この年の7月に移動値で5万台を記録して以来、毎月台数のほうは1000台づつ上昇を続けた。
2年後7万台は可能なトレンドを示していた。
台数もさることながら、新しいいろんな取り組みが周囲の注目を浴びるようになってきた。
まず社内では、8月1日に関係会社社長会の席上
『国内の販売戦略 イメージ戦略とユーザー対策』 と題して発表をさせられた。
させられたと言うより、大庭さんに命じられたのである。
大庭さんは単車から川重の社長になられた頃であったが、単車本部長の頃国内販社の社長も兼務されていてそんな会社が今絶好調なのが、ご自身の自慢でもあったのである。
大庭さんの期待を裏切らないような面白い発表をするように心掛けた。
89年 『時代は艶』
90年 『感動ホルモン 飽和社会の新活力』
など博報堂の生活総合研究所の発表内容などを交えて、ソフト会社や、ユーザー組織KAZE、レース、サーキット運営など販売の周辺のソフト分野の話を中心にした。
川崎重工の役員会や関係会社社長会での発表としては異色のものだったと思う。
後のパーテイでも圧倒的に『面白かった』と評して頂いて、私自身も大いに満足であった。
当時、業界や経済界でも 『堅い会社の柔らかい動き』 は注目されて、7月31日の日経ビジネスには長谷川直樹記者の4ページ特集で
『名門復活の牽引車になるか』
『二輪車下位メーカーの川崎重工業が一転積極策に出た。その元気な姿は3年前に人員整理を断行した暗さを感じさせない。
造船、産業機械など重々しいイメージの川重にあって、二輪車部門は唯一エンドユーザーに結びついている。川重全体が攻めの経営に転じるときの”切り込み隊長”なのだ。』
と紹介された。
川重には不似合いの、
「KAZE」、「ソフト会社」、「サーキット」、「JJSBAのジェットスキーレース」、「レーシングスポンサー」などの言葉が随所に溢れ、
大庭さん、高橋さんの顔写真入りの囲み記事などを挿入されている。
『何もしないと思われているところがするから』、注目されたのだと思う。
兎に角、元気ないい時代であった。
カワサキの周辺は、レースも販売店も従業員も、みんな元気であった。
カワサキに乗っているユーザーも大きく胸を張っていた時代の幕開けの時期であった。
丁度その頃、8月始めに鈴鹿の全国安全運転大会のパーテイで、阪神ライデングの有馬社長にお会いした。
ちょっとした挨拶だけだったのだが、
何となく気になって8月30日に尼崎の阪神ライデングスクールを独りで訪ねている。
そして、9月1日の日記に『二輪車教習場を本当にやろうか』などと書いている。
ホントにふとしたことで、物事は大きく動くのである。
有馬さんには以降3年間ほど本当にお世話になった。
その有馬さんとの話は次回に。
そんなこともあった、89年の夏であった。
2年後7万台は可能なトレンドを示していた。
台数もさることながら、新しいいろんな取り組みが周囲の注目を浴びるようになってきた。
まず社内では、8月1日に関係会社社長会の席上
『国内の販売戦略 イメージ戦略とユーザー対策』 と題して発表をさせられた。
させられたと言うより、大庭さんに命じられたのである。
大庭さんは単車から川重の社長になられた頃であったが、単車本部長の頃国内販社の社長も兼務されていてそんな会社が今絶好調なのが、ご自身の自慢でもあったのである。
大庭さんの期待を裏切らないような面白い発表をするように心掛けた。
89年 『時代は艶』
90年 『感動ホルモン 飽和社会の新活力』
など博報堂の生活総合研究所の発表内容などを交えて、ソフト会社や、ユーザー組織KAZE、レース、サーキット運営など販売の周辺のソフト分野の話を中心にした。
川崎重工の役員会や関係会社社長会での発表としては異色のものだったと思う。
後のパーテイでも圧倒的に『面白かった』と評して頂いて、私自身も大いに満足であった。
当時、業界や経済界でも 『堅い会社の柔らかい動き』 は注目されて、7月31日の日経ビジネスには長谷川直樹記者の4ページ特集で
『名門復活の牽引車になるか』
『二輪車下位メーカーの川崎重工業が一転積極策に出た。その元気な姿は3年前に人員整理を断行した暗さを感じさせない。
造船、産業機械など重々しいイメージの川重にあって、二輪車部門は唯一エンドユーザーに結びついている。川重全体が攻めの経営に転じるときの”切り込み隊長”なのだ。』
と紹介された。
川重には不似合いの、
「KAZE」、「ソフト会社」、「サーキット」、「JJSBAのジェットスキーレース」、「レーシングスポンサー」などの言葉が随所に溢れ、
大庭さん、高橋さんの顔写真入りの囲み記事などを挿入されている。
『何もしないと思われているところがするから』、注目されたのだと思う。
兎に角、元気ないい時代であった。
カワサキの周辺は、レースも販売店も従業員も、みんな元気であった。
カワサキに乗っているユーザーも大きく胸を張っていた時代の幕開けの時期であった。
丁度その頃、8月始めに鈴鹿の全国安全運転大会のパーテイで、阪神ライデングの有馬社長にお会いした。
ちょっとした挨拶だけだったのだが、
何となく気になって8月30日に尼崎の阪神ライデングスクールを独りで訪ねている。
そして、9月1日の日記に『二輪車教習場を本当にやろうか』などと書いている。
ホントにふとしたことで、物事は大きく動くのである。
有馬さんには以降3年間ほど本当にお世話になった。
その有馬さんとの話は次回に。
そんなこともあった、89年の夏であった。