雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私が入社したころの川﨑航空機という会社   その2

2019-01-27 05:51:30 | カワサキ単車の昔話

川﨑航空機という会社が再開されたのは昭和27年(1952)だが、昭和44年(1969)に、川﨑重工業・川﨑車輌・川﨑航空機の3社が合併して『川﨑重工業』となるまでの17年間存続するのだが、振り返ってみてもなかなかオモシロい『いい会社』であったように思うのである。

 戦後の中断があって、分散していた会社が統合したこともあって、大企業という重たい感じは殆どなくて、上の方たちに対しても自由に『モノが言える雰囲気』があったように思うのである。

  当時は小型エンジンや歯車ミッションなどを扱っている発動機部門と、米空軍のジェットエンジンのオーバーホール工場の2部門が中心だったのだが、そのほかに化繊機械やロボットなどの新しい分野も手掛けていたのである。

 当時は、二輪の他にも『四輪』もやろうかという案もあって、私より一期下の稲村暁一さんは、入社してすぐその4輪のエンジンを担当していたようである。 当時は二輪のエンジンはホンダ以外はみんな2サイクルだったのだが、この『4輪のエンジン』が4サイクルエンジンだったようで、後、Z1の4サイクルエンジン開発を担当するのである。

   

 

 

★発動機営業部門の中の小さな「一部門」として単車営業がスタートし、それを新人の私が担当したのだが、その範囲は従来の発動機のエンジンを受注先に販売するというような簡単なものではなくて、企画・管理・営業・品証・広告宣伝などという機能が必要で、従来の営業部門とは全く異なる広範囲なもので、それは大変なことだったのだが、新人ながら5人ほどの部下を持ってこなしていったのである。無茶苦茶忙しかったし、上司の課長・部長も勿論おられたのだが、全く新しい仕事なので、何の経験もお持ちではなく、すべて私に『丸投げ』の状態だったのである。会社の中でのボーナスの評価なども『君には100点をつけてやる』と上司の方が『仰るほど』頑張っていたのである。

 ただその当時の単車は、エンジンはまずまずだったのだが、車体は未経験の分野で最初の125ccB7は車体の欠陥でどんどん返品されて大変だったのである。

 

     

 

そんなこともあって昭和38年(1963)には、『この事業を続けるべきかどうか』を当時の本社が日本能率協会に大がかりな調査を依頼していたのだが、この年の5月19日の青野ヶ原モトクロスでの圧倒的な勝利もあって職場の意気は上がっていたし、日能は『この事業続けるべし』という結論を出すことになるのである。

 B7の後、この年に出たB8の評判がなかなかよくて、それも日能の判断のひとつになったのだと思う。

 

     

 

★昭和39年(1964)には単車事業本部ができて、『単車再建・単車優先・発動機緊縮』という基本方針が発表され、企画室と発動機営業からの一部が分離され単車に異動することになるのである。この時点で日本能率協会が『二輪事業継続の条件』の中に『広告宣伝課の設置』という項目があって、その広告宣伝課を私が担当することになり、2月1日に私は発動機から単車・広告宣伝課に移籍することになるのである。

この当時の推移はこの通りなのだが、発動機事業部の管理・営業部門の上の人たちの想いは、いろいろと複雑だったようである。

かっては、発動機のエンジンをメイハツ工業に販売していただけだったのが『二輪車の一貫工場を造り』営業部門には営業課を造ったのだが、それがどんどん変化して親と子が入れ替わったような感じになり何となく『オモシロくなかった』というのは私にはよく解るのである。特に技術関係の方は、ジェット部門から来られた方も多くて、その後何年間は、何となく単車と発動機は『しっくりいかない』期間が続くのである。

そして、この広告宣伝課には年間1億2000万円の予算が3年間、本社開発費から支給されて、そんな規模での運営を任されるのである。今の時代でも1億2000万円は大きいが、当時の年収が50万円程度の時代であったから、今の金額にすると10億円にも相当するのである。そんな大きな予算を持っている『広告宣伝課』を広告代理店が放っておく訳はなく、電通・博報堂・大広などの広告代理店の本社スタッフが担当されての展開になるのである。私も初めての経験であったが、立ち上がりの数か月をカワサキ自販の小野田滋郎課長にいろいろと援けて頂いたし、この3年間は広告代理店の本社スタッフとお付き合いをさせて頂いて、私としても思わぬ勉強になったのである。

★この広告宣伝課初年度は、ホントに華々しい活動が続いて、4月にはオートバイニュースを発行、全国の販売店に送り届けて好評だったし、中古のヘリコプターを購入して全国各地で『ヘリの搭乗イベント』なども行い、日活とのタイアップでバイクを提供したり、8月には当時の人気テレビの30分番組「源平芸能合戦」に川﨑航空機として出場し三洋電機と対戦したりしたのである。

 https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=qtJMXNyBAtXmwQPBibSIBA&q=%E6%BA%90%E5%B9%B3%E8%8A%B8%E8%83%BD%E5%90%88%E6%88%A6&oq=%E6%BA%90%E5%B9%B3%E8%8A%B8%E8%83%BD&gs_l=psy-ab.1.0.0.2855.10061..12762...0.0..0.190.1265.16j1......0....1..gws-wiz.....0..0i131j0i131i4j0i4j0i4i37j0i4i10i37j38.OgsQsUICDys

           

この番組出場に当たっては、本社の岩城常務が積極的に応援をして頂いて、本社も、岐阜工場も含めての大イベントとなり、応援団も結成しての熱の入ったものになったのである。この応援団には田崎雅元さんら製造部が熱心に絡んでくれたりして、その本番は8月22日大阪のABCホールに出場者並びに応援者がバスを仕立てて出演し、当時のこの番組出演の評価点は90点代が普通であったのに、107:105点と三洋電機に負けはしたのだが、稀に見る高得点で、岩城常務からは全員に記念品を配れとの指示が出たほど、川﨑航空機社内が盛り上がったのである。

 レース関係も広告宣伝課が担当したのだが、この年の10月MCFAJの丸の山の全日本モトクロスにはカワサキが3種目に優勝し、その会場にも、ヘリコプターを帯同し、空から花束贈呈などをを行ったのである。

           

 

★この時代は単車事業の市場は国内市場に限られていて『実用車のカワサキ』の時代で、その主たる市場は東北や九州などで、東京・大阪などの大都会には全く売れていなかったのである。

それが昭和40年(1965)からは、アメリカ市場進出がスタートし、カワサキの二輪事業も新しい時代に入っていくのである。 この年の5月にはカワサキが初めて鈴鹿サーキットでロードレースに出場して、カワサキのレースチームに初めて大槻監督・田崎助監督が実現したり、7月には田崎雅元さんがアメリカ市場のサービス担当として、シカゴに駐在したりするのである。

 そのアメリカ市場では、カワサキだけが現地の単車通の優秀なアメリカ人スタッフを『現地主義』として採用し活用したこともあって、いろんなところにアメリカ人の知恵が入っているのである。

 特に当時カワサキにはエンジンのプロはいっぱいいたのだが、こと二輪車に関しては素人ばかりでそんなに詳し人はいなかったのである。それが逆に幸いして、当時のクルマの開発にも、アメリカ人の知恵が生かされたのではと思ったりするのである。

アメリカ市場ではメグロのW1なども通用しないことが解って、アメリカ市場向けに最初に開発されたマシンが250A1なのである。

 

 

    

 

  続いてマッハⅢ

            

   350SSなどと続くのだが、この時期の二輪車のスタイリングを、カワサキはリードしたと言っていい。

 

            

 

確かに、最後のスタイルに纏めたのは、デザインルームであることは間違いないのだが、そこにある新しい発想は、私は『アメリカ人の発想』だなと思っているのである。

 当時のカワサキの人たちは、そんなにバイクには詳しくなかったのだが、KMCのアメリカ人達は『二輪大好きのマニア』が揃っていたのである。

 これらの『スタイリング』で私が気付いているのはこんなことなのである。

● 従来メッキ仕上げだったタンクを赤いカラーにしたのはA1が初めてなのである。

● タンクマークをとって、Kawasaki というロゴにして、ニーグリップをとってしまったのはマッハⅢが初めてである。

● そしてシートの後ろに、弁当箱みたいなをつけたのは350ssが初めてなのである。

 こんなスタイリングの先進性は、その後のバイクスタイルの主流となっていったように思っている。

 

 当時の川﨑航空機はそんな進取の気性みたいなものがあった企業だったなと思っているのである。

 アメリカKMCの旗を振られたのは、私より3年程上の未だ係長時代の浜脇洋二さんだったし、私も、田崎さんも未だ係長にもなっていない時代なのだが、私が昭和32年、田崎さんが33年の入社なのだが、この時期尤も先端で活躍した年次の人は大量採用された昭和35年度の人たちが多かった、そんな時代なのである。A1の開発に現地を走りまわたのは百合草三佐雄さんだし、有名な種子島経さんも35年なのである。

いろんな分野で、若い人たちが先頭に立って活躍したし、それを許してくれる『雰囲気』が会社の中にあったのは確かなのである。

 

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コメント (2)
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