★ 現役時代は「世の中でもはじめて」という種類の大きなことを結構いろいろとやって来たのだが、
日本で初めて一般のライダーが走れたサーキット「SPA直入」を創ったことが、私の1番の大仕事だったかも知れない。
それは1988年時代のことだが、
当時も日本には鈴鹿もFISICOもその他いろいろサーキットは有ったのだが、
それはどこも「レースライダー」以外は走れなかったのである。
世はまさに「レーサーレプリカ全盛期」で街にはそんなスポーツ車が溢れていたのだが、
そのユーザーたちはサーキットは勿論は走れないし、
走るところがないので、峠にたむろして「峠族」などと呼ばれていた。
各メーカーとも「レーサーレプリカ」を開発しておきながら走る場所は「ユーザーまかせ」というのは無責任だなと思ったりもしていたのである。
★当時カワサキは大分県直入町に広大な土地を持っていて、それはテストコースを創るべく購入したのだが、
当時のHY戦争などのあおりで、カワサキの二輪事業は危機に瀕していて
テストコース建設などとてもではなかったのである。
土地を購入しテストコースを創ることで、地元の直入町には人も雇用するなど約束していたので、
直入町はいつまで経っても実現しないテストコースがいつできるのかと
年に何度も明石工場までやって来て督促するので困り果てていたのである。
そんなことで費用の掛からない「モトクロス場」でも造ってお茶を濁そうかという話になっていたのを私が聞きつけて、
「小規模なサーキット」を創ってはと提言したのである。
ちょうど営業にいて「峠族」は問題だと思ったし、
「小さなサーキット」で一般ユーザーを走らせたらいいと思ったのである。
★「一般のライダーを走らせる」のは当時の常識では「危険」ということだったが、
二輪車とはそんなに危ない乗り物なのか?
一方通行で、信号もないし、カーブには転倒時の安全地帯もある。
「出来る限り安全に徹したサーキットを創ればいい」
ということで、当時の高橋鐵郎本部長の承認を取って踏み切ったのである。
土地はすでに所有していたので、建設費は4億円弱でできたのだが、
こんなコースを創るには本社の承認が要るのだが、
サーキットを造るなど川重では初めてのことだし、
その是非など判断ができる人は当時の川重にはいなかったのだが、
当時は大庭浩社長の頃で、大庭社長が単車事業本部長をされてた時の番頭役を私が務めていたので、絶大の信頼があって、
「古谷がやると言うのならまあいいか」ということで承認が取れて、
本社の企画・財産あたりも具体的な建設に大いに手伝ってくれたのである。
★若いころからレースを担当していたので、何となくは解っていたのだが、
さて、ホントに創るとなると会社でも経験者は皆無なのである。
それに担当してくれた工事会社もサーキットなど初めてなのである。
それを私と、私の後のレースを担当してくれた岩崎茂樹と二人でスタートしたのである。
そのためには既にあった地方のサーキットを観に行ったりしながら、
まさにすべてを二人で「起案」したのである。
これがSPA直入だが、1周2kmほどの小さなサーキットだが、
安全のためにコース幅は鈴鹿サーキットと同じだし、
カーブは登り勾配に配置して、グリーンベルトはめっぽう広くとっている。
サーキットの建設費はコース舗装費などよりも一番多く掛るのは「土を動かす量」なので、
出来る限り「動かす土の量」が少なくなるようになコース設計をしている。
そんなことを想いだしながら、改めて「SPA直入」を観ているが、
日本で「一番美しいサーキット」と言えるかもしれない。
こんな自然環境の中に存在している。
★ なぜ、いま突然 SPA直入のことをアップしてるのかというと、
極く最近の二輪車新聞の記事に
「愛車でサーキット体験」それも「レーシングスーツ不要」というのである。
「時代も変わるものだな」と思ったのである。
「SPA直入」は1990年4月15日にオープンし、
当日は直入町に4000人ものユーザーが集まり、
直入町長は「有史以来、直入に一番多くの人が集まった」と挨拶されたのを想い出す。
直入町は自然豊かな環境の中にあって、長湯温泉で有名なのだが、
SPA直入のSPA は温泉だが、もう一つの意味は
「スパ・フランコルシャン24時間レース」などで有名なベルギーのサーキットの名前と賭けている。
その名付け親は、物知りの「岩崎茂樹」なのである。
いまカワサキは九州にオートポリスとSPA直入の二つのサーキットを持っているのだが、
SPA直入は当初の基本コンセプト通り、今でも結構沢山の方々に愛されているサーキットなのである。
★ 当時、日本のどこのサーッキットも一般ユーザーは走れなかったのだが、
先ほどの記事にもあるように、
今では日本中のサーキットで一般ユーザーが走れるようになったのである。
これはその当時のSPA直入での写真だが
左から岩崎茂樹、いろいろと応援してくれた田崎雅元さん、
それに私のスリーショットである。
新しい時代を切り拓いていったという意味で、
小さなサーキットだったが「私の一番の大仕事」だったかも知れぬし、
こんなことは私以外には、なかなかやる人はいないのである。
ある意味「無茶」なのだが、
何となくうまくいくのは「ツイている」のだと思う。