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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

チュウリップを植えた

2024-10-16 06:33:41 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 家内のスーパーでの買い物に付き合った。
 こんなチューリップの球根を売ってたので、買ってきて庭に植えた。
 8つ植えたので春には花が咲くだろう。

    
       
    

 一昨年だったが、鉢植えにしたのだが、放っておいたら翌年の花咲きがもう一つだったので、
 今年は直接庭に植えたのである。
 
 放っておいても毎年花が咲くことが願いである。
 こんな植え方の注意などが載ってるが
 兎に角、確り咲いて毎年咲くようにしたいのである。



       



    半日蔭でも大丈夫とあったから
   今年は前庭に植えたのだが、春が楽しみである。


   


  ここなら部屋の中からでも眺められる。
  何年かして株が増えたらいいなと思っているのだが、
  果たして、どんなことになるのだろう。

  兎に角、今日は水だけはたっぷりやった。

★ こんなチューリップの育て方がネットに載っていた。

  10月中旬~11月上旬になったら、いよいよ植えつけを行います。
  球根1つ分くらいの間隔をあけて、植えていきましょう。
  地植えの場合、球根2つ分程度の深さへ植えつけます。
  植えつけた後はしっかりと水を与え、土が乾燥しないようこまめに水やりをしましょう。

  このほかにもいろいろとあったが、
  私の場浴は植え付けてたっぷり水を遣っただけである。
  多分それで大丈夫だと思っている。





三木金物の芽切狭

2024-10-15 05:21:56 | 発想$感想

★ 三木は金物の町とも言われている。
  道の駅みきにはそんな三木金物ばかりを売っている専門店がある。

 
 



  そんなお店で「芽切鋏」を買ってきた。
  もう延べ何本買ったのだろう?

  



  我が家の庭木の剪定は殆どこの芽切狭でやることにしている。


  


  切れ味もいいし、私のお気に入りである。
  その名の通り伸びた芽を丁寧に1本ずつ切っている。

  こんな一般の剪定鋏もあるが、殆ど使うことはなくて
  専ら「芽切狭」のお世話になっている。



 
  
  いずれにしても、三木金物はなかなかいい。
  私の庭仕事のお友達である。
  今回、新しいのを買ったのでまた4,5年はお世話になることだろう。


  

100歳まで生きるかな

2024-10-14 05:34:07 | 発想$感想

★ 100歳まで生きる確率は20%とされており、5人に1人が100歳まで生きると言われている昨今だが、
祖母は102歳、母は103歳まで生きたから、そんな遺伝子を引き継いでいて、多分間違いなく100歳まで元気に生きるだろうと思っている。
100歳まで生きるために、次のようなことが挙げられるとかあったが、
  • 豆類をたくさん食べる
  • 野菜をたっぷり多種類食べる
  • 坂道を歩く
  • 死ぬまで働く
  • 生きがいを持つ
  • 徹底的な健康チェック
  • 食べ過ぎない
こんなことはあまり気にせずに自分なりに自然に生きていくだろうと思っている。

  


★ 昨今の毎日は朝の散歩、昼寝、囲碁、テレビ、パソコンでのネット、庭仕事、ブログ、日記ぐらいの繰り返しで、家内以外と喋る機会も少ないがあまり気にすることもない。
今年は9月までは外部の会合などはなかったのだが、
年末までには今のところ4つほどの会合に出席する予定になっている。
 そんな一般社会とのお付き合いに出席できる程度の「健康体」でありたいと思っている。
こんな会合への往復も自分で車を運転して出かけているのだが、
車の運転が出来てるうちは健康体と言えるかな。

★そんな4つの会合は具体的にこんな会合なのである。

● 10月26日  鄭剣剛さんに誘われての「投資・M$Aフォーラム」
初めての出席で、どんな内容かはよく解らないが、鄭剣剛さんからFaceboのメッセージで「お誘い」があったので出席をしたいと思っている。
 


● 11月9日  蕪会(かぶら会)
  これは旧川崎航空機明石工場の課長と部長の集まりで、
  西明石ホテルキャッスルで開催されるOB会である。
  今回はひょっとすると一番年長者かも知れない。
  前回までは私より先輩がおられたのだが。

● 11月16日  淡水野球クラブ会合
  これは旧神戸商大、今の兵庫県立大学の野球部のOB会で、
  昼の部は野球やソフトボール、夕方から総会があるのだが、昼の部から出席する。
  昨年はソフトボールも出場したが、多分今年もやることになるだろう。

● 12月4日  ゴルフコンペZ1会の総会

 カワサキZ1の開発総責任者であった大槻幸雄さんが創られたゴルフコンペで、年4回行なわれ、もう40年以上続いている。
 ゴルフはかってはハンデー10で、70台で廻ることもあったのだが、昨今は練習もしなくなったし、90台で廻るのもムツカシクなったので止めようと思っていて、今年は1回も参加しなかったが、
 年末の総会だけは出席しようかなと思っている。
 

  
 

★ こんな私の生活なのだが、
 平均寿命健康寿命(日常生活に制限のない期間)の差は、男性 9.13年、女性12.68年となっているというのだが、
 今のところは間違いなく「健康寿命」だと言える91歳なので、
 何とかこんな状態で100歳近くまで生きれたらいいなと思っている。
 いまの毎日の生活は
 ● 朝の散歩
 ● 庭仕事
 ● パソコン・ブログ・Facebookなどのネット関係
 ● 日記
 だが、ネット関係など果たして何歳まで続くだろうか?
 いまのところネット関係が一般社会とのお付き合いと言えるのである。

 
  
 
 

MCFAJの想い出、いろいろ

2024-10-13 05:20:08 | カワサキ単車の昔話

★先日Facebookにアップした「カワサキの昔話」のブログに、
今はめちゃ有名人のToshi Nishiyama さんから
58年前に丸野山高原で開催されたMCFAJ全日本モトクロスでの、 
ノービス125優勝のこんな写真が送られてきた。

「第19回全日本モトクロス(MCFAJ)丸野山ノービス125ccクラス優勝の写真が出てきました。18歳の時で58年くらい前です。」
とご本人のコメント付きである。





西山 俊樹さんがまだ18歳の頃なのだが、
当時は日本のモトクロス界ではMCFAJ全盛期で、その初代事務局長をされてたのが西山秀一さんで、俊樹さんのお父さんである。
当時私は西山秀一さんはよく存じ上げていて、その息子さんがモトクロスをされるということは知っていた。

この写真は、西山俊樹さんなのだと思うが、
お父さんの西山秀一さんにそっくりである。

 


旧い旧い話である。
当時は二輪関係の雑誌もオートバイ誌モーターサイクリスト誌の二誌しかない時代で、MCFAJモーターサイクリスト誌と密接な関係があったそんな時代だった。


★ 昭和39年(1964)春に富士の裾野の朝霧高原で行われたMCFAJの全日本でカワサキの山本隆が初めて優勝をしたのだが、
その年の秋のMCFAJ全日本が伊豆半島の丸野山高原で行われ、カワサキはその時も山本隆が全日本2度目の優勝をしているのである。
 これは60年も前の話だから、前述の西山俊樹さんの優勝はそれから2年後のことなのだろう。


★これが丸野山高原で行われたMCFAJの初めての全日本で、
その時のことを亡くなってしまったが、
山本隆クンがご自身のブログでこんな風に書いている。

・・・その翌年昭和39年(1964)の春は、晴れてカワサキワークスの一員としてMCFAJ第10回全日本MX選手権朝霧高原に颯爽とカムバックしました。カワサキワークスは125cc一機種しかなくそれを使ってオープンクラスの2レース参加である。
そのオープンクラスで、全日本参加二度目にして奇跡的と言おうか荒井市次さんを抜いて優勝を成し遂げたのです。
その後のレース活動への影響が計り知れないほど私にとってもカワサキにとっても記念すべき優勝であったと思います。

その年の秋の全日本MX丸野山高原(伊豆)では125メーカー選手権で久保、荒井、三吉のMX御三家を抜いて優勝しました、マシンは125ツインエンジンでした!
そこで私の秘蔵の写真を公開致します。
その大会にカワサキのヘリコプターKH-4ミス修善寺が飛来大会会長の新井広武氏に花束贈呈のスナップです。

  


★これがその時の写真だが、当時広告宣伝課は航空機事業部が下取りをしたヘリコプターを持っていて、
あちこちのレース場にヘリコプターを持って行ってたのある。
そんなことで各社のライダーたちに「ヘリに乗せて」と頼まれたりしたので、私は他社のライダーたちとも懇意になったりしたのである。

これは、当時の久保(スズキ)荒井(ヤマハ)の両雄を抑えて
カワサキの山本隆、堂々の優勝の写真である。
右はカワサキの梅津次郎なのだが、左は誰なのか解らない
 



★この丸野山のMCFAJ全日本モトクロスは、
私にとって、いろんなことのあった想い出深い会場なのである。
この年の5月に4輪の免許を取ったばかりで、行くときは明石から延々車で現場に行ったのだが、その時初めて車の長距離運転を経験したのである。
そして帰りは東京に出て、1964年10月1日に開業した新幹線に初めて乗って戻ってきた。
この年が東京オリンピックのあった年で同じ時期に開催されていた。

「戦後の復興から高度経済成長に移行していた日本にとって、先進国への仲間入りを世界に告げる好機となった」と言われた、
「日本の発展の始まりの時期」だったのである。


  

10月11日の薔薇

2024-10-12 09:19:35 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 秋薔薇の季節も近い。
 ちょうど1か月前に夏剪定をしてこんなに切ってしまった薔薇だが、




 いまはこんな状態である。
 新しく出た新葉が紅い。

 


  順調に育っている。




 まだ蕾はついていないが、
 もうすぐ蕾が付き花が咲く。

 暑い夏も過ぎて「庭仕事」が楽しみな季節になった。

単車事業との出会い  その3

2024-10-11 05:32:09 | カワサキ単車の昔話

★ 前回までカワサキが単車事業をスタートしての単車営業課時代の話を書いたが、
 最初に発売した125B7が散々な出来であったこともあって単車事業は赤字だったのである
 川崎航空機の本社は「この事業を続けるべきか否か」を日本能率協会に調査を依頼していたのである。
 その時期に「青野ヶ原のモトクロスの圧勝」があって事業部内の意気は上がっていて、それを観た能率協会は「この事業を続けるべし」という結論を出すのだが、
 その条件の中に「広告宣伝課を創るべし」と言うのがあって、当時の本社は3年間1億2000万円の広告宣伝費を準備し「広告宣伝課」を創ることを決めたのである。

それは昭和39年(1961)1月のことだが、この「広告宣伝課」を担当するように指示があったのである。
入社以来ずっと新しいことばかりをやって来た実績から「古谷なら出来るだろ」と思われたに違いないのである。
まだ係長にもなっていない時期だったのだが、
私はそんな1億2000万円と言う予算の付いた広告宣伝課とを担当することになったのである。

★1億2000万円と言う予算は、当時のサラリーマンの年収が50万円という時代だから、今のカネに直すと「10億円」に相当する膨大な額だったのである。
 当時のカワサキは「実用車のカワサキ」の時代で大都会では全く売れておらず主力市場は東北・九州などの田舎だったから、所謂「マスコミ」を使う必要はなくて1億もの広告宣伝費をなかなか使い切れないのである。
 そんなことで、結構な金が要る「レース」をスタートさせたのである。
 先ずはモトクロスから初めて関東にはカワサキコンバット、関西では神戸木の実クラブと契約して、こんなメンバーでのスタートだった。
 左から岡部能夫、歳森康師、山本隆、三橋実、梅津次郎の五人だが、
 この中で三橋実は鈴鹿サーキットで日本で初めて行われた日本ロードレース選手権の250ccクラスの優勝者で彼はカワサキコンバットを関東厚木に立ち上げたのである。
 関西では350cc優勝者の片山義美の神戸木の実クラブから歳森康師・山本隆のライダーと契約することになったのである。
 

 

  
 こんな状況だったから、
 若し、本田宗一郎さんが鈴鹿サーキットを造っていなかったら、
 カワサキの二輪事業は全然違った道を歩いたであろうし、
 ひょっとしたら存続できなかったかも知れないと思ったりする。
 
  


★その後、鈴鹿サーキットのロードレースにも1965年にはモトクロスライダーの山本隆が出場して当日雨になったものだから、
全体のタイムが落ちて運よく3位入賞を果たすのである。

  


  「ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ
  とは当日現場にいた川合寿一さんが我が家に送ってくれた電報で
  山本3位、塩本8位と言う、カワサキの初めてのロードレースは大成功だったのである。


 そう言う意味では青野ヶ原モトクロスも当日雨になって勝てたので
 いずれもカワサキにとっては恵みの雨だったのである。

 この鈴鹿のロードレースの「3位入賞」でカワサキも本格的にロードレースの世界に進出することになり、神戸木の実クラブの金谷秀夫と契約することになったのである。
 
★ この時代カワサキは販売の分野では全然ダメな最下位の時代が続くのだが、レースの世界ではモトクロスの日本選手権を制したり、
 結構派手な活動だったのだが、それらはすべて「広告宣伝課の活動」だったのである。

 そんな時代が約10年続いたのだが、
 私はその間広告宣伝と言うか「レース担当」だったのである。
 昭和41年にようやくレースは技術部の担当になるのだが、
 私の広告宣伝課担当もその時期までで、それ以降は販売の分野に転向することになるのである。



柿の苗木を植えた

2024-10-10 06:02:29 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日は柿の木を買ってきて植えた。
  「かき 次郎」とある。

 


 樹高は1mにもならないくらいだが10個ほどの実を付けている。





 狭いところに植えたのだが、上のほうは空間があるので大きくなっても大丈夫である。
 どんどん大きくなればいい。






★「柿・次郎」と検索したらいろいろ書かれていた。
曰く、四角い形が特徴の完全甘柿の一種で「富有はあごで食べ、次郎は歯で食べる」といわれるほど歯応えのある果実を着けるという。
 収穫期は富有(富有柿)に比べて早く10月中旬から11月中旬だそうである。
愛知県で明治40年頃から桑畑で植栽されるようになったとか。
1844年(弘化元年)、静岡県周智郡森町の松本治郎吉が太田川で見つけた幼木を自宅に持ち帰り植えたのがはじまりといわれている。
原木は1869年(明治2年)に火災に遭ったが、翌年再び芽を出し現存するという。
 いろいろ調べてたらこんな原木の写真が現われた。


  


明治天皇の静岡行幸時に次郎柿が献上され、森町の次郎柿は以降ほぼ毎年秋に皇室に献上されているという。

 5500円だったが柿の実をすでにツイてるので、
 それを入れるとそんなに高くはないような気がする。
 食ったことはないが結構有名な柿のようなので楽しみである。


  

雨上がりの朝

2024-10-09 09:16:23 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 雨上がりの朝、協同学苑を歩いてきた。
  空気が綺麗な感じで気持ちよかった。
  昨夜の雨でゴミやチリが落ちてしまったように思う。
  間違いなく空気が澄んでいる。






 こんな自然の道を下って、





  一番下の池のところまで行ってきた。






  協同学苑はco-opの教育施設なのだが、
  周回路は公園のように綺麗である。



 

 あちこち歩いたら7000歩のなった。
 朝のいい運動になる1時間半である。




今回の総選挙  雑感

2024-10-08 05:14:26 | 発想$感想

★ 今朝は珍しく朝5時に起きた。
 新聞を見たら今朝のTOP記事は昨日の国会である。
 昨日は午後1時から5時まで国会論戦のテレビを観ていた。

 こんな記事になっている。
 各党の党首の代表質問に総理が応えたものだが、
 その中心はやはり裏金問題だった。

  



 今回の選挙はどんな結果になるのだろう?
 当然のことながら野党の追及も激しいだろうし、
 兵庫のこの地区はどんなことになるのだろう?




★ 個人的には石破茂は好きな政治家なのだが、
  野党の野田さんもなかなかいい。

  ひょっとしたら政権交代もあるのだろうか?
  今日も参議院での代表質問があるのだが、
  テレビを観ることになるだろう。

  久しぶりに政治に関心を持っている。

  

10000歩歩いてきた

2024-10-07 06:55:45 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 毎朝欠かさず散歩はしているのだが、一向に体重は落ちずに
 以前に比べて1kgほど増えている。
 いま大体85,5kg位で何とか84kg台に戻したいと思っている。
 運動しても90歳の割には食う量が多いからいけないのは解っているのだが、
 「戦後の食糧難の時代」に育って「食い意地」がきたないのだと思う。

 それで一念発起、毎朝の歩数を7000歩から1万歩に上げることにした。
 90歳にしては結構颯爽と歩いていて、腰なども曲がっていないし、
 足の筋肉はいっぱいついている。 歩くから「筋肉が付く」のではと思っているのだが、兎に角、2年前に戻って「1万歩」まで歩くことにした。

★ 時間は2時間ほど掛かるのだが、「1万歩」達成できた。
 今朝の記録「10、263歩」、歩いた距離「7,19km」、消費_カロリーは「1210cal」でいつもより300cal多かった。

 一番南の駐車場に車を止めて、このような道を1周してきた。

 


  写真を何枚か撮ってきたので御覧ください。


  車を止めたゲートボール場のわき道を北上して、

  




 公園の入り口を越えてさらに北上し、


  


 いつもはあまり来たことのない、「六地蔵 (どっこいさん)」まで降りてきた。
 

 


  この辺り秋分の頃に咲く、「曼珠沙華」などの別名がある「彼岸花」は
 まだ、数本頭を出しただけ、もう少し経つとこの辺り真っ赤になる。






  久しぶりに更に下って、





 史跡「志染の石室」まで行ってきた。




  この水が黄金に輝くことで有名である。




 
  谷底まで降りてきたので、
  そこからは急な坂道を登って公園に戻った。

  そこからはいつものように
  こんな散歩道も歩いたが、


  


  
  山の中や






  競技場の陰の道を1周したりした。





秋冷の候

2024-10-06 05:45:34 | 発想$感想
★10月上旬は、次のような挨拶文を使うそうである。
  • 秋涼の候
  • 秋冷の候
「秋涼」は秋の涼しさを感じる季節を表し、「仲秋」は暦の上で二十四節気の「白露」(9月7日頃~22日頃)と「秋分」(9月23日頃~10月7日頃)を指すのだそうである。
「秋冷」は秋の肌寒く感じる冷気という意味だそうだが、
 まだそんな季節にはなっていなくてまだ「残暑」と言ってもいいくらいである。

それだけ地球全体が「高温化」しているのだと思う。


★ただ10月に入って久し振りに雨が降った。
 それも結構ひどい降りだった。

 
 


 
紅葉とは言えぬが、幾らか紅みが見える樹々である。






  何となくだが「秋の風情」が感じられる。



 今年はいつになったら「秋冷の候」と言えるようになるのだろう。
 そんな秋が待ち遠しい昨今である。

 でも、朝の散歩が幾らか涼しくなって日向を歩くのが気持ちよくなったから、
 秋は間違いなくやって来る。


単車事業との出会い  2

2024-10-04 14:26:06 | カワサキ単車の昔話

★ 川崎航空機工業と言う会社は軍事産業だということで戦後は事業を中断されていたのだが、昭和28年(1953)にようやく再開されるのである。
戦時中はその名の通り飛行機を造っていたのだが、明石工場がエンジン、岐阜工場が機体だったのである。
 そんなことで再開された川崎航空機の明石工場では農業発動機などの小型エンジンの生産が中心だったのだが、その中の一つに当時のメイハツ工業が生産していたバイクのエンジンを提供していたのである。

カワサキオートバイ70周年」として言われているのは、この明発工業スタートから70周年なのである。


 


  そんなカワサキが単車の一貫生産を明石工場で始めたのは、昭和35年(1960)のことなのだが、
 広い工場敷地の南に新しく「単車工場」が建てられ「テストコース」も工場内に新設されるのである。

 
  


★ 新しく単車営業課も新設されるのだが、私がその新しく出来た課に異動になったのは昭和36年(1961)12月のことで、
入社して4年と6か月というまだ新人時代と言ってもいい時期なのである、
一応、部長・次長・課長・掛長と上司はいたのだが、どなたも全く「単車事」など初めての経験で、誰も何も解っていないのである。
 当時はカワサキ明発工業から「カワサキオートバイ販売」となった国内販社があって「単車営業課」はそこに単車を販売している部門なのだが、 
 現在の職制で言うなら事業本部の開発・生産を除いた部門で、営業と言いながら品質保証機能のサービスも含んが所謂「企画・営業」部門なのである。
 現在は多分数百人の陣容だが、当時は課員は私以下サービスもいれて、7人ほどだった。
開発・生産以外のことはすべてホントに「何でも担当」で滅茶苦茶忙しかったのである。
加えて、物品税などと言う余分な仕事もあって、今思うとホントによくやったなと思うのである。
それは係長以上の上司もよく認めてくれていて、その当時の考課は抜群で、
ボーナス」なども最高だったのだが、その額は手取りで53000円だった。
 そんな時代だったのである。

★私自身は以降40年間「単車一筋」で定年まで勤めたのだが、その間単車事業は日本からアメリカ、ヨーロッパから更には東南アジアのCKD事業と世界に拡大していくのだが、
 そんなことでスタート時代からカワサキの単車事業と共に歩めたのは非常に幸いなことで「素晴しい現役生活」だったと言えるのである。
 




 

 



パソコンの画面

2024-10-04 06:17:35 | 発想$感想

★私はネット関連のことなど全く解っていないのだが、
 先日パソコンの画面がおかしくなって、いろいろ触っていたら、
 いままでの画面は消えてしまったのだが、
 次々に「新しい画面」が現われるようになった。
 なぜそうなったのかは解らないのだが、何時間か経つと新しい画面に変わる。
 その画面がそれぞれいろいろあってなかなか楽しい。

 どんな画面なのか、写真に撮ったので並べてみる。

 これが今朝初めての画面で、サルがいる。

 


 
何時間か経つと砂漠の画面に変わった。


 



 これ何所か? ヨーロッパでないかと思われる。




 こんな夕焼けの画面にもなった。





 そしていま夜7時だが、こんな景色に変わっている。





  夜の9時、こんな山の画面に変わった。
  多分これで最後だろう。
  明日の朝にはどんなことになっているのだろうか?




  一夜明けて10月4日の朝である。
 こんな画面になっていた。
 
 
 


この調子では今後ずっといろいろな違った画面が現れることになるのだろう。 それはそtれで楽しみなことである。

雨降るだろうか?

2024-10-03 07:32:55 | 発想$感想

★ この辺りは雨の少ない地域だが、
 夏の間、雨は降らなかったし何日晴天が続いたのだろう?
 やっと雨が降りそうである。

 こんな天気図だから、今晩10時頃には雨が降りそうである。

 



 明日の朝は久しぶりにしっとりと濡れた庭が見れるかも知れない。


★一夜明けた。予報通り雨が降っている。
 今日は終日本格的な雨の日になりそうである。

  

 
 こんなに雨を待つ気持ちになったのも珍しい。
 今朝のニュースでも言ってたが、この辺りはホントに雨が少なかった。
 能登半島の大雨があった時もこの辺りは全く降らなかった。
 

 今日は終日雨のようである。





記憶力   雑感

2024-10-02 06:04:20 | 発想$感想

★ いまちょうど結婚前の1年、昭和37年(1962)の日記を読み返しているのだが、殆どのことを覚えていないのである。
 日記を読んでみると、そんなことも確かにあったなと思うのだが、
 一般の方は日記など書いておられないと思うので、
 そんな人間の「記憶力」などは頼りないものだなと思うのである。


 「記憶力」と検索するとこんな画面が現れた。
 「人は1日のうち半数以上の記憶がなくなる」と言うのである。




● 20分後には42%を忘れ、58%を覚えている。
● 1時間後には56%を忘れ、44%を覚えている。 
● 1日後には74%を忘れ、26%を覚えている。
●  1週間後(7日後)には77%を忘れ、23%を覚えている。 
● 1ヶ月後(30日後)には79%を忘れ、21%を覚えている。

 と言うのである。
 だから70年も前のことは殆ど覚えていなくても正常なのかも知れない。

 ただ70年前のことでも、明確に覚えていることがあるから不思議である。
 逆に言うとすべてのことを覚えていたりしたら、逆におかしくなってしまうのかも知れない。 

★ ただ、91歳の今の生活は、毎日ほぼ同じことの繰り返しだから、
 別に覚えていなくても問題はないと思うのだが、
 人の記憶力は不思議なものである。
 あと5年経っても、昔のことは今と同じくらいは覚えているように思うのだが、果たしてどうなっていくのだろうか?

 認知症と言うが、人の認知度はだんだん弱くなることは間違いない。