GW読書週間の最後になるでしょうか。
「天皇裕仁と東京大空襲」 松浦総三著、大月書店 1994年。
◆防空活動も特攻だった
これがこの本を読んで最大の驚きでした。
著者は10万人が死んだといわれる1945年3月10日の東京大空襲 「戦災誌」 (東京空襲を
記録する会、1973~1975) の編者です。天皇に戦争責任があるという考えで発言が少し
過激ですが、東京大空襲を語るのに、1933年8月の関東防空大演習から説き起こします。
1933年8月9日、天皇陛下御沙汰 「天皇陛下におかせられてはこの度関東地方防空演習
挙行の趣聞し召され其意義の重大にして且つ酷暑の候演習員一同の労苦を思召され特に
侍従武官を差遣わしてその状況を実視せしむべき旨御沙汰あらせらる」 (26p)
しかし、「太平洋戦争突入前後までの、日本軍の防空体制を要約してみると、第一に
(迎撃の =rocky注) 戦闘機と高射砲の性能が悪く、(まるで =rocky注) 数が少なかった。
第二に、日本の家屋はドイツのように不燃建築ではなく、木と紙でできた、燃えやすい
ものだった。第三に、日本軍は敵を探知するレーダーが、欧米に比べてたいへんお粗末
だった。」 (25p)
これに対して陛下のご沙汰をいただくほどの防空大演習の内容は、灯火管制、火叩き、
防火用水、バケツリレー、防空頭巾といったおそろしく前近代的なもので、焼夷弾に
対してはほとんど無効な、むしろ熱心な対応要員を危険にさらすだけのものでした。
「日本の軍防空に、敵機に対してわが飛行機で向かう能力が全くなかったのである。
したがって裕仁らは、敵機に対して、民衆を動員して素手=肉弾で立ち向かわせたので
ある。」 (36p)
そのため、死ななくてよい人が少なからず犠牲になったことは確実です。このことは
本土決戦のための竹槍訓練にそのまま通ずるもので、特攻や玉砕作戦と選ぶところが
ありません。銃後も前線もなくなっていたのです。
◆桐生悠々の正論
このとき信濃毎日新聞主筆・桐生悠々が 「関東防空大演習を嗤 (わら) う」 という記事
を発表しました。
「(前略) 私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を
行っても、実際にはさほど役立たたないだろうことを想像するものである。
将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、(一部略) 二三の
討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして一挙に焼土たらしめ
るだろう (中略)。そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の
惨状を呈するだろうとも想像され (中略) しかも、こうした空襲は幾たびも繰り返される
可能性がある。
だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎え撃つということは、我が軍の敗北そのもので
ある。 (中略) 無電のしかく発達したる今日、敵機の襲来は早くも我が軍の探知し得るところ
だろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我が機は途中に (中略) これを迎え撃って、
断じて敵機を我が領土の上空に出現せしめてはならない。
こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のもので
あり、又如何に屡々それが行われても、実戦には何等の役にも立たないだろう。(以下略)」
至極当然のこの論は陛下のご沙汰を愚弄するとの長野県在郷軍人会の猛抗議を受け、
桐生氏は退社することとなり、防空演習はなんら改善されることはありませんでした。
◆天皇の防空壕と庶民のそれの落差
1941年に造られた 「裕仁夫妻の防空壕は1トン爆弾に耐えるように造られ、45年6月ごろ
には6トン爆弾に耐えられるよう補強された。」 外聞を憚り 「御文庫」 と呼ばれたその
防空壕の建坪は1320平方メートルもありました。(81P) とても現実にはあり得ない6トン
爆弾までも想定したのですから、いかに念を入れたかが分かります。
一方庶民の防空壕はというと、フランス人記者ロベール・ギランによれば、1943年9月の
ある日、「東京の大地に突如として数百万の穴が掘られた。 (中略) 上からの命令で、
全市のいたるところで一斉に熱心にほられることになったこれらのお粗末な塹壕、これ
こそ、政府が間近い空襲に対して、七百万の住民を保護するためにとった措置のすべて
だったのである。 (中略) 少なくとも当面のところは、覆いすらなかった」 (96P)
(R・ギラン 「日本人と戦争」)
あまりの違いに愕然とします。
日本軍の無差別空爆で知られる重慶の防空壕は防空洞と呼ばれ、1980年代には地下街
となり、「前田哲男の力作 『戦略爆撃の思想』 によると、総延長875メートル、3500平方
メートルの遊楽場」 になっていたほどでした。 (90P)
中国と較べてもこの落差ですから、いかに日本が庶民の人命を軽視していたかが分かり
ます。天皇はこうした国民の防空対策の実態をを知らなかったはずがありません。
◆東京大空襲に感想 「これで東京も焦土になったね」 とは・・・
大演習から12年後、すでに数度の空襲を受けていた東京は、1945年3月10日の 「東京大空襲」
を迎えることになります。下町一帯は一望の焼け野原となり、10万人もが死亡したと言われ、
原子爆弾にも劣らない史上空前の大戦災となりました。
その8日後の3月18日、天皇は藤田尚徳侍従長らを従え、現地視察を決行します。
そして陛下が藤田に語ったという言葉、「関東大震災の後にも、馬で市内を巡ったが、
今回の方がはるかに無惨だ。あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせい
だろうが、それほどむごたらしく感じなかったが、今度はビルの焼け跡などが多くて
一段と胸が痛む。侍従長、これで東京も焦土になったね。」
(藤田尚徳 『侍従長の回想』 中公文庫)
「これで東京も焦土になったね」 の軽さに衝撃を受けます。死者数などの詳細な報告を
受けていたはずなのに、国民の悲惨な境遇を思いやる言葉ではありませんでした。その
後も数多くの都市が空襲で焼け野原になり、原爆が2発落とされました。
陛下が真に平和主義であり、国民のことを深く憐れむ方であったなら、著者松浦氏の言う
ごとく3月10日をもって終戦を決定されたはずだと思います。このような大空襲を許した
軍部を厳しく叱責し、その発言権を奪うことができないはずがありません。ところが逆に、
ポツダム宣言受諾の唯一の条件となった国体の護持、つまり天皇制の維持と裕仁自身の
生き残りが、終戦までの戦争継続の目的となったのでした。なんという惰弱卑劣な天皇で
しょう。
「焼け跡を見ながら、裕仁の胸に去来したのは、庶民の悲惨などではなく、敗戦で 『天皇
制は生き残れるか』 であったに違いない。」 (175p)
◆「原爆はやむを得ない」 に通じる軽さ
天皇の言葉の軽さは、1975年10月31日、訪米から帰国した際に行われた日本記者クラブ
の記者会見での、質問に対する返答にもよく表れています。
[問い]
陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」 という
ご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して
責任を感じておられるという意味ですか? また陛下は、いわゆる戦争責任について、
どのようにお考えになっておられますか? (ザ・タイムズ記者)
[天皇]
そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、
よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
これは当時あまり追及されずユーモアととらえられたような印象がありますが、戦争責任が
「言葉のアヤ」 とは、何とも人を馬鹿にした言い方ではありませんか。天皇には対英米戦争
だけでなく、満州事変以来の15年戦争全体に責任があるはずです。卑怯卑劣なゴマカシ以外
の何物でもありません。
[問い]
戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられまし
たか? (中国放送記者 秋信利彦)
[天皇]
原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であること
ですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思って
おります。
原爆投下を 「やむを得ないこと」 とは、どういう神経でしょうか。どれほどの苦しみを、
亡くなった方々や被爆者の方々が引き受けたのか。戦争の責任も庶民の苦しみも全く感じる
ことのない、これほどデタラメな男が天皇だったというのは、じつに残念です。せめて退位
するなり謝罪の言葉を残すなりするべきだった。今となってはもうどうすることもできません。
昭和天皇が平和主義者だったとか、軍部が強硬で和平を進めるのが困難だった、とかいう
擁護論は、事実を見ようとしていないと思います。軍部をつけ上がらせたのは統帥権を持つ
昭和天皇自身に他なりません。立憲君主制と称して輔弼の臣だけに責任をかぶせるのは、
天子にあるまじき隠遁の術というべきです。
◆敗戦直後に天皇が詠んだ歌
みはいかになるともいくさととめけり たふれゆく民をおもひて
国からをたた守らんといはら道 すすみゆくともいくさとめけり
(木下道雄 -侍従次長 1945.10~1946.05- 「側近日誌」 『文芸春秋』 1989年4月)
天皇はこの2首を、「1945年12月15日、側近の木下道雄を呼びつけ、宣伝にならぬ方法にて
世上にひろめることを命じた」 といいます。(177p)
私の死んだ父 (終戦前年に応召しタイあたりに配属されたらしい) は、天皇は偉かったと
思っていたようで、この歌をどこかから聞き込んで誰いうともなく口にしていたような
記憶があります。
「身はいかになるとも」 というのですが、日本は8月10日に降伏条件として国体護持のただ
1点のみを提示し、8月12日米バーンズ国務長官回答の 「政府の形態を国民の自由意志で
決定する」 という表現が国体に反するということで紛糾したが、14日御前会議で再度の
「御聖断」 により受諾を決定したわけです。国民が天皇制を維持したいと言えばいいのです
から、天皇には国民を手なづける自信があったのでしょう。
終戦の詔書はそのための言い回しになっていると思います。詔書にはこうあります。
「朕ハ茲 (ここ) ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ・・・」
国体を護持し得たと思ったから降伏したと明記してあり、占領後すぐそれは確認されまし
たが、その確信が持てるまでは、何十万何百万が死のうとも心は痛まなかったと思われ
ます。
歌を詠んだのは身の安全が確認された後のことです。
(わが家で 2014年5月6日)
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