雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

年内解散はあるのだろうか?

2012-10-16 07:34:25 | NPO The Good Times

★政治の世界はやっと、ちょっとだけ動いたような感じである。

これが政治だと言われたらそうかも知れぬが、今の世の中の流れから言うと遅すぎる。

『時間が最大のコスト』だという認識が皆無なのである。

 

その点は、『維新の会』というか、橋下徹さんの展開の方が早くて気持ちがいい。

大阪府知事になってから未だ4年は経っていないはずである。この3年半で大阪は間違いなく変わった。いい悪い、賛成、反対は別にして、『大阪が変わった』ということに異論のある人はいないだろう。

中央の政治も変わるのだと思って、みんな民主党に1票を入れたはずだが、結果は変わらずにこんなのが今の現実なのである。

 

★その橋下さんが、中央の政治家、政党に挨拶に行ったらしい。

 

 

安倍総裁ではなくて、安倍総理に挨拶をしに言ったような感覚になるから不思議である。

それくらい民主党の存在感は薄れてしまったように思う。

今更、解散の時期を遅らせてみてもダメなように思う。選挙の結果がどうなるかは解らぬが、新しい形での船出をする方が、日本の国のためだと思う。

 

それにしてもどんな展開になるのだろう。

橋下さんは、石原さんにも会われたようだし、

小沢一郎さんとも、会われたようである。 

挨拶回りだから当然と言えば当然だが、いよいよ政局は動き出す感じである。

 

 

夕方のニュースはこの動きを直ぐ取り上げていた。

挨拶周りも大変である。こんなに政党があることを改めて認識した。

 

 

★実際の候補者の選定が終わり、具体的な顔ぶれが並ばぬと、もう一つピンとこないが、今の正当支持率などアテにならないと思う。

どんな流れが出来るかに掛っている。

 

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Kawasaki ブランド

2012-10-16 06:31:31 | NPO The Good Times

 ★昨日、もう一つのブログでアップした『Kawasaki ブランド』 に対する私の想い。こちらにもアップすることにする。

 
 
 
★Kawasaki が二輪事業をスタートさせてから、50年ちょっとになる。

事業のスタートはエンジン供給からだが、明石で一貫生産を始めてから50年ちょっとなのである。
私がKawasakiの二輪部門に異動してカワサキの二輪に関係し出してから、今年はちょうど50年になる。
結婚してから50年だが、結婚した年から担当したので覚えやすいのである。



当初は『川崎』 
それから『かわさき』そして『KAWASAKI』ー『Kawasaki』―『カワサキ』

と言うような感じで、Kawasaki ブランドは変遷して、今ではKawasakiのロゴは川崎重工業全体のものになっている。




★Facebook に Kawasaki USA と言うページがある

普通『100』の『いいね』を貰えるのはなかなか難しいのだが

このKawasaki USAには、550000人が『いいね』を寄せている。55万人なのである。
中をご覧になってら解るが、Kawasakiの写真がただ並んでいるだけなのに大変な数なのである。

先日私がアメリカにいた時は、54万人だったからこの1カ月で1万人も増えたことになる。
この『ブランド力』こそがKawasakiの強みなのだろう。




★カワサキが二輪事業を始めたころ、私は広告宣伝課を担当した。

カワサキのイメージがなかったころである。
『イメージ』など普通は『ない』ことが多い。 何も発信しなければ『なくて当然』なのである。

以下は『世界の名車 カワサキZ1 開発の源流』という本の企画が進んでいるが、そこに寄せた私の文章の抜粋である。
カワサキのブランドイメージの創造には、初期の段階から深く関係してきたのである。
今もなお、その活動は続いている。



思えば、昭和47年(1972年)Z1が発売されてもう40年にもなる、旧い旧い昔の出来事なのである。
然し、名車Z1の発売に至るまでには、後発メーカーカワサキにとっては苦難の道程が続いたのである。

当時のカワサキの単車事業は明石での一貫生産がスタートしたばかりで、機種はB7やM5、井関の空水冷のモペットなどもあった「実用車のカワサキ」の時代だったのである。

当時の川崎航空機の本社は、単車事業を軌道に乗せるべく、毎年1億2000万円の膨大な広告宣伝費を本社負担の開発費として3年間単車事業に投じてくれたのである。当時のサラリーマンの年収が50万円程度のころだから、非常に大きな額だということはお解り頂けると思う。
その広告宣伝費をベースにモトクロスレースなどを中心に、独自のカワサキイメージの創造に熱心な時代であった。

ただ、そんな実用車のカワサキの時代にも、カワサキ独特のイメージを創りあげたのはレースであったとも言えよう。
赤タンクのカワサキ」として、レースの世界だけでは競合他社に対して互角以上の戦いを挑んでいたのである。当時レース以外に競合他社に勝てるものは何一つなかったのである。

技術部は大槻幸雄、製造部は田崎雅元、そしてマネージメントは広告宣伝の私という若手がその実務を担当をしていたのである。

特にモトクロスでは1964年10月10日東京オリンピックの開会式の当日、伊豆丸の山で開催されたMCFAJの全日本モトクロスでは4種目中3種目を制覇して、赤タンクのカワサキの名を確固たるものとしたのである。

当時は未だ『赤タンクのカワサキ』の時代であったが、その後アメリカ中心に展開されたH1Rを中心とするレース展開は『ライムグリーン』として新たなKawasaki の時代を創りだすのである。

1970年代の後半、当時のカワサキの二輪事業をリードしたのがアメリカ市場であったことは間違いない。
単に販売台数や売上高など事業規模の拡大だけでなく、その事業構造の改革、機能の充実という質的な面でアメリカ市場が果たした役割も大きい。

最も印象的、且つ基本的なのが、Kawasaki. Let the good times roll !! というカワサキの二輪事業の活動基本コンセプトで、新しいカワサキのイメージをアメリカの地に創造したのである。
そのコマーシャルソングとともにアメリカで幾つもの賞を受賞して、一挙にKawasaki はアメリカに定着したのである。

<iframe src="http://www.youtube.com/embed/NbgkkvIvswU" frameborder="0" width="420" height="315"></iframe>

そんな話題のこのGood Times Concept ではあったのだが、歳月がながれて、カワサキの中でも、いつか消え失せてしまっていたのである。
これを全世界のカワサキの基本コンセプトに復活させたきっかけを創ったのは、ずっと後の国内市場なのである。
1990年代ZEPHYR人気に湧いた国内で高橋鉄郎KMJ社長時代に復活し、当時事業本部長として全世界展開をけっていされ、現在もカワサキの基本コンセプトとして展開されている。





Z1が発売されて40年、日本ではその40周年を記念して、日本の熱烈なファン達がKAWASAKI Z1 FAN CLUB をネットをベースに立ち上げたのである。

FacebookページKAWASAKI Z1 FAN CLUB には,世界30数カ国から既に何万人ものZ1ファンからのアクセスや情報が寄せられており、ネット社会独特の展開がなされているし、さらに、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の本拠地兵庫県三木市緑が丘にはGood Times Plaza がオープンし世界へ向かっての情報発信拠点として機能することが期待されている。







 
 
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