幕府の厳しい追及を受ける。
そして2年後に失意のうちに死去したといわれる。

その後、常長は歴史の表舞台に立つことはなかった。

慶長遣欧使節は、「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であったことを考えると、あまりにも不運だったとしか思えない。




彼の業績が評価されるようになったのは、1873(明治6)年に岩倉使節団がヴェネツィアに赴いた際、常長の書状を発見した時のことであった。

250年の歳月が流れていた。





On the return trip, Hasekura and his companions re-traced their route across Mexico in 1619, sailing from Acapulco for Manila, and then sailing north to Japan in 1620. He is conventionally considered the first Japanese ambassador in the Americas and in Europe.

Although Hasekura's embassy was cordially received in Europe, it happened at a time when Japan was moving toward the suppression of Christianity. European monarchs such as the King of Spain thus refused the trade agreements Hasekura had been seeking.
Hasekura returned to Japan in 1620 and died of illness a year later, his embassy seemingly ending with few results in an increasingly isolationist Japan.




Japan's next embassy to Europe would only occur more than 200 years later, following two centuries of isolation, with the "First Japanese Embassy to Europe" in 1862.












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