雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 2

2023-11-07 05:35:17 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。
私なりのユニークな対策の効果もあって、このムツカシイ目標の達成が見えてきたた91年3月に、
7万台への挑戦』についての話をするように当時の事業本部長高橋鐵郎さんからの指示だった。
そしてその講演を冊子にまとめてくれたのは当時の営業部の販売促進部長の岩崎茂樹くんである。

この冊子の冒頭のご案内で岩崎茂樹は大要このように述べている。
・・・皆様にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、何故そうしたのか?何を狙っているのか?と言った
 一貫して中を貫いている"哲学”=基本的な考え方であります。
 ハードウエアだけでは最早競争相手との差別化が困難となったこの時代に、
 このソフトウエアを構築の柱としたダイナミックなマーケッテング活動をユーザーの意識の変化に即応して展開していく姿勢をも学んで頂きたいと思います。


  
  

 彼は若い時、私のレース活動を引き継いでくれたレースマネージャーで、2代目の広告宣伝課長なのである。
 そんなことで私自身をよく理解してくれているから言える言葉だと思う。
 

★ 私はこのような講演会でも大綱は纏めるが、原稿などは作ったりはしないのである。
 話は喋り手と聴き手で成り立っている。
 常に聴衆の反応を見ながら話さないと、一方的な講話になってしまうのである。
 そんなことで、高橋鐵郎さんが何を思ってこの講演会を考えられたのか?
 先ず、冒頭に高橋さんの考え方を私から聞いてみたのである。
 即席ではあったが、高橋さんはこのように語られている。


 


本来ですと、直ぐカワ販の講師に喋って貰ったらいいのですが、
ここに並んでいる講師の連中は見かけによらず心臓が弱そうで、
私にキックオフをしてもらわんと、
喋る訳にもいかぬという要請が只今ありましたので、
今日の会合の趣旨について若干私からお話したいと思います。
 いまよい製品を適正な価格で売るということは、必要ではあるけれども、十分条件ではない。
今後の販売は周辺のソフトを固めてグローバルに総合的にモノを顧客に提供していく時代が来た。
我々事業本部の方も今後の販売は総合的な力で最終的な結果が得られるということをよく認識して、
前線で戦っている販売面をよくバックアップしていかなければいけないと思い、
CP事業本部の幹部の方々に集まって頂いた訳です。どうか皆さんご清聴下さい。
 というご挨拶で、この講演会が始まったのである。
  
 
★高橋さんから『7万台への挑戦』の話をするようにと言われて、
 さて、どのように話すべきかと思ったのだが、
 これは私が指揮をとってはいるが、私が一人でやっている訳ではないので、
 部下というか「仲間と一緒に話すべき」だと思って
 喋り手はこんなメンバーにして、こんな構成にしたのである。

 その講師に選んだのは販売促進部などではなくて、
 ●ケイ・スポーツ・システムというソフト会社南常務
 ●レース担当重本部長
 ●広告宣伝小林課長とし、
 打ち合わせなどなしにスタートしたのである。

 打ち合わせなどしなくても、日ごろの業務の中で意思疎通はよくできているから、
 自由に喋らしてもおかしなことにはならないと思ったのと、
 若し、何かあればその場で私が修正すればいいと思ったので、
 先ず私が喋り、そのあと3人が話して
 最後に私が纏めるという方向としたのである。

 目次は綺麗に纏められているが最初にあったのではなく、
 話した内容をあとで岩崎茂樹が纏めてくれたのである。

 


★この講演会のテーマは『7万台への挑戦』なのだが、
 その副題にあるように『新しいカワサキのイメージ戦略』なのである。

 目標が5万台ならともかく『7万台』という途方もない台数は、
 「カワサキの新しいイメージ創造」がキーで、
 それなくして、単なる販売促進策では不可能だと思ったからである。

 1988年10月に国内販売を担当して、
 最初にやったのは『ケイ・スポーツ・システムというソフト会社』を創ることから始めたのである。 
 川崎重工業の中ではじめてのソフト会社は、翌年3月に設立され、
 私が社長を兼務して『7万台への挑戦』の中枢に据えたのである。

 端的に言えば『遊びの会社』なのである。
 二輪車は交通手段でもあるが、カワサキが主とするスポーツ車は
 『遊び道具』なのである。
 販売店などにはできない「本格的な遊び」を末端のユーザーとともに創って、
 『新しいカワサキイメージの創造』が出来ない限り、
7万台の販売達成はない」と思ったのである。

 その新会社の設立に利用したのが、
 当時日本で初めての一般ユーザーが走れるサーキット『SPA直入の管理』という名目で、
 新ソフト会社・ケイ・スポーツ・システムの創立の理由にしたのである。


 

 この時期は丁度SPA直入が建設中だったので、
 
 そんなことにでもしなければ、川崎重工業の役員さん方に『二輪の遊び会』などと言ったら、新会社の設立などは申請が通らないのである。
 この時の川重社長の大庭浩さん単車本部長時代に私が番頭役を務めてたので、
古谷が言うのなら』とあまり中身は解らずに通して頂いたのだと思っている。

 そんなことで出来た『ケイ・スポーツ・システム』だが、
 この会社での最初の仕事は、ユーザークラブKAZEの本格的な導入
だった。


 
 

 当時はホンダはHART ,ヤマハはYESS,スズキはじゃじゃ馬と4社ともあったユーザークラブだが、
 4社の中でKAZEだけが今も存在し、今年35周年を迎えるのである
 その理由は、他社は担当者ぐらいはいたのだろうが
 カワサキは、これを企画管理するソフト会社を創って本格的に対応したからだと思う。
 KAZEとは少々当てつけだが
 Kawasaki Amusing Zone for Everybody の頭文字をとったもので、
 風を切って走る二輪の楽しさを何となく連想させるものになっている。

 これらの話は、今となっては『カワサキ単車の昔話』ではあるのだが、
 この『新しいカワサキのイメージ創造』は私にとっては
 二輪のマーケット分野を担当した集大成 だと言っていい。

 いま思うと、岩崎茂樹がよくこんな冊子にまとめてくれたなと感謝・感謝なのである。
 因みに『SPA直入』は私と岩崎茂樹とで創ったサーキットで
 その『SPA直入』の名付け親は岩崎茂樹なのである。
 その名の由来は、直入町の温泉もあるのだが。
 世界的に有名なベルギーの『スパ・フランコルシャン』から来ているのである。

★こんなコンセプトでの講演会だったのだが、
 当時のCP事業本部の約200名の部課長を前に
 2時間以上に亘って話したのだが、非常に好評だったのである。

 どんな話の内容であったのかは、サワリの部分を次回にご紹介することにする。
 
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