雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話  20   松尾勇さんのこと     

2023-09-14 04:45:01 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機が単車事業に本格的に進出したのは
 1960年(昭和35年)のことで、
 私は昭和32年入社で昭和36年末、初めて出来た単車営業課に異動したのだが、単車のことなど何にも解っていなかった。
 
 私だけでなく、周囲の人達も、上司も、
 技術屋さんも、事務屋も、
 単車のことが解っている人はいなかったと言って過言ではない。
 技術屋さんもエンジンの専門家はいっぱいいたが、
 なんとか単車のことが解っていたのは、
 B7のレースにも関係した井出哲也さんぐらいではなかったのか?

★ そんな状態の中での事業のスタートだったのだが、
 直ぐにファクトリーレースチームが出来て、
 ここには『単車のことしか解らない』と言った方がいいようなライダーたちが集まっていたのである。

 それにこのカワサキのレースをスタートさせた張本人は先にも書いたように、
 兵庫メグロの西海義治社長で、この方は元プロのオートレーサーだったからバイクには当然詳しかったのだが、
 その西海さんがカワサキの単車事業部に子飼いの松尾勇さんを送りり込んで、
 そのレース職場は製造部に属していて、そこにいた松尾勇さんのノウハウで運営されたと言ってもいい。


★ この写真はカワサキファクトリー結成25周年記念として、1988年に実は私が企画して実施したものだが、
  ここに集まったメンバーがカワサキの創成期のレースを支えたと言って間違いない。
  何故か安藤佶郎・百合草三佐雄のお二人がいないのだが、多分お二人は当時アメリカ勤務だったのだと思う。 
 この写真の最前列に並んでいる方たちが、レースの創始者と言ってもいいだろう。
 左から糠谷省三・松尾勇・山田熙明・西海義治・高橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄である。


  
  

 糠谷省三さんは大槻・安藤に次いで3代目のレース監督でメグロの出身、
 山田熙明さんは事業スタート時の技術部長で西海さんと懇意でレースに熱心だったが、この当時は川重副社長を退任されてすでにOBだった。
 高橋鐵郎さんは当時の川重副社長中村治道さんと一緒に青野ヶ原モトクロスの主導者だった。
 苧野豊秋さんは営業関連のレース責任者で私の直接の上司だった。
 そして大槻幸雄さんは初代のカワサキレースチームの監督で、Zの開発総責任者で、後川重常務ある。
 
 こんな錚々たるメンバーに伍して、
 会社の職位では掛長にもなっていない松尾勇さん最前列にお座りなのは、
 こと創生期カワサキのレースでは如何に重要な地位にいたかと言うことなのである。

  2列目には岡部・金谷・安良岡・和田・山本・清原もいるし。
  平井稔男・田崎雅元(後川重社長)さんも私もいる。
  星野一義は最後尾の一番右である。

  後ろの方と左側は当時のレース現役諸君で宗和多田の顔も見える。
  

★ そんな松尾勇さんは、兎に角バイクには詳しかったし、エンジンも車体も、何でもこいだった。
 青野ヶ原の最初のレースでB8をモトクロッサーに仕上げたのも松尾さんだし、
 その後のレース職場でも、技術部が担当したのはエンジンだけで、
 それをマシンに仕上げたのはみんな松尾勇さんなのである。

 そんな松尾さんの最高傑作はあのF21Mだと言っていい。
 当時スズキがRH2台を造って、ヨーロッパ市場にも遠征したりしていたのだが、
 カワサキもそんな本格的なファクトリーマシンを創ろうと、
 エンジンは当時の監督の安藤佶郎さんが238ccのエンジンを新たに提供されたのだが、
 それをマシンに仕上げたのは松尾勇さんである。

 当時のヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、
 図面など全くなしに、べニア板にフレームの形の釘を打って創り上げたのである。
 パイプを曲げるのにそこに詰める砂を海岸で取ってきたりしたので、よく覚えている。

 スズキの2台などとは違って、契約ライダー分すべての台数を造って
 青森県嶽岳で開催された全日本にデビューし、ヤマハがDT1を開発するまでは、まさに連戦連勝だったのである。

 このF21Mをベースに技術部が車体の図面を正式に造って、
 正規に生産をしたのが市販車のF21Mだが、

 
  



  ファクトリーライダーたちが最初に乘ったF21Mは、
  すべ松尾さんが創り上げたもので、
  ひょっとしたら F21Mと言うネーミングは技術部が後に名付けたのかも知れない。


  


 
★ カワサキがレースを技術部ではなく製造部の管轄レース職場でやっていた時代は、
  すべて設計図などはなく、松尾勇さんの手作りだったのである。
  その辺の町工場のような感じだったのである。
  そのレース職場にはライダー諸君も出入りしていたので、
  場所も製造部とは別の場所でちょっと変わった特異な職制だったのである。

  当時のレース運営は、前述の主要メンバーで構成された「レース運営委員会」がベースでその事務局を私が担当していたのである。
  そんなことで先の『カワサキファクトリー結成25周年記念』の会合も私が主宰したりして、
  集まったメンバーは当時のレース関係者とライダーたちなのである。

  レースマシンのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、
  マシンの名称KXがつく時代からである。
  レース監督で言えば4代目の百合草三佐雄さんの時代からである。

  それまではレース職場の松尾勇さん時代が続いたのである。
  私が幾らかでもマシンとか技術とかに興味を持ったのは、
  『松尾勇さん時代』で、
  カワサキ創生期に、そんな時代があったとはなかなか信じられないかも知れないが、
  こんな感じで、航空機メーカーが、二輪専門メーカーに成長していったのである。
  松尾勇さんはそんな「橋渡しをした人」と言ってもいい。


★実は今年はそのKX50周年に当たるのである。

 これは10年前のKX40周年の時の写真だが、
 その時は私はアメリカに行っていて出席できなかったので、
 アメリカから祝意のメッセージをお送りしたのだが、

 


 今年は12月2日に明石のグリーンホテルで
 『kX50周年を祝う有志の会』が開催の予定なので、
 今回は私も出席して、ご挨拶をすることになっている。
 カワサキのKXモトクロッサーも、50年の歳月が流れている。
 私が直接レースに関与したのはそれ以前のことで、
 松尾勇さんと同じ『レース職場の時代』なのである。


  
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