「核燃料加工施設の事故で致死量の放射線を浴びた作業員は当初、普通に話せた。外見から医師と看護師が、どこが悪いのだろうと不思議に思ったほどである。だが、すべての臓器の検査値は刻々と悪化の一途をたどる。体内に取り込まれた放射線が細胞を容赦なく破壊していったからだ。医師たちは『放射線の恐ろしさは人知の及ぶところではなかった』と振り返る」
「写真には顕微鏡で拡大した骨髄細胞の染色体が写っているはずだ。しかし、写っていたのは、ばらばらの散らばった黒い物質だった。平井の見慣れた人間の染色体とはまったく様子が違っていた。」
「染色体がばらばらに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。被ばくした瞬間、大内の体は設計図を失ってしまったのだ。」
(『朽ちていった命—被曝治療 83 日間の記録』(新潮文庫)より)
茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所の臨界事故から10年を迎えた。
臨界事故は1999年9月30日午前10時35分、東海村のJCO東海事業所の転換試験棟で起きた、国内初の臨界事故。
作業員3人が重度の被ばくをして、うち2人が死亡。周辺住民や救急隊員、JCO社員ら663人が被ばくした。
事故後、村では一時、干しイモやナシが売れなくなるなどの風評被害も出た。
「もう一つ大内さんが訴えていたような気がしたことがあります。それは、放射線が目に見えない、匂いもない普段多くの人が危険だとは実感していないということです。そういうもののために、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変らなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。心臓を見ながら,大内さんがそう訴えているとしか思えませんでした。」『朽ちていった命—被曝治療 83 日間の記録』