★ 昭和36年(1961)12月に単車営業課が出来て、その出来たばかりの課に異動になって、私の二輪車との関係がスタートした。
なぜか二輪車とは言わずに「単車」と言ったのかはよく解らない。
出来たばかりの課で、庶務から小野助治さん異動されて次長で、
課長は野球部で一緒だった北沢さんとみんな顔馴染みで、
係長は壱岐敏さんだったが、課員では若かったけど私が一番上だった。
そんな単車営業に異動した初日に小野さんに言われたのは
「物品税を研究してくれ」だったのである。
「物品税」とは当時贅沢品に掛けられていた税で、消費税がスタートするまで続いた税なのだが、
当時の二輪車は125cc以上が「贅沢品」と見なされて、「物品税」が掛けられていたのである。
「物品税」は工場出荷時にその台数分を掛けて納入すればいいので、
税金を納入するのは至極簡単なのだが、
二輪車が返品されて工場に戻ってくると「戻入手続き」さえすればそれは戻されるのだが、
その「戻入手続き」が大変なのである。
★ 私が単車営業課に異動したのは12月だが、その当時も返却が多く、
翌月の1月度はついに返却が出荷を上回って、生産台数がマイナスを記録したのである。
カワサキが最初に世に出した125ccは「B7」なのだが
こんなオートバイである。
「航空機のエンジニアたちの作ったオートバイ」と
宣伝のコピーはカッコよかったのだが。
エンジンは兎も角、車体に欠陥があって、
前述したように返却が続いて、工場は返却車であふれかえったのである。
★ そんなことで私の単車営業課での職務は、
毎日毎日これら返却車の「物品税の戻入手続き」だったのである。
税金を戻してもらうためには「出荷当時と同じ状態」でなければならず、
1台1台税務署員の立会検査があって、若しメーターが回っていればメーターの巻き戻しが必要なので、ホントに大変だったのである。
更にこんな「物品税」は明石税務署ではなく「大阪国税局」の直接担当で、
「申告税」だから若し不正があれば罰せられて逮捕されるというのである。
そんなことで、単車営業課のスタートと言うか、カワサキの単車事業のスタートは大変なことになっていたのである。
★こんな状況は昭和37年度中は続いたのだが、技術部はB7は諦めて昭和38年度には125B8を開発しその発売に踏み切ったのだが、
「この事業を続けるべきかどうか?」当時の川崎航空機本社は日本能率協会に市場調査を依頼するというそんな状態だったのである。
そんな日本能率協会の市場調査の真っ最中にあったのが、
昭和38年6月の「青野ヶ原のモトクロス」なのである。
これはたまたま「昭和37年11月」に鈴鹿サーキットで日本で初めてのロードレースが開催されて、そのレースを観戦した生産部門のメンバーが、
「カワサキもレースを」と出場したのだが、
当日はひどい雨になって、他社のレーサーはみんな水につかって止まってしまったのだが、実用車に近いカワサキB8だけが完走して、
1位から6位まで独占と言う快挙となり、現場をはじめ事業部の意気は大いに上がったので、
その雰囲気を見た日本能率協会は「この事業続けるべし」との決断を提示しカワサキの単車事業の継続が決定したのである。
天の恵みとも言える大雨だったのである。