花の公園・俳句 ing

日本は素晴しい花の国。美しい花々と公園、四季折々の風景を記録したいと思います。我流の俳句は06年3月12日からです。

謎のバラ ロングアイランド

2014年05月09日 07時18分33秒 | ばら     
川口グリーンセンター洋館前のバラ花壇に早咲きのバラが咲いています。
これはプレートに 「ロングアイランド 四季咲き中輪系バラ 日本」 と
あり、隣りの濃い紅のカクテルと一緒に咲いています。
しかしこの 「ロングアイランド」 はWebで検索してもたった2件しか
ヒットしません。

http://maqueue.web.fc2.com/rose-longirland.html には、「カクテルの
枝代わり種。長島ともロングアイランドとも呼ばれる。」 とあります。画像
はどこで撮ったのか記載がありません。長島という方が作出したので
しょうか。

もう一つ、
http://jenny.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9?sid=49248dc0884df8d6e32b0ca0bd7081f0 
には画像数点があり、すべて川口GCのものですが、作出などの情報は
全然ありません。

どこの誰が何からいつ作出したのか、バラであればそうした情報がある
のが普通です。このロングアイランドは謎のバラですね。
何かご存じの方はぜひ教えてください。
      (埼玉県川口市 川口グリーンセンター 2014年5月8日)


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濃い赤はカクテルです。



カクテルが上のほうに伸び、下の方がロングアイランドです。

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満開の玉サボテン

2014年05月08日 07時03分50秒 | 黄・きみどり・緑の花        
透き通るような黄色の花が満開の玉サボテン、オウサイギョク 黄彩玉、別名に
オウサイマル 黄彩丸、また フェロカクツス・シュワルツィー (シュワルジー、
またスクワルジィ)。

メキシコ原産で、直径 40~50 センチにもなる大型の玉サボテンです。学名 
Ferocactus schwarzii 。
属名は 「恐ろしいサボテン」 という意味で、また種小名はこのサボテンの第一
発見者である20世紀の採集家 フリードリッヒ・シュワルツ Friedrich (Fritz) Schwarz
氏の名を採ったもの。それでいくと筑波実験植物園のプレートの 「シュワルツィー」
が良い感じですね。

実は1週間違いで撮っていたのですが、大宮のオウサイギョクはセロカクツス属
とあり、調べてみるまで筑波のフェロカクツス・シュワルツィーと同じものだと
気が付きませんでした。

黄彩 (おうさい) とは花の色ではなくトゲの色からだそうで、新しい刺は黄色で
少しずつ退色していくそうです。(参考: 名古屋市立東山植物園)  

     (さいたま市 大宮市民の森  2014年5月2日)
     (茨城県つくば市 筑波実験植物園 2014年4月26日、2013年6月1日)

  
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上3枚は 大宮市民の森 2014年5月2日。

これは 筑波実験植物園 2014年4月26日。


最後は 筑波実験植物園 2013年6月1日。ほぼ咲き終わりです。
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薄化粧ではなく濃い紅の

2014年05月07日 07時47分09秒 | 黄・きみどり・緑の花        
キラキラと輝く、金色の星のような花が地面を覆う、セダム・パルメリ (パーマリ)。 
和名はウスゲショウ (薄化粧)というしゃれた名前です。
メキシコ北東部原産で、ベンケイソウ科マンネングサ属、学名 Sedum palmeri 。

多肉植物で、葉の色が紅葉したように赤くなったりするので観葉植物としても
扱われるようですが、色は薄化粧というよりだいぶ濃い紅ですね。

種小名 palmeri は英国の植物学者エドワード・パーマー博士 Dr. Edward Palmer
(1829-1911)を記念するものです。
      (茨城県つくば市 筑波実験植物園 2014年4月26日、2013年4月4日)

  
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メインは筑波実験植物園 2013年4月4日。
下2枚は 2014年4月26日。半分くらいの葉の色が濃い紅になっています。


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空襲対策は特攻と同じだった

2014年05月06日 23時20分47秒 | 本、HP制作、写真のアップ       
GW読書週間の最後になるでしょうか。
「天皇裕仁と東京大空襲」 松浦総三著、大月書店 1994年。

◆防空活動も特攻だった
これがこの本を読んで最大の驚きでした。

著者は10万人が死んだといわれる1945年3月10日の東京大空襲 「戦災誌」 (東京空襲を
記録する会、1973~1975) の編者です。天皇に戦争責任があるという考えで発言が少し
過激ですが、東京大空襲を語るのに、1933年8月の関東防空大演習から説き起こします。

1933年8月9日、天皇陛下御沙汰 「天皇陛下におかせられてはこの度関東地方防空演習
挙行の趣聞し召され其意義の重大にして且つ酷暑の候演習員一同の労苦を思召され特に
侍従武官を差遣わしてその状況を実視せしむべき旨御沙汰あらせらる」 (26p)

しかし、「太平洋戦争突入前後までの、日本軍の防空体制を要約してみると、第一に
(迎撃の =rocky注) 戦闘機と高射砲の性能が悪く、(まるで =rocky注) 数が少なかった。
第二に、日本の家屋はドイツのように不燃建築ではなく、木と紙でできた、燃えやすい
ものだった。第三に、日本軍は敵を探知するレーダーが、欧米に比べてたいへんお粗末
だった。」 (25p)
これに対して陛下のご沙汰をいただくほどの防空大演習の内容は、灯火管制、火叩き、
防火用水、バケツリレー、防空頭巾といったおそろしく前近代的なもので、焼夷弾に
対してはほとんど無効な、むしろ熱心な対応要員を危険にさらすだけのものでした。
「日本の軍防空に、敵機に対してわが飛行機で向かう能力が全くなかったのである。
したがって裕仁らは、敵機に対して、民衆を動員して素手=肉弾で立ち向かわせたので
ある。」 (36p) 
そのため、死ななくてよい人が少なからず犠牲になったことは確実です。このことは
本土決戦のための竹槍訓練にそのまま通ずるもので、特攻や玉砕作戦と選ぶところが
ありません。銃後も前線もなくなっていたのです。

◆桐生悠々の正論
このとき信濃毎日新聞主筆・桐生悠々が 「関東防空大演習を嗤 (わら) う」 という記事
を発表しました。
「(前略) 私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を
行っても、実際にはさほど役立たたないだろうことを想像するものである。
将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、(一部略) 二三の
討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして一挙に焼土たらしめ
るだろう (中略)。そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の
惨状を呈するだろうとも想像され (中略) しかも、こうした空襲は幾たびも繰り返される
可能性がある。
だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎え撃つということは、我が軍の敗北そのもので
ある。 (中略) 無電のしかく発達したる今日、敵機の襲来は早くも我が軍の探知し得るところ
だろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我が機は途中に (中略) これを迎え撃って、
断じて敵機を我が領土の上空に出現せしめてはならない。
こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のもので
あり、又如何に屡々それが行われても、実戦には何等の役にも立たないだろう。(以下略)」

至極当然のこの論は陛下のご沙汰を愚弄するとの長野県在郷軍人会の猛抗議を受け、
桐生氏は退社することとなり、防空演習はなんら改善されることはありませんでした。

◆天皇の防空壕と庶民のそれの落差
1941年に造られた 「裕仁夫妻の防空壕は1トン爆弾に耐えるように造られ、45年6月ごろ
には6トン爆弾に耐えられるよう補強された。」 外聞を憚り 「御文庫」 と呼ばれたその
防空壕の建坪は1320平方メートルもありました。(81P) とても現実にはあり得ない6トン
爆弾までも想定したのですから、いかに念を入れたかが分かります。

一方庶民の防空壕はというと、フランス人記者ロベール・ギランによれば、1943年9月の
ある日、「東京の大地に突如として数百万の穴が掘られた。 (中略) 上からの命令で、
全市のいたるところで一斉に熱心にほられることになったこれらのお粗末な塹壕、これ
こそ、政府が間近い空襲に対して、七百万の住民を保護するためにとった措置のすべて
だったのである。 (中略)  少なくとも当面のところは、覆いすらなかった」 (96P)
(R・ギラン 「日本人と戦争」)  
あまりの違いに愕然とします。

日本軍の無差別空爆で知られる重慶の防空壕は防空洞と呼ばれ、1980年代には地下街
となり、「前田哲男の力作 『戦略爆撃の思想』 によると、総延長875メートル、3500平方
メートルの遊楽場」 になっていたほどでした。 (90P)
中国と較べてもこの落差ですから、いかに日本が庶民の人命を軽視していたかが分かり
ます。天皇はこうした国民の防空対策の実態をを知らなかったはずがありません。

◆東京大空襲に感想 「これで東京も焦土になったね」 とは・・・
大演習から12年後、すでに数度の空襲を受けていた東京は、1945年3月10日の 「東京大空襲」
を迎えることになります。下町一帯は一望の焼け野原となり、10万人もが死亡したと言われ、
原子爆弾にも劣らない史上空前の大戦災となりました。

その8日後の3月18日、天皇は藤田尚徳侍従長らを従え、現地視察を決行します。
そして陛下が藤田に語ったという言葉、「関東大震災の後にも、馬で市内を巡ったが、
今回の方がはるかに無惨だ。あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせい
だろうが、それほどむごたらしく感じなかったが、今度はビルの焼け跡などが多くて
一段と胸が痛む。侍従長、これで東京も焦土になったね。」
                  (藤田尚徳 『侍従長の回想』 中公文庫)
「これで東京も焦土になったね」 の軽さに衝撃を受けます。死者数などの詳細な報告を
受けていたはずなのに、国民の悲惨な境遇を思いやる言葉ではありませんでした。その
後も数多くの都市が空襲で焼け野原になり、原爆が2発落とされました。
陛下が真に平和主義であり、国民のことを深く憐れむ方であったなら、著者松浦氏の言う
ごとく3月10日をもって終戦を決定されたはずだと思います。このような大空襲を許した
軍部を厳しく叱責し、その発言権を奪うことができないはずがありません。ところが逆に、
ポツダム宣言受諾の唯一の条件となった国体の護持、つまり天皇制の維持と裕仁自身の
生き残りが、終戦までの戦争継続の目的となったのでした。なんという惰弱卑劣な天皇で
しょう。
「焼け跡を見ながら、裕仁の胸に去来したのは、庶民の悲惨などではなく、敗戦で 『天皇
制は生き残れるか』 であったに違いない。」 (175p)

◆「原爆はやむを得ない」 に通じる軽さ
天皇の言葉の軽さは、1975年10月31日、訪米から帰国した際に行われた日本記者クラブ
の記者会見での、質問に対する返答にもよく表れています。

[問い]
  陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」 という
  ご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して
  責任を感じておられるという意味ですか? また陛下は、いわゆる戦争責任について、
  どのようにお考えになっておられますか? (ザ・タイムズ記者)
[天皇]
  そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、
  よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。

これは当時あまり追及されずユーモアととらえられたような印象がありますが、戦争責任が
「言葉のアヤ」 とは、何とも人を馬鹿にした言い方ではありませんか。天皇には対英米戦争
だけでなく、満州事変以来の15年戦争全体に責任があるはずです。卑怯卑劣なゴマカシ以外
の何物でもありません。

[問い]
  戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられまし
  たか?   (中国放送記者 秋信利彦)
[天皇]
  原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であること
  ですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思って
  おります。

原爆投下を 「やむを得ないこと」 とは、どういう神経でしょうか。どれほどの苦しみを、
亡くなった方々や被爆者の方々が引き受けたのか。戦争の責任も庶民の苦しみも全く感じる
ことのない、これほどデタラメな男が天皇だったというのは、じつに残念です。せめて退位
するなり謝罪の言葉を残すなりするべきだった。今となってはもうどうすることもできません。

昭和天皇が平和主義者だったとか、軍部が強硬で和平を進めるのが困難だった、とかいう
擁護論は、事実を見ようとしていないと思います。軍部をつけ上がらせたのは統帥権を持つ
昭和天皇自身に他なりません。立憲君主制と称して輔弼の臣だけに責任をかぶせるのは、
天子にあるまじき隠遁の術というべきです。

◆敗戦直後に天皇が詠んだ歌
   みはいかになるともいくさととめけり たふれゆく民をおもひて
   国からをたた守らんといはら道 すすみゆくともいくさとめけり
     (木下道雄 -侍従次長 1945.10~1946.05- 「側近日誌」 『文芸春秋』 1989年4月)

天皇はこの2首を、「1945年12月15日、側近の木下道雄を呼びつけ、宣伝にならぬ方法にて
世上にひろめることを命じた」 といいます。(177p)
私の死んだ父 (終戦前年に応召しタイあたりに配属されたらしい) は、天皇は偉かったと
思っていたようで、この歌をどこかから聞き込んで誰いうともなく口にしていたような
記憶があります。

「身はいかになるとも」 というのですが、日本は8月10日に降伏条件として国体護持のただ
1点のみを提示し、8月12日米バーンズ国務長官回答の 「政府の形態を国民の自由意志で
決定する」 という表現が国体に反するということで紛糾したが、14日御前会議で再度の
「御聖断」 により受諾を決定したわけです。国民が天皇制を維持したいと言えばいいのです
から、天皇には国民を手なづける自信があったのでしょう。

終戦の詔書はそのための言い回しになっていると思います。詔書にはこうあります。

   「朕ハ茲 (ここ) ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ・・・」

国体を護持し得たと思ったから降伏したと明記してあり、占領後すぐそれは確認されまし
たが、その確信が持てるまでは、何十万何百万が死のうとも心は痛まなかったと思われ
ます。
歌を詠んだのは身の安全が確認された後のことです。
       (わが家で  2014年5月6日)

  
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満開の紫晃星は 「アフリカの盆栽」!?

2014年05月06日 07時39分03秒 | ピンク・うす紫の花 
筑波実験植物園温室の外の岩地に、紫がかったピンクの花が地面に咲いて
います。プレートには トリコディアデマ デンスム Trichodiadema densum 
(学名そのまま)。 
和名を紫晃星というそうで、咲き初めは紫色が強い感じです。

南アフリカ・ケープ州、Willowmore 原産で、ハマミズナ科 Trichodiadema 属、
塊根をもつ有茎の多肉植物です。プレートにはサボテン科とありますが、英国
キューガーデンHPによるとハマミズナ科であり、また花が咲きにくいとあります。
しかし株全体を覆うこの花の見事さはどうでしょう!!
 
CACTUS ART NURSERY によると、一般名を African Bonsai、「アフリカの盆栽」 
とは驚きですね。 いったい誰が名づけたものでしょうか。
また Miniature Desert Rose とも。

なお属名 Trichodiadema は、葉先端から放射状に伸びている 「毛のような冠」
を意味します。
     (茨城県つくば市 筑波実験植物園 2014年4月26日、2013年4月4日)

  
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上3枚は筑波実験植物園 2014年4月26日。

下は 2013年4月4日。この時は咲き初めです。
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雑草? には惜しい、オニタビラコ

2014年05月05日 07時46分24秒 | 黄・きみどり・緑の花        
40~80cmほどの茎の先に、黄色いタンポポやジシバリに
似た花が群がって咲く、オニタビラコ (鬼田平子)。
キク科オニタビラコ属、学名 Youngia japonica 。

日本全土から、中国、インド、ヒマラヤ、ミクロネシア、
オーストラリアまで広く分布します。

Wikipediaでは 「道端や庭に自生する雑草」 とあります
が、すっくと立って叢生する姿は雑草にしておくのは惜し
い感じがしますね。花は直径1cmほどと小さいのですが、
高さがありまとまって咲きますから、この園芸品種ができ
たら面白いと思います。葉は地面近くでロゼット状になり
ます。

Wikipedia の、「和名の 『オニタビラコ (鬼田平子)』
は 『大柄なタビラコ』 の意であろう。タビラコはコオニ
タビラコのことである。コオニタビラコは春の七草の
一つ 「ほとけのざ」 のことなので、話は循環してしまっ
ている。」 とか、

イー・薬草.com の、「タビラコ (田平子) は、田で葉を
ロゼット状に平らに広げる様子を、田平子で、タンポポ
より小型から子 (こ) がついたという。また、タビラコ
(コオニタビラコ) より大型で、茎や葉が紫褐色を帯び
ることから、鬼 (おに) が付いたという。」
  
といった解説は、ホトケノザ がシソ科オドリコソウ属で、
オニタビラコとは草姿も花も似ても似つかないので、納得
できないところがあります。
   (さいたま市 大宮市民の森 2014年5月2日)

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米ツツジ がなぜか 雲仙ツツジに

2014年05月04日 10時30分23秒 | ピンク・うす紫の花 
ツツジがにぎやかな季節になってきました。
これは小ぶりの薄ピンクの花が樹形全体を包む、ウンゼンツツジ (雲仙躑躅)。
ツツジ科ツツジ属、学名 Rhododendron serpyllifolium。

日本固有種で、本州 (伊豆半島・紀伊半島)・四国 (南部)・九州 (大隅半島) に
分布します。和名は雲仙岳に因むのですが、長崎県 (雲仙地方) には自生しない
そうです。同地方で雲仙つつじと呼ぶものは、植物名はミヤマキリシマです。

Rhododendron serpyllifolium は幕末には 「こめつつじ」 と呼ばれ、明治中期に
「うんぜんつつじ」 と呼ばれるようになり、雲仙岳に自生する元の 「うんぜんつつじ」
は 「みやまきりしま」 と呼ばれるようになったそうです。(参考:跡見群芳譜)

なお種小名は、「イブキジャコウソウ=クリーピングタイムに似た葉の」 という
意味です。そういわれればちょっと似ています。       
       (茨城県つくば市 筑波実験植物園 2014年4月26日)

  
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初めて見た! 白花サギゴケ

2014年05月04日 07時22分24秒 | 白・淡い黄の花 
実野里フェイバリットガーデンに見慣れない白い花が地面に咲いていました。
よく見るとムラサキサギゴケとそっくりで、これはシロバナサギゴケ 白花鷺苔
でした。

ゴマノハグサ科サギゴケ属、学名 Mazus miquelii f. albiflorus (Makino) Makino。
意外によくある花だというのですが、私はブログを始めて10年目で初めて見ました。

なおムラサキサギゴケと花色以外に異なるところがないので、学名は同じそうです。
       (埼玉県久喜市 実野里フェイバリットガーデン 2014年4月26日)

  
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真珠湾攻撃は 紛れもない国際法違反だった

2014年05月03日 23時19分12秒 | 本、HP制作、写真のアップ       
この連休は読書週間のようです。
「真珠湾 <奇襲> 論争」 須藤眞志著、講談社 2004年。

いまだに真珠湾が 「奇襲」 だったかどうか、アメリカの陰謀だったとか
ルーズベルトは知っていたといった説が出されます。私たち日本人として、
これに明確な判断を持っている必要があると感じます。

またアメリカ人には、真珠湾奇襲の報復として原爆を落とした、という
考え方があるそうです (24p) が、原爆は人道に反する罪として真珠湾とは
まったく別途に批判されるべきものだと思います。

須藤氏は、ルーズベルト陰謀説を確かな根拠のない説として徹底批判します。
「2001年の真珠湾攻撃60周年のとき、多くの真珠湾ものが出版されたが、
そのほとんどが陰謀論に傾いており、」 (中略) 「とくにロバート・スティ
ネットの 「真珠湾の真実」 が出されたときは大きな話題を呼んだ。」 (245p) 
しかし須藤氏は様々な史料を研究して 「陰謀論は成立しない」 という立場
を堅持しているそうで、本書でも丹念に陰謀説を論破しています。

◆ハル・ノートの評価
日本にはハル・ノートが開戦の決定打になった、とする論者が多く、私もこの
本を見るまでそう思っていました。しかし日本の戦争決意はハル・ノートで
決まったものではなく、「アジア・太平洋戦争史-同時代人はどう見ていたか」
の山中恒氏と同様に、7月2日の御前会議で決めた 『情勢の推移に伴う帝国
国策要綱』 で決まっており、「いかなる障害もこれを排除する」 という決意
に基づく南部仏印進駐で石油禁輸に至った。つまり 「英米蘭の資産凍結の前に
戦争決意を固めていた」 とします。(58p)

須藤氏は、ハル・ノートの内容はアメリカが経済封鎖を解除するなど日本に
とって受け入れやすい項目を含んでおり、東郷氏が回顧録で、受諾することは
「日本の自殺に等しい」 とまで言うほどの内容ではない、だから日本が絶対に
受け入れ難いと考えた 「中国」 からの撤兵が 「満州」 を含むのかどうか、
確認すべきだったとします。(70p、149-150p)  
12月7日の天皇に対するルーズベルト大統領の親書でも、中国や満州ではなく
「南部仏印進駐」 だけを問題視しているのです。ハル自身は最後通告である
ことを否定しており、その形式も最後通牒の要件を満たしていません。

この程度のことで、日本外交のトップである東郷氏は本当に頭に血が上った
のか? あるいは戦後になって開戦を容認したことの言い訳に使っているの
ではないか、とさえ私には感じられます。


◆奇襲か否か、については、やはり下の3つがポイントだと思います。

① 通告と攻撃の時間関係
日本の戦争決意と対米外交上のやり取りの時間関係を確認すれば、以下の
通りです (rocky作成)。通告文の翻訳・タイプの遅れなど、永年いろいろと
論議の的になっていますが、須藤氏は 「日本本土と在米大使館のコミュニ
ケーションギャップ」 がその真因だと論じています。
慧眼だと思いますがここでは割愛します。

11月5日  御前会議 「12月1日までに日本側提案を受諾しなければ開戦」
       と決定
11月26日 朝6時 連合艦隊がヒトカップ湾を出航
同日  午後5時 ハル・ノート手交 (ワシントン) 
12月1日  日本、開戦を決定
12月2日  開戦日を12月8日と指示する 「ニイタカヤマノボレ1208」 を打電
12月6日  対米通告文を日本大使館に発信 (14分割のうち第1~13部)
  7日午前 対米通告の最終第14部発信 「(米東部時間) 7日13時に手交
       すべし」
12月7日  天皇に対するルーズベルト大統領の親電来電 (陛下はこれを見な
      かったらしい)
12月8日2時40分 (ハワイ12月7日7時10分、米東部12時40分) 
      米海軍ワード号が国籍不明の潜水艦を撃沈 (のちに日本軍の
      潜航艇 「甲標的」 と判明)
12月8日3時 (ハワイ12月7日7時30分、米東部13時) 
      対米通告予定時間を過ぎて手交できず
12月8日3時25分 (ハワイ12月7日7時55分、米東部13時25分) 
      真珠湾第1波攻撃
12月8日4時20分 (ハワイ12月7日 8時50分、米東部14時20分) 
      対米通告を手交

対米通告を手交する時間は、奇襲作戦が成功するよう攻撃のできるだけギリギリ
直前に設定され、当初1時間前の予定だったものが最終的に30分前になりました。
実際手交できたのは、真珠湾攻撃の約1時間後でした。アメリカとの交戦 (日本
の特殊潜航艇が撃沈された) は、偶発的とはいえ何と手交予定時間よりさらに20分
前でした。

 ◇なぜ東京で通告しなかったのか
物事に時間的誤差がありうることを考えると、真珠湾奇襲攻撃と最後通牒の関係は
まさにバクチでした。結城司郎次参事官が昭和22年に外務省に提出した事情説明
の私信に、
「攻撃開始直前僅々30分間にかかる重大な結果を伴う通告を終了せしむるがごとき
際どい芸当を企図する以上、手続き上の訓令は今少しく親切にすること然るべく、
(中略) 他方かかることは防諜上よりも困難であったのだと思われる。」 (178p) 
と述べているそうです。
しかしそんな曲芸を企図するなら、大部の文書を暗号電信などせず、東京で駐日
アメリカ大使グルーに10分前あるいは5分前に通告すればよかったわけです。なぜ
時間の正確性と防諜上の安全性を同時に確保できる、国際的にも何の問題もない
方法を取らなかったのか。これもまた実に理解不能であり、歴史研究の大きな
テーマになるものと思います。

② 通告内容は最後通牒になっていない
手交した対米通告は形式と内容においてハーグ第三条約の定める最後通牒という
形になっていませんでした。東郷外相は東京裁判で、「これが形式的には宣戦の
通告とは異なるものであることは明らかである」 としたそうです。(191p) 
アメリカ・ワシントン大学のビュートー教授は、日本側に 「最後通牒としての
内容と形式をきちんと整えた、書簡とステートメントが存在していたことを明らか
にした。」 (194-195p) 
その起草者は北米課長だった加瀬俊一氏だったとのことです。外交のプロとしては
手交する文書が最後通牒の形になっていないと考えており、結局提出する機会は
なかったけれどもキチンとした文書を用意したわけです。加瀬氏は 「できうるなら
海軍側は完全な奇襲攻撃にしたいと考えていたのであり、当時はとてもあのような
文章を出す雰囲気ではなかったと述べている」 そうです。
在米日本大使館は開戦日時を知らず、最終を除く13部の電文を解読して、これは
日米交渉打ち切りの通告であって最後通牒とは考えなかったと思われます。

日米交渉打ち切りというなら開戦の通知に決まっている、という暴論を振り回す
人がいますが、別に戦争するための交渉をしていたわけではありません。開戦の
意思が明記されていなければ、交渉を再開することだってありうるわけです。

③ 非通知はハーグ第三条約違反だと認識していた
日本側は通告を真珠湾攻撃1時間前の12時半と決めており、直前になって軍令部
次長の指示で30分繰り下げ13時としました。「それでも攻撃までには十分余裕が
あるとのことだった。」 (中略) これは 「外務省も軍部も攻撃より前に通告すべ
きこと、つまりハーグ第三条約を十分に認識していたということである。」 (192p) 
「一人として、自衛戦争だから通告しなくてもハーグ条約違反にならない、など
とは言っていない」 のです。
また東條氏は東京裁判で、天皇陛下が 「最後通牒を発する以前に真珠湾攻撃を
やってはいけない」 と繰り返し戒めたと証言しています。(197p) 開戦時の日本
指導層は陛下を始めとしてハーグ第三条約を強く意識していたことになります。
ところが対米通告は最後通牒というには程遠い内容になっており、これについて
須藤氏は、陛下は東條首相が差しだした 「開戦の大詔」 文案を対米通告文と
同じと思った可能性があると考えています。
(私は、色々細かなことにも配慮を示している陛下が、「汝有衆ニ示ス」 とある
大詔と対外最後通牒を混同したとはどうも思えませんが、手許に証拠もありま
せん。これもまた別の検討課題でしょう。)

◆結論
キチンとした開戦通告なら1分前でも良かったわけですが、結局真珠湾攻撃は
やはり奇襲であった、と言わざるを得ません。

日本の右派論客が陰謀論を好きな理由は、その方が少しでも気が楽になる、
免罪された気分になるということでしよう。
しかしルーズベルトにだまされた、経済封鎖で苛められた、という、歴史全体
の流れに目をそむけた 「イジメられっ子史観」では、真実は見えません。何と
情けない話ではありませんか。
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美しい 桜アオイ

2014年05月03日 07時26分20秒 | ピンク・うす紫の花 
桜はもう終わりですが、アオイにしては小ぶりの、桜のように美しいピンクの
花をたくさん咲かせている、アニソドンテア・マルヴァストロイデス (桜葵)。
(なおマルウァストロイデスとしているサイトもあります・・)。

アオイ科アニソドンテア属、学名 Anisodontea malvastroides 。 
南アフリカの東ケープ地方から西ケープ地方に分布し、温度があれば一年中
ピンク色の5弁花を咲かせるそうです。(参考: Weblio辞書 植物図鑑)

みんなの花図鑑でこの花を 「サクラアオイ (桜葵)」 としているのですが、
GKZ植物図鑑では A. capensis をサクラアオイとしています。花色などを見ると
malvastroides が桜葵の雰囲気にぴったりですね。
     (茨城県つくば市 筑波実験植物園 2014年4月26日、2013年6月1日)
  

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上3枚が筑波実験植物園 2014年4月26日、
下は 2013年6月1日です。

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山中恒氏の著作に目を開く

2014年05月02日 23時23分50秒 | 本、HP制作、写真のアップ       
「アジア・太平洋戦争史-同時代人はどう見ていたか」 山中恒著、岩波書店 2005年。
いくつもの点で目を開かされた、貴重な書です。

1931年、満州事変の年に生まれ、戦中の初等教育の実態を浮き彫りにした 「ボクラ小国民」
シリーズで知られる著者は、「戦後定説となった歴史認識に漠然とした疑問を抱くように
なった。」 (まえがき )

「たとえば、一般的に戦争を起こしたのは軍部といわれている。(中略) 一部の軍人が加害者
で、なにも知らされなかった国民は犠牲者、被害者ということになる。(中略) しかし日本人
の被害意識を根底とした戦争体験だけでは、あの戦争の全体像はとらえることができないし、
戦争の有機的な構造や発生原因をさぐることは難しい。(中略) 歴史的、国際的、経済的な
面には目が向かない。日本軍がアジア諸国の人々をいかに非人道的に扱ったかも視野に
入ってこない。」 (まえがき ) 

戦後の多くの書物は、「第1次大戦中に日本が中国に21か条条約を押し付けた結果、中国側
のナショナリズムを昂揚させ、抗日運動を激化させた。中国を支援する米英に対する日本側
の政策の失敗は日米関係を悪化させ、最終的に石油の禁輸を招いた。そのために日本はやむ
にやまれず真珠湾を攻撃した。」 と語っている。私はそれさえ疑っている。『やらされた戦争』
という言い方で、あの戦争を免罪するつもりなのか。重要なのは、なぜ中国が抗日、排日運動
をやめなかったか、なぜアメリカが石油を禁輸したか、その理由を理解することである。」 
(まえがき ) 

◆対アジア優越感
著者は、明治政府の征韓論から説きおこし、非欧米で独立を守り改革を進める日本が遅れた
アジア諸国を指導するという意識、朝鮮半島は日本に向けられた匕首のようで、日本の死命
を制する重要地域である、という認識が日本指導層に一般的だったことを明らかにします。

日清戦争に勝利し台湾を植民地とし、さらに日露戦争にも勝利すると、南満州の権益を継承。
朝鮮を威圧してついに併合します (1910)。満蒙 (満州・外蒙古) は資源豊富かつ朝鮮の西隣
という地理的関係で満蒙を確保しなければ朝鮮も安定しないということで、満州が 「日本の
生命線」 となっていきます。
1911年に辛亥革命で成立した中華民国革命政府は中国国民のナショナリズムを一層高揚させ、
1928年7月7日に革命前の清国政府が締結した不平等条約改定を宣言します。中国の門戸開放・
機会均等を唱導していた 「米国は7月25日、中国の関税自主権を承認する条約に調印すると、
一番初めに南京国民政府を正式承認した。米国にならって各国が条約改定に応じた。(中略) 
しかし日本だけは、条約改定に難色を示し、関税自主権の交渉にも応じなかった。それどころ
か日本は関税自主権の承認と引き換えに、西原借款 (寺内寿一内閣が反革命派の段祺瑞に
反革命工作資金として貸し付けた巨額資金) を返済せよと (なんと革命政府に) 迫った。」
ほど厚顔無恥でした。(127p)
日本は1930年5月にようやく関税自主権を認めましたが、自国が対欧米不平等条約の改訂に
苦労した経験を持ちながら、中国に対しては最も強硬にその改訂に反対したわけです。

大東亜戦争は西欧列強からのアジア解放の戦いだ、という見方がありますが、宣戦の大詔に
そんなことは書かれておらず、日本には朝鮮・台湾・満州を解放する気など全くありません
でした。事実は解放ではなく西欧列強に代わって日本がその立場に立つということに他なり
ませんでした。

◆満州事変を陛下が称賛
1932年1月8日、昭和天皇は 満州事変に際し関東軍に勅語を賜り、関東軍の活動を大いに
称賛し、引き続き天皇の信頼に応えるよう訓示しています。これは関東軍へのお墨付きで
あり、「天皇の臣民である国民が満州事変を批判することはできなくなった。」 (182p) 
わけで、関東軍の暴走とばかりはとても言えません。天皇の責任はきわめて重大です。

「曩 (さき) ニ満洲ニ於テ事変ノ勃発スルヤ、自衛ノ必要上、関東軍ノ将兵ハ、果断神速、
寡克ク衆ヲ制シ速ニ之ヲ芟討 (さんとう=掃討) セリ。爾来艱苦ヲ凌キ祁寒ニ堪ヘ、各地ニ
蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ、克ク警備ノ任ヲ完ウシ、或ハ嫩江・斎々哈爾地方ニ、或ハ遼西、
錦州地方ニ氷雪ヲ衝キ、勇戦力闘、以テ其ノ禍根ヲ抜キテ、皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ。
朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉 (よみ) ス。汝将兵、益々堅忍自重、以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ、
朕カ信倚ニ対 (こた) ヘムコトヲ期セヨ。」 (本書にこの勅語の記載はありません)

◆国際条約の軽視
「満州事変から連盟脱退まで関東軍の動きを見ると、国際法を初めから無視していたこと
がよく分かる。(中略) 今日でも罰則規定がないから条約は紳士協定のようなもので法律
ではないと思い違いをしている人が多い。だから日本が国際連盟規約、九ヵ国条約、不戦
条約に違反し、戦争防止の枠組みを叩き潰してしまったことの意味についての理解が足り
ない。」 (191p)

◆経済的視点
私が知らなかった著者の着眼点の一つは経済面にあります。
国民政府は1935年11月4日より銀本位制を廃止し法定紙幣 「法幣」 を唯一の通貨としま
した。この改革はイギリスが指導し、日本にも事前協議の申し入れがありましたが、日満華
経済ブロックの建設を目論む日本は中国の混乱をむしろ好都合と考え、中国の幣制改革に
協力しませんでした。イギリスは法幣の安定のために巨額の為替安定基金を中国に与え、
ポンドとのリンクを設定し、在華英国人と企業に対しすべての決済に新幣制の順守を命じ
ました。(253-254p) アメリカは当初この幣制改革による銀の暴落に衝撃を受けましたが、
やがて中国と提携して銀価格の安定を図り、ドルと法幣のリンクをも設定しました。この
ため法幣の信用力は強固になり、外国貨幣と交換性のない満州や朝鮮の通貨は問題外で、
日本円に対してもむしろ強いほどだったそうです。このため日本軍は日中戦争の現地軍費
の支払いに苦労するありさまでした。
中国を蔑視していた日本は通貨戦争でも英米中の提携に負けていたわけです。

◆対米開戦決意はアメリカ石油禁輸の前
1939年7月には日米通商航海条約の廃棄が米国から通告されていましたが、更新交渉は
進んでいませんでした。同年9月にドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まり、
日本は米英の対ドイツ悪感情を承知しながら1940年9月に日独伊三国同盟を締結しました。
山中氏は、「なぜ日本はアメリカと戦争をしたのか? という問いに対して、『アメリカが
石油を全面的に禁輸したから、戦争をするしかなかった』 という答えをよく聞くが、日米
開戦に大きくハンドルを切らせたものは、(1941年) 7月2日の御前会議で決めた 『情勢の
推移に伴う帝国国策要綱』 である。」 (523p) とします。

  第一 方針 
   一、帝国は世界情勢変転の如何に拘らず大東亜共栄圏を建設し、もって世界平和の
     確立に寄与せんとする方針を堅持す。
   二、帝国は依然支那事変処理に邁進しかつ自存自衛の基礎を確立するため、南方進出
     の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す。
   三、帝国は右目的達成のためいかなる障害もこれを排除す。(下線Rocky,以下略)

これではとても世界平和の確立などは期待できず、対米英戦争と明記していないとはいえ
それを覚悟するということに他ならないでしょう。

フランスの降伏を好機として日本はすでに北部仏印に進駐していましたが、、1941年7月23日
に南部仏印進駐を米国に通告、同25日アメリカの在米日本資産凍結、同28日南部仏印進駐
開始、8月1日アメリカの対日全面禁輸発令、と進んで開戦は後戻りできない情勢になって
行きます。
こうして9月6日御前会議において、「帝国は自存自衛を全うする為対米 (英蘭) 戦争を
辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」 とする 「帝国国策遂行要領」
を決定。10月17日の東條内閣大命降下に当たり再検討のチャンスがあったが、11月5日御前会議
であらためて 「武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す」 とする
「帝国国策遂行要領」 を最終確定しました。

従来の一般的見解はこの 「帝国国策遂行要領」 をもって開戦意思の確定とし、アメリカの
対日石油禁輸発令によって戦争に追い込まれたとするわけですが、禁輸は南部仏印進駐が
引き金であり、いかなる障害もこれを排除するという判断のもとに南部仏印進駐を実施して
いるわけです。一方で日米交渉も継続していますが、日本は対米戦争を避けない方針で一貫
していると言えます。

◆日本の出し遅れの最後通牒はハーグ条約上の 「最後通牒」 に該当しない
山中氏はまた、日本から事前の対米宣戦はなされていない、としています。つまり 「タイプ
清書が遅れたとか、やれ翻訳に手間取ったとかいう文書は対米最後通牒では」 なく、いわゆる
日米交渉を打ち切るという 「外務省の外交メモランダム (覚書)」 であって (535p)、ハーグ
条約の規定する 「宣戦=相手国に対して、開戦国が、開戦の理由と意思を明示する文書」 では
ないし、「最後通牒=相手方が一定期限内に要求を受け入れない場合という条件付きの宣戦」
でもない。
日本側が激怒したという米国務長官からのいわゆるハル・ノート (11月26日) も、非公式なメモ
に過ぎないと明記してある上に受諾期限も設定していないのだから最後通牒ではない。また真珠湾
攻撃の後に出された天皇の 「宣戦の大詔」 はあくまで国内向けの文書で、対外的な宣戦文書の
条件を満たしていないということです。

(なお 「宣戦の大詔」 は12月8日午前の枢密院への諮詢を経て11時40分過ぎに渙発され、東郷
外相は在日各国大使に開戦を通報しました。日本はわざわざ日本にいた米国のグルー大使に、
真珠湾攻撃から数時間を過ぎた東京時間12月8日午後 【ホノルル時間12月7日午前、正午近く】
に開戦を通告しています。 参考: 鳥飼行博研究室)  

この論点を私はこれまで軽視していました。
そんなことは理屈に過ぎない、交渉打ち切り通告は実質的な最後通牒だ、というのが多くの
日本人研究者の見解ですが、それでは外交関係というものを甘く見て、勝手読みで緻密さを
欠く3国同盟の推進者松岡外相ら日本の無能指導部と同じことです。つまり交渉打ち切り通告
が予定通りに手渡せたとしても、ハーグ条約違反の無通告開戦であることは免れず、アメリカ
が暗号を解読して真珠湾攻撃を知っていたかどうかなどは問題にもなりません。
(この件については、今日別の本を借りてきましたので、さらに研究します。)

◆感想
こうしてみると、日本の右派論客の論理はほとんど問題にもならない詭弁が多く、また対中・
対韓の蔑視・差別意識が色濃く残っていることが分かります。そうした議論を徹底的に批判
していかなければ、日本はまた間違う可能性があります。
       (わが家で  2014年5月2日)

  
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可愛い タニギキョウ

2014年05月02日 08時15分24秒 | 白・淡い黄の花 
1cmほどの小さな白い花を一面に咲かせている、タニギキョウ (谷桔梗)。

キキョウ科タニギキョウ属の多年草で、学名 Peracarpa carnosa 。
可愛い花でちょっとキキョウには見えません。

細い地下茎が枝分かれし、群落を作りやすい。北海道・本州・四国・九州
のほか、国外では南千島、朝鮮(済州島)、中国、樺太、カムチャッカに
分布します。
       (茨城県つくば市 筑波実験植物園 2014年4月26日)
 
  
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ワイルドフラワー とソーラー4月成績

2014年05月01日 19時08分38秒 | ソーラー・我が家の庭・菜園・日記    
2014年の大型連休の合間29.30日は雨模様でした。今日も急な夕立ちが。しかしワイルド
フラワーの畑にはちょうどいいお湿りで、これから数日は水やりの必要もないでしょう。
コスモスなど、だいぶ若葉も出てきました。ヒマワリはそろそろ定植できる状態です。

きのう、娘が出産準備で帰ってきました。初孫が生まれるころにワイルドフラワーが
少しでも花咲くようになるといいのですが・・・

昨日でソーラー発電の2014年4月分集計をまとめました。
この4月は50数年ぶりという連続10日の好天が続き、乾燥注意報が出るほどで、発電量
は設置以来の月間最高を記録しました。日間では4月5日に日間最高を記録しましたが、
月半ば以降は春霞のためか、数字は伸びていません。

  月間発電量   416.7 KWh
  シミュレーション値   283.5 KWh 
   (資源エネルギー庁、熊谷南東向き、3Kwトップランナー、屋根置き傾斜30度)
  増 減     133.2 KWh増
  比 率     47.0 % 増
  日間最高     19.5Kwh  (4月5日)

発電開始の11月12日から4月30日までの合計は、5か月半で 約27%増という驚異的な
成績です。2月の降雪3度による停滞を4月の異常好天で回復した形ですが、これで真夏
がどうなるか興味深々です。 
 
  総発電量    1888.8 KWh
  シミュレーション値  1489.5 KWh (11月は19日分として集計)
  増 減     399.3 KWh増
  比 率     26.8 % 増
       (わが家で  2014年5月1日)


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メインは直播のコスモス。下3枚はまだ何の花か分かりません。






数日遅れで蒔いたところも芽が出てきました。


大きくなってきたヒマワリの苗。もう少しかな。


庭のクレマチス。2種類目が開花。


ブルーベリーも花がたくさん。
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クリーピングタイム 花の絨毯

2014年05月01日 07時41分12秒 | ハーブ   
ピンクの花を地面に敷き詰めたような、クリーピングタイム (Creeping thyme) 。
学名 Thymus serpyllum 。

ヨーロッ・北アフリカ原産の、高さ10cmほどの矮性常緑潅木で、ハーブとしても利用
されます。足で踏むと芳しい香りのする緑のカーペットを作るので、ビクトリア女王
の後を継いだエドワード7世時代 (1901-1910) に人気があったそうです。 
別名ワイルドタイム (Wild thyme)。

実野里フェイバリットガーデンのものは花が特に素晴らしく、園芸品種かもしれません。
       (茨城県つくば市 筑波実験植物園 2014年4月26日)
       (埼玉県久喜市  実野里フェイバリットガーデン 2014年4月26日)

  
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上3枚は 実野里フェイバリットガーデン 2014年4月26日。

これは 筑波実験植物園 2014年4月26日。
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