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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

中学・高校・大学 私の学生時代  その3

2021-03-18 07:15:13 | 自分史

★ 高校からは『学区制』で地元の明石高校に転校した。
 当時の明石は『明石高校』と女子高だった『明南高校』があったのだが、
 なぜか問題なく『明石高校』への転校だったのである。

 それまで神戸までの通学に比べたら
 圧倒的に近くなったし、家からの距離も1キロほどだから、
 歩いて20分ほどで通学できるようになったのである。

 こうしてみると明石高校は明石の北の端なのである。
 この地図を見ると『変わるものだな』というのが実感である。
  当時は、この地図に現れる通学路から北側は家などなかったし、
 その南側も家は建ってはいたが10分の1ほどで、
 殆どが空き地だったのである。


 


 当時の野球部の練習は明石公園でやることも多くて、
 上の地図の左端にある野球場までずっと放課後通っていて、
 その時はやはり通学路を通ってさらに明石公園の中を抜けていたのである。

 明石高校では毎日教室には出ていたが、教室以外で勉強することは殆どなかった高校生活だった。

 これは神戸一中時代とは大違いで、勿論勉強のできる生徒もいるのだが、
 勉強は嫌いという生徒もまたいたのである。
 そういう意味では、私も『勉強ができる生徒』の範疇にはいて、
 勉強はしなくても、特に問題があったわけではなかったので、
 非常に気楽な高校生活を送っていたのである。


★ 中学時代も高校時代も『気楽な学生生活』を送っていたのだが、
 それは私の『気楽な性分』がそうさせたので、
 家庭環境はそんなに気楽でもなかった筈なのである。

 戦後引き揚げてきて爆撃で焼けてしまったが、
 その屋敷跡は3000坪ほどもあったので、伯父も父もそこに家だけは建てたのである。
 父は私が中学時代は神戸で会社を立ち上げてはいたが、
そんなに大きな収入があったとも思えないので、
我が家は引き揚げてきた時母が隠して持ち帰った指輪を売って建てたなどと言っていた。

 ちょうど高校に入るころに父が『脊髄カリエス』で寝てしまって、
 高校3年の時も病状は変わらなかったので、ほぼ大学進学は諦めていたので、余計に勉強はしなかったのだと思う。

 今思うと高校時代、父は寝ていたから勿論収入はなかったのだが、
 どのように生計を立てていたのかは、はっきり解らない。
 多分、同じ敷地内にいた伯父が面倒を見てくれたとは思うのだが、
 その伯父とて戦後は無職だったから、多分3000坪ほどあった上の丸の敷地を売り食いしての生活だったのである。

 当時はまだ健康保険制度などは整備されていなくて、
 父の治療にいるマイシンの注射が1本1000円もして、上の丸の土地が当時1坪2000円ぐらいで売れたので、
伯父がそれを売りながらの生活だったのだと思う。

 然し高校時代に、そんな金の心配などは一切せずに学校に通っていて、
 学校では勉強などはせずに『野球一筋』の生活だったのである。

 そんな父が私が高校3年生の時の1月2日に突如亡くなってしまったので、
 伯父が『もう金が要らなくなったから、お前は大学に行け』ということになって、
 それから大学受験の真似事みたいな受験勉強をしたのだが、
 受験したのは当時の神戸商大1校だけで、
 その年の入試の倍率が16,5倍もしたので『通る訳がない』と思っていたら『通ってしまったのである

 そんなことで、私の高校時代、勉強をしたと言えるのは、
 この最後の2か月間だけなのである。
 父は『私を大学にやるために』そのぎりぎりの1月2日に死んでしまったのかなと思ったりもするのである。


★ バブルの時には1坪100万円とも言われた『明石上ノ丸』の土地なのだが、
 当時は土地にそんな値打ちを感じなかったし、
 土地を手放すことにもそんなに気にしなかったのだと思う。
 明石公園に隣接した上の丸の一等地
 これくらいの広さだったのだが、今はこんな住宅地になっている。

 因みに ここは私の生地で本籍でもある。
 『明石市上ノ丸2丁目720番地』などと言う番地は今では存在しないのだが、
 私の本籍として戸籍上だけは残っているのである。

  
 
 
 隣の自転車競技場も高校生の頃競輪場として、
 堀を埋め立てて造られたのである。
 その堀はかっては外堀として上のほうまで続いていて、
 こどもの頃は庭から降りて鮒釣をよくしたもので、幾らでも釣れたのである。

 当時はこの辺り数軒の家しか建っていなくて畑が多かったのだが、
 日本も変わってしまったものである。



★ そんな時代環境の中での高校生活だったのだが、
  神戸一中とはまた違って、なかなか楽しくオモシロい学校ではあったと思っている。
 
  転校して直ぐ野球部に入部したのだが、
  その前年甲子園の春の選抜に出場したのが神戸高校明石高校の2校だったのである。
 当時の明石高は 山本治ー大津淳という最高のバッテリーで実力的には一番強かった時代だと思うのだが、
夏の大会では準決勝で芦屋高に負けてしまったのである。
 山本治さんはその後慶応大学で朝日スポーツ賞に輝き、鐘化でも活躍された。
 大津淳さんは関大・日生さらに全日本すべて4番を打って、
 阪神タイガースに入団されている。

 野球部に入った1年生の時は、そんなチームだったが、
 私と同期では溝畑圭一郎が同じように学区制で明石に転校してきたのである。

 その後の明石高校の野球部も夏の甲子園に出場したりするのだが、
 その中心になったのが溝畑投手なのである。
 野球は何としても『ピッチャーがいい』とそのチームは強いのである。

 これは2年生の時、兵庫県で優勝して甲子園に出た時の
 『溝畑投手の新聞記事』だが、

 この兵庫県の予選では灘高校を相手に『完全試合』も記録しているのである。

  


  
 そんな環境の変化の中での高校生活だったのだが、
 その殆どは『野球部の生活』の想い出ばかりなのである。

 
 
 





 

中学・高校・大学 私の学生時代  その2

2021-03-15 06:52:58 | 自分史

★ 前回、神戸一中時代の2年生まではよく勉強したが、
 3年生で共学になって『英語・数学は1年程逆戻りした』と書いたが、

 数学で言うと『対数』は私は3回習っている。
 中学2年生の時が初めてで、そして共学になった3年生に時、
 そして学区制で明石高校に転校して、明石高校でも習ったのだが、

 いま『対数とは?』と聞かれたらよく解らないのである。
 このlogが現れる『対数』は3回も習っているのにアタマに入っていないのである。

 

 数学も好きな学科だったのに、
 この『対数』が出てきて一度に興味を失ってしまったようにも思う。
 どうも現実に『必要がない』と思ってしまうのである。

 学科で言うとこの時代『歴史』の教科がなかった。
 多分、戦後すぐのことなので『教科書』が出来ていなかったのだと思う。

 英語は中学時代『よく勉強した』。
 興味もあったし、ひょっとしたら、中学時代の英語のレベル以上にはなっていないのかも知れない。

 特に神戸一中時代の英語のレベルが高かったのだと思う。
 勿論、This is a pen. からスタートしたのだとは思うが、
 1年生の夏休みには、こんな文章で始まる『舌切り雀の物語』を暗記させられているのである。

 出だしのこんな文章は、今でもよく覚えている。

     Once upon a time, there lived an old man and his wife .
  They treated the bird as tenderly as if it were their child.


★ 3年生の夏ごろから県一女と一緒になって『男女共学』となったのだが、
 小学校時代は戦時中のことで、3年生からは男女別のクラスだったから、
 『男女共学』などは初めてのような経験だったが、
 意外にスムースに抵抗もなかったように思った。

 最後列左から3番目である。

  
  

  男女共学になって『神戸高校併設中学校』ということになった。

  男女共学になって『変わったこと』というなら
  流石に『運動場での立食』がなくなった。
  それまでは神戸一中の伝統だなどと言って、
  弁当は運動場で立ち食いをしていたのである。

  それがどういう意味を持つのかは、よく解らなかったが、
  運動場で立って動きながら食っていた。
  『立ち食い』はそのまま残ったが、教室の中での立ち食いだったのである。
多分、こんな伝統も、今の神戸高校ではなくなってしまっているのだろう。

★ 兎に角、まだ戦後の時代だったと思う。
 明石からの国電を何故か『省線電車』と呼んでいたが、
 窓ガラスは半分はガラスではなく『板張り』になってたりしたし、
 三ノ宮からのバスなども3年生の頃になってやっと走り出したが、
 殆ど乗ったことはなかったように思う。

 『修学旅行』なども未だ世の中に存在しなっかった。
 天皇陛下が泊られるホテルが神戸にない時代だから、
 学生が泊る宿などまだなかったし、
 大体、『米の飯』がなかった時代なのである。
 麦飯や、『なんば粉のパン』など食っていたのだと思う。
 その『なんば粉』のトウモロコシも何故かまずくて『トウモロコシ』の印象は悪くて食わなかったのだが、
ずっと後北海道でトウモロコシを食って、こんなに旨いものかと驚いたのである。

★ そして3年生の末期になって『高校の学区制』が翌年度から始まるとなって、
神戸市灘区から通っている生徒を除いては、それぞれの校区の高校に進学することになったのである。
 神戸一中の生徒は灘区以外が圧倒的に多かったから、
みんなそれぞれの校区に進学せざるを得なかったのだが、
生徒だけではなくて先生も適用されるなど『区制のモデル校』として非常に厳しかったのである。

 確かこの年度に『灘高校』は進学校への方向転換をして、
神戸一中から先生を含めて大量な人員の転校があって、一挙に『進学校』になたように思う。
 
灘校のWiki を見ると
当時は神戸一中(現:神戸高校)や神戸二中(現:兵庫高校)、神戸三中(現:長田高校)等に入学できなかった者が入学してきたが・・などの記述もあるが、
この年には神戸一中からの転校が大挙してあったのである。

私自身は、校区の明石高校に転校することになり、
旧制の神戸一中を2年間、男女共学の神戸高校併設中学1年間の3年間の中学生活を終わるのである。

 ただ今振り返って思うと
 学校で勉強をしたのは国民学校と言われた今の小学校6年間と
 この神戸一中時代だけだったような気がして、
 本当に懐かしい学生としての想い出の時代なのである。


 
 
  

中学・高校・大学 私の学生時代  その1

2021-03-13 06:46:31 | 自分史

★ 中学1年生は昭和20年(1945)4月に、朝鮮京城の城東中学に入学したのだが、
未だ戦時中で学校にも行ったが、半分ぐらいは学徒動員で家の近くの山で松根油を採るための松の根を掘り起こしていたのである。
8月15日に終戦になって、当然学校も終わってしまって

 ちょうど夏休み中で『軍人勅諭の暗記』という宿題が出ていて、
そろそろ暗記しなければと思っていたそんな頃だったが、
それはこんなムツカシイ文章なのである。

我国の軍隊は世々天皇の統率し給たもふ所にそある昔神武天皇躬(みつから)大伴物部の兵(つわもの)ともを率ひきゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つか)せられて天下(あめのした)しろしめし給たまひしより二千五百有余年を・・・・

 戦争があと1ヶ月続いていたら、覚えていただろうか?

 私の中学生はそんなことで『今のソウル』でのスタートなのだが、
この辺りのことは、こども時代の自分史に譲ることにして、
日本に引き揚げてきて、もう一度中学1年生から行き直したので、
戦後、引き揚げてきてからをスタートとすることとする。


★ 終戦の年の12月15日、生まれ故郷の明石に引き揚げてはきたのだが、
 明石上ノ丸は爆弾と焼夷弾で跡形もなく焼け野原になっていて、
 伯父一家が疎開していた当時は全くの田舎だった伊川谷白水の借家に落ち着いたのである。

 翌年になって当時は川崎機械の社長だった伯父の知人の砂野仁さんの薦めで、神戸一中に入学することになるのだが、
何故か試験も受けずに入学することが出来たのである。
 間違いなく『裏口入学』なのだが、
 『お前は試験も受けずに入学出来たのだから、ちゃんと勉強するように』と、
 父に言われたこともあって、よく勉強したと思っている。

 ただ、この時代の通学は大変だったのである。

    今はこんな立派な街になっているのだが、当時は田んぼと川以外は何もなくて、
 毎朝田んぼの中の道を歩いて明石駅まで、上の丸に家を建てるまでの1年間ほど続いたのである。


 




そこから灘まで電車通学、更に灘からは通称『地獄坂』と称する急な坂道を上ってやっと学校なのである。


     



 これはGoogle マップで現れる今の神戸高校だが、
 形だけは昔のままで、当時はもう少し黒かったと思う。





 当時から『名門神戸一中』と言われていて、
 これが中学1年生当時、最後列左から4番目が私である。

 


 これが中学2年生時代で、ここまでが『神戸1中』なのである。


   


 『よく勉強した』と書いたが、それは神戸一中の2年生までのことである。
 『』という制度があって、学年の50番までの生徒をそう呼ぶのだが、
     学生のレベルが揃っていて高かった中で『』に入るのは大変なことなのだが、
 ずっと『』だったし、10番以内にはいたのである。

 授業のスピードも早くて、そのレベルも高かったのだが、
 よく頑張ったと思うし、よく勉強もしたのだが、
 私自身、学生時代に『勉強した』と思うのは中学2年生までなのである。

 中学3年生になると『男女共学』となって県一女と一緒になるのだが、
 この時点で、特に英語・数学のレベルは1年程逆戻りしたので、
 『勉強する』必要がなくなってしまったのである。

 そんなこともあって、3年生からは野球部に入部することになるのである。
 当時の神戸高校は野球も強くて春の選抜には甲子園にも出場している。
 そんな野球部に入部したての頃の私である。

  
 
 
  
  野球部に入ってからは、私の学生生活=野球部となってしまって、
 中学も高校も大学でも『勉強をした』という記憶がないのである。
 大学では教室にも入らなかったが、高校までは『勉強しない』と言っても
 教室には入っていたのである。

 そういう意味では私の学歴は『中学卒』かも知れぬが、
 あの名門神戸一中で『特だっ』ということが、
 アタマはそんなに悪くはない、やればできると勝手にそう思って
 生涯の自信に繋がっているのである。
 
 別に『勉強する』ことが嫌いでもないので、
 むしろ社会に出てから、
 そして定年退職してからの方がいろいろ『勉強している』のかも知れない。
 

★ 神戸一中時代の想い出としては『天覧授業』を挙げねばなるまい。
 それは昭和22年(1947)6月、戦後初の神戸行幸だったのだが、
 ホントか?と思われるかも知れぬが、
 神戸には陛下がお泊りになるホテルがなかったのである。

 その宿舎となったのが神戸―中の3階の教室でそれを改造してお泊りになり、
 私のクラスが『天覧授業』に選ばれて、
 授業観覧とは後ろからとばかり思っていたら、
 前からお入りになったのでびっくりしてしまったのである。

 
 これがその時の新聞記事で、そこには『宿舎にもなった神戸一中』という
 記事も残っている。
  

   
★ ここから先は神戸一中の同窓会の時、聞いた話でその真偽は解らぬが、

 GHQが『なぜ天皇は神戸一中などに泊まられたのか?』と調べたら、
 『あそこは英才教育をする学校だ』ということが解って、
 そこから『高校の学区制』に繋がったのだというのである。
 確かに、学区制対策は非常に厳しくて、
 若し本当にそうなら、私はその『学区制』で、明石高校に変わることになったので、そんなことにもなった『昭和天皇神戸行幸』だったのである。
 

 

 
 

川崎航空機に入社4年間  その4  自分史

2021-03-11 07:29:20 | 自分史

★入社して2週間ほどの研修期間があって、財産課に配属が決まったのが、
周囲の人たちや学校の先輩たちからの財産課の評価は最低で、
大変なところに行ったな』と言われたのである。
 
なぜ大変なところなのか? はよく解らなかったが、
 一言で言うと他部課から見たら、あまり関係のない『存在感の無い課』であったような気もする。

そんな財産課で今まではあまり重要でもなかったからだと思うが、
特に担当者などいなくて女子が二人償却計算だけをやってたようだが、
そんな誰も手を付けずに放置されていた『工具器具備品』という科目の担当になったのが、幸いだっだと思うのである。

殆ど何もなかったものを最初から創り上げていく作業だったのだが、
今思うとそれは『貴重な体験』であったと思う。
それを『オモシロい』と思うか『つまらない作業だ』と思うかは、
ひとそれぞれだろうと思うが、こんな作業をやっていたのである。

● 償却計算という何時間も掛る『計算事務』を2年間経験できたし、
● 何にもなかった固定資産台帳を作るという地味な作業にも取り組んだし、
● その現物を現場で数えるという『現場作業』も経験できて、
● 各職場に財産管理担当者という組織を作って人脈も出来たし、
● ネコスの椅子などの新しい提案なども出来たし、
● IBMによる償却計算システム構築という『システム構築』の経験など、
 全社で初めての民需のIBM化にも取り組めて、
● その過程に於ける本社や岐阜製作所との連携で顔も売れて

 などなど事務屋の基礎みたいなことを全部経験できたのは幸いであった。


 財産課時代を象徴するものとしては、このタイガー計算機だろう。
 使い方もいろいろテクニックがあって、
 オモシロかったように思っているのだが・・・

  



★同期で入社した同僚たちは、みんな結構出来上がった『まともな課』に
配属されたので、みんな先輩の手伝いのような作業ばかりで、
自分の思うように』作業していたのは私ぐらいなのである。

入社試験の面接で『君は成績が悪いね』から始まるぐらい大学の成績は悪かったので、
企画室』などと言うまともな職制への配属は躊躇われたのだと思うが、
それが幸いしたのだと思う。
私は常に楽観的で、人生すべて『運がよかった』と『常にネアカに』考えるのだが、
この財産課への配属も、新人ながら自由に振る舞えて『本当に幸運だった』と思っている。


★ 新入社員時代、当時は日本国中『スポーツと言えば野球』の時代で、
勧誘されて入部した野球部も好きな人が集まる軟式野球部だったから、
本格的な硬式野球をやった人は数人だけだったし、
会社の中でも部対抗のソフトボール戦などあったりしたのだが、
こと野球に関しては、自分で言うのもおかしいが、
ちょっとレベルの違う『スターだった』のである。

そんな野球の分野でも、新人ながら結構『名が売れて
気分のいい『新入社員時代』を過ごさせてもらったと思っている。

 
★この新人時代の財産課の5年間だったのだが、
 5年目は肺結核の療養で、三田の大原療養所での療養生活だった。
 この1年で空洞のあった肺結核も完治して、
 復職する時点では殆ど企画室に決まっていたものを、
 突然、新しくできた『単車営業』ということになったのである。
 これも私にとって本当にラッキーだったと思っている。

 この時点では入社当時とは違って、間違いなく高評価だったと思うし、
 その後の人事評価も非常によくて、
 営業部でも私の担当する部門は係長が不在で、
 係長心得のような感じで任して頂いたし、
 次の広告宣伝課では係長も課長も不在だったのである。

 お蔭様で、その後の待遇も『1年の休養期間』があったのだが、
 同期の連中に遅れることなく進めたのも、
 財産課時代に経験した仕事の成果かなと自分では思っている。
 

★ そんな私の『川崎航空機に入社4年間』と1年の療養期間で
 私の新入社員時代は終わっているのだが、
 非常に懐かしい『いい新入社員時代』を過ごせたのである。

 ごく最近の時代から遡ってきた『自分史』だが
 あとは大学時代、高校時代、中学時代
 そしてこどもの頃の戦前時代と遡っていくのだが、
 ホントに『長く生きれたな』というのが実感なのである。


 
 

川崎航空機に入社時代の4年間    その3  自分史

2021-03-09 06:30:35 | 自分史

★川崎航空機に入社した当時は、会社の仕事も、結構一生懸命やっているのだが、
当時の日記』を読み返してみたら、
一番多く触れているのは『家内のこと』でそのページ数からすると
会社の仕事』のことなどを圧倒しているのである。

そういう意味では間違いなく『一番の関心事』であったのだろう。

川崎航空機に入社して2週間ほどの研修期間があって
4月15日に業務部財産課への配属が決まったのだが、
4月19日の日記に『隣の勤労課にいる女の子にちょっと惹かれる』と書いているので、
財産課への配属は、私の人生を左右した出来事だったかも知れないのである。

6月5日には高校・大学の球友だった小野田尚弘からの電話がなぜか勤労に掛って、
小野田さんという方からの電話です』とわざわざ私の席まで呼びに来てくれたことを、日記には書いているし、
当時は朝は明石から西明石まで電車で通勤していたのだが、
その朝の電車で一緒になることが多くて、
神戸方面からやってくるので、
どこから来てるのだろう?』と思ったりしているのである。

というのも当時の会社の女子社員はその殆どが明石市内や西の方からの人たちが殆どで、
神戸の方からの人は非常に珍しかったのである。

何となく『神戸高校タイプだな』と思ってはいたのだが、
11月になって入社6か月目で初めて口をきいて聞いてみたら、
神戸高校だ』というのである。

私は旧制中学で神戸一中に通っていたのだが、
その後、男女共学になり神戸高校になったのだが、
学区制が出来て、明石高校に転校になったのである。

 
 
 
 神戸1中時代は人生で一番よく勉強したし、
 それなりの成績でもあったので、
 私は神戸1中時代の成績が一生『自分の自信』になっているので、
 神戸高校にもそれなりの思い入れみたいなものがあったのである。

  
 

入社1年目は、ただそれだけでそれなりの関心はあったのだろうが、
特にそれ以上のことにはならなかったのである。


★ 翌年になってからも、毎朝電車で会うようになり、
 5月28日に三宮で映画に誘ったのがスタートなのだが、
 その日は映画を見ただけで終わっている。
 翌週の6月7日には、当時はまだあった三宮の『新世紀』というダンスホールに誘っている。
 そして6月14日にはお返しにとネクタイを貰って、その日も新世紀に行っている。
 こんなことで3週連続でデートなどしたのだが、
 その頃には会社でバレてしまって『噂になったり』しているのである。

 それ以降、新入社員時代の4年間は、
 日記の中では『家内が中心』でそれなりに熱烈だったのは間違いないのである。

 家内の所属が勤労課で、勤労課長の森さんは家内の上司でもあり、
 明石高校の先輩でもあったので親しくして頂いたのだが、
いつ、結婚するんだ?』などと冷やかされたりしていたのである。
 

★ 新入社員時代の財産課での4年間は、
 3年目の昭和34年(1959)9月にIBMによる事務機械化に取り掛かり猛烈に忙しかったのだが、
 4年目はこの『プロジェクト』に集中して、9月にはそのIBMカードも完成しているのである。

  


 4年目の日記を読み返してみても、
 そこに記述されているのは『家内のこと』か『IBMの機械化』のことばかりなのである。

 そんな1年だったのに
 10月になって診療所から『菌が出たので入院』という宣告を受け、
 11月からは、三田の療養所に入院することになってしまうのである。


★ 三田の療養所には翌年の12月までの入院だったので、
 新入社員の財産課時代は約5年なのだが、
その5年目は殆ど『三田療養所での療養生活』だったのである。

 今はもうないのかも知れぬが、
 川崎重工業の健康保険組合の『三田大原療養所』はこんな立地で、

 住宅団地はなかったと思うし、その辺りもみんな自然の山だったと思う。

  

 
 安静時間もあったが、自由時間も結構あって、
 池で野釣りもよくしたし、周辺の松林は秋には『松茸』がいっぱいで、
 幾らでも採れたのである。
 今なら『松茸ドロボー』で大変だが、当時はそんな空気はなくて、
 散歩のついでにみんないっぱい採ってきていた。
 一般の方が一生に食べる量よりは、はるかに多い『松茸』を食したのである。

 入院されている方とも、看護婦さんともすぐに仲良くなれたし、
 本当に『楽しい』と言っては不謹慎かも知れぬが、
 そんな楽しい療養生活だったのである。
 家内はしょっちゅう見舞いに来てくれたし、
 手紙も届いて、若し入院などなければ家内から手紙をもらうことなどなかったと思う。


★ 自分の一生を振り返ってみると、
 『環境への適合性』は抜群で、どんな環境でもそれに『直ぐ順応できる』ところがある。
 
 退院する時点では新しくできた『単車営業課』への転籍が決まっていて、
 その後の人生も『誰もがやったことのない新しい仕事』ばかりだったが、
 どんな環境にも直ぐ適応できたのである。
 
 これはやはり、中学1年生の時に経験した、
 戦後の環境の変化が大きすぎて、
 それに比べたらどれも、そんなに『大したことではなかった』のだろうと思っている。

 それくらい戦前・戦後の変化は劇的だったのである。


 
 

川崎航空機に入社時代の4年間    その2   自分史

2021-03-07 05:51:25 | 自分史

★ 川崎航空機の新入社員時代のこと『その1』では、
 『償却計算のIBM化』などちょっとカッコいいこと書きすぎたかも知れない。

 昭和32年(1957)時代の川崎航空機はまだまだ大変な会社だった。
 戦時中の爆撃でやられたままの建物がそのまま残っていたりもして、
    建物の2階に張ってあったベニヤ板の上を歩いてた新入社員が
 ベニヤ板が破れて落下し亡くなってしまったりしたのである。

 そんな建物も残っていたし、爆撃の後の鉄骨なども売っていたりして、
 後事務所になった『4研』には、戦前の機械が入りきれないくらいいっぱい残っていて、
 半ばそれの『売り食い』みたいなところもあったのである。

 会社なのに、再スタートしたばかりで
 基礎資料と思われるものも揃っていなかったし、
 前回も書いたが、工場の敷地がどこまであるのかも分からなくて、
 土地を見に歩いたら『工場内だ』と思われるところが畑になっていて、
 その畑を立ち退いてもらうのに『立ち退き料』みたいな金が要ったりしたのである。



★私の初任給は12000円だった。
 それも月2回払いなのである。

 資金繰りなど苦しかったのだろう。
 財産課での機械の処分代なども間違いなく収益に繋がっていたのだと思う。
 何しろ戦前の機械だから帳簿上の簿価はタダみたいな価格だったのである。

 私が担当した工具器具備品も、ジェットだけは新工場ということで一件300円以上が財産物件になっているので机は財産物件なのだが、
 その他の部門の机は、同じ机でも経費で買っているので備品ではあるのだが、『財産物件ではない』のである。

 その数は購入時の数として残っているだけで、
 台帳はないし、現物確認など一切出来ていなかったのである。

 まず固定資産台帳をつくることから始めたのだが、
 机なども数だけが解っていても、現物照合など全くなされてはおらず、
 仕方がないので課ごとに現場に出向いて、当てはめたりしたのである。

 ところが会社に職制変更というようなものがあるとは知らなくて、
 折角当てはめた机も、職制変更や異動で、人と一緒に動いてしまうので、
 またゼロからやり直しなのである。

★ 仕方がないので小さな赤と緑の番号プレートを作り、
 財産物件と経費での購入備品と区別し、財産物件には財産番号を刻印して机に打ち付けていく作業に取り掛かったのである。
 プレートの貼ってあるものは『数えたもの』と識別できるようにして、
 財産物件には1物1件ごとの台帳を作っていったのである。

 こんな現場作業にほぼ1年を要して、
古谷はいつみても釘と金槌を持って社内を歩いている
 と言われたりしていたのである。

 文字で書くのは簡単だが、現場の実地作業が伴うので、ホントに大変だったのである。
工具器具備品の台帳を作るのに1年以上かかったのである。
 信じられぬかも知れぬが、ホントにそんなことをしていたのである。
 

★ 椅子は木製の回転椅子だったが、
 それがよく壊れて毎週トラックにいっぱいの「椅子の修理」が発生し、
 これが毎週のことなので大変だったのである。

 これも1年間毎週の仕事として続けていたのだが、
 ちょうどその頃、『ネコスの椅子』が世の中に現れて、
 これに変えようとしたのだが、
 企画室は予算がどうだこうだなどと言って、
 なかなか『うん』と言ってくれないのである。

 

 
そんなとき、たまたま砂野社長にほかの用事で呼ばれたのである。

砂野さんは戦前から伯父と親しくて、私も中学生の頃からよく知ってたし、
神戸一中に私が入学したのも砂野さんの薦めだったのである。
私は川崎航空機に砂野仁さんのコネで入社しているのだが、
新入社員時代、一番気安く『モノが言えた』のは上の方では砂野さんだったかも知れないのである。

砂野さんは『健康』に非常に関心をお持ちなのはよく解っていたので、
ネコスの椅子』は背もたれも動くし『健康にいい』と思うと言ったら、
それはいい』と賛成して頂いて、
ネコスの椅子への変更』が何となく決まっていったのである。


 そんなことは周囲の方はご存じないのだが、
 これは財産課の後輩だった小池博信くんがご自身の自分史の中で、
 『ネコスの椅子』についてこのように書かれていて、
 『進取の気象』として取り上げて頂いているのである。


  
 
 

 確かに『進取の気象』めいたところもあったが、
 簡単には『反対』を押し切ることなどムツカシイのである。
ネコスの椅子』への転換は、こんな『からめ手戦術』が功を奏したと言っていいのである。

 ただ、この『ネコスの椅子』は非常に評判が良くて、
 どこの課も欲しがるのでその配分順序が大変で、基本的には職制順にしたのだが、
 新入社員や出向先から戻ってきた人は優したりしたのである。
 たまたまだが、当時『日本ジェット』に出向されていて、
 後レースでご一緒する大槻幸雄・井手哲さんが戻ってこられて、
 新しい机と椅子を私が都合したのだが、ご本人は覚えておられるだろうか?
 

★ 世の中の『新入社員』はどのような仕事から入るのだろう?

 私の場合は、担当さされた業務の基礎的なものが全く出来ていないような状態だったから、
 結構『自由に、自分の思うように』動けたのである。
 
 勿論、係長も課長もおられたのだが、
 新しく再出発した会社だったから、細部については殆ど解っておられなかったのだと思う。

 新人社員で配属されて直ぐ『担当分け』はあったのだが、
 担当した『工具器具備品と車輌運搬具』関連は即私がTOPで、
 下に女子が二人いたし、 特にその細部の指示などは全くなかったような気がするのである。

 いま、改めて思うと不思議だが、結構な新入社員だったのである。

 
 
 
 


川崎航空機に入社時代の4年間  その1  自分史

2021-03-05 06:36:29 | 自分史

★ 自分史を最近のことから逆に若いほうに向かって書いてきたのだが、
 とうとう川崎航空機入社の時期にまで戻ってきた。

 川崎航空機に入社したのは昭和32年(1957)神武景気と言われた年なのである。
 そんなことで同期会の名称は『神武会』と名付けられている。
 技術屋さんは面接だけの無試験みたいな感じで、筆記試験があったのは事務屋だけだった。

 私の面接は『君は成績悪いねえ』と言う当時の塚本碩春人事課長の一言から始まったのである。
 確かに大学では全く勉強などせずに野球一筋だったので、
 間違いなく成績は悪かったのである。
 当時『優の数』が20ぐらいあるのが普通なのだが、
 私は5つだけであとは『』も少なく『』ばかりだったと思う。

 その『』も体育理論・体育実技と、
 試験さえ受ければ殆ど『』を頂ける中国語1・2 と
 野球部の部長のゼミの『経済地理』の5科目だけだったのである。
 成績は間違いなく『悪かった』ので悪びれることなく、
会社の仕事は他人に負けずにやれると思います』と言い切ったのだが、
この一言』は在職中忘れたことはなかったのである。

 総務部長だった岩城さんが『ところで君は野球をやってたな』と
 助け舟を出して頂いてからはどんどん話が弾んで、
 面接時間は他の人の倍ほどになったのである。
 私は砂野仁社長のコネだったのだが、
 その砂野さんからも『君は面接だけはよかったよ』と言って頂いたのである。
 
 私自身は人生で『緊張した経験』が殆どなくて、
 というより『全くなかった』と言っていいのである。
 この面接も緊張などは全くせずに『雑談の感じ』で、
 普通に自分の想い通りに喋れたのだが、そんな性格かなと思っている。

 或は野球というスポーツは団体競技なのだが、
 『打席に立って投手に対する』という個人が緊張する場面もあるので鍛えられたのか、
 どんな場面でも緊張しなくなってしまったようにも思うのである。


★川崎航空機工業は戦前からの会社なのだが、
 軍需工場だったということで戦後の中断があり、再開されたばかりの若い?会社だった。
 戦後各地に分散していた会社が明石に集結したばかりで、
 あまり旧い方はおられなかったし、
 雰囲気も非常に自由で何でもやれるようなところがあった。

 これは入社したころの珍しい写真である。

 まだ建物も新しく建ったばかりで、勿論単車工場などは建っていない。
 当時所有していた土地はこの写真の殆どがそうで、
 今の2倍ほどもあったのだが、

 

  
 売却した土地は街に変貌して
 現在はこのように周囲も新しい街になっている。





 
 入社して配属された部署が『財産課』で会社の財産管理をしていたので、
 土地のことなども何となく解っているのである。

 ただ、会社再開されたばかりで、いろんな資料なども整っていなくて、
 土地の管理なども出来ておらず、
 会社の土地を地域の人たちが戦後の食糧難から畑にしていたりしたのである。


★ 財産物件の項目には『土地・建物』や『機械・工具』『工具器具備品』『車輌運搬具』などいろいろあるのだが、
その担当分けをした時に机や椅子、自転車などは新人でも解り易いだろうということで、
私は『工具器具備品と車輌運搬具』の担当になったのである。

確かにこの当時は会社も出来たばかりで、営業収入の不足分は戦前からあった膨大な機械類の処分などで補っていて、
財産課の売り上げ収入がある意味経営を支えていたようなところもあったそんな時代だった。

未だ机や椅子や自転車なども、誰もがちょっとでも『いいものを欲しがる』そんな時代で、
新人ながらその配分権を持っていたので、工場全体に直ぐ『顔が売れたり』したのである。

ただ財産課は毎期決算期には『財産物件の償却計算』をしなければならないのだが、
その計算はこんな手動の『タイガー計算機』を使っての計算なのである。


   


 

 ちょうどジェットエンジン工場が出来たばかりのころで、
 通常財産物件は1万円以上なのだが、
 新工場は300円以上を『財産物件』にすることが認められていて、
 工具器具備品勘定には極端に言うと『すだれやバケツ類』までが財産物件に計上されていたので、その数がべらぼうに多いのである。

 従って償却計算は金額は小さいのだが、計算する手間は課の中でも極端に多くて、
 新人ながら私の下には女子の部下が二人も付いていたりしたのだが、
 それでも決算時期はめちゃくちゃ忙しくて大変だったのである。

 そんなことで2年目までは残業して計算機を回していたのだが、
 世の中にも『機械化』という発想が出始めたころで、
 3年目には『償却計算の機械化』の検討を始めたのである。
 世の中の『機械化の器具』なども検討したのだが、
 明石工場のジェットエンジン部門は米空軍のジェットエンジンのオーバーホルをやっていて、
 当時すでにIBMの器械がありIBM室もあったので、
 そのIBMが使えないかと検討に入ると『使えそうなのである

 そこでIBM室の久森君と組んで、会社で初めての『民需のIBM使用』に
 挑戦したのである。


 これがその時の『パンチカード』である。
 IBMと言っても未だ『パンチカードシステム』の時代で、
 1枚のカードの桁数は120桁だけだから、財産物件名のコード化を入れて
 桁数120桁の中に納まるような検討が必要で、
 そのためのコード化などなかなか大変だったのである。

  
 

 まだ会社の中でもどこも『IBM』など使っていなかった初めてのことで、
 『財産物件の償却化』だからと本社岐阜製作所も巻き込んでの
 『全社統一システム』を目論んだのである。

 その償却計算のIBM化は1年がかりで完成し、
 従来の償却計算係の人員は要らなくなって、
 私は財産課から新しくできた
 単車営業に異動することになるのだが、よく頑張ったものである。

 日本には一般にはIBMがなかったし、IBMという会社もなかった時代なのである。
 日本にIBMが入ってきたのは東京オリンピックの頃だから、
 それより10年も前の話なのである。

 入社3年目の新人だったが、先輩方が経験のないことをやったので、
 私は全く先輩方からの指示など殆どない『新入社員時代』だったし、
 それ以降も『新しいこと』は『アイツに任せば何とかする』と思われるようになってしまって、
 それ以降もホントに全く新しいことばかりが続くのである。

● 財産課の後は、新しく出来た『単車営業課
● その後は新しい『広告宣伝課』が3年
● さらに東北仙台での『新しい仙台事務所の創設
● 大阪に異動して業界で初めての『特約店制度』
● 川重に復帰してからは、『CKDの市場開発プロジェクト室創設
● ハーレーのダンピング対策としての『新カワ販プロジェクト

 と全く引き継ぎのない新しい仕事の連続だったのである。

 それは最初の財産課での『工具器具備品担当』から、
 そんな道が拓けて行ったような気がするのである。


 
 

カワサキの単車事業のスタート時代 その5   自分史

2021-03-02 07:29:23 | 自分史
★広告宣伝課1年目の昭和39年(1964)の日記を読み返してみた。
新聞・テレビはやれなかったが、いろいろ頑張っている。

初出の日に発動機からの単車分離の発表があった。 
どうやら単車らしい。
1億を超える広告予算があることをどこで嗅ぎつけたのか、
広告代理店の来訪が相次いでいる。
1月末には、前回紹介した『広告代理店選定基準15項目』を小野田滋郎さんと終日検討している。

3月の日記にこのような記述がある。
1人でやる仕事の量は知れてるが、発想・企画には制限がない。
広告宣伝課に来て、いろいろ考えた。
入社以来こんなに考えた1ヶ月はなかった

初めて出来た広告宣伝課・1億3000万円の予算をぺいぺいの私に任された。
本社開発費の大金ということで、報告先は直接『岩城良三事業本部長だった
岩城さんはなかなか厳しくて、よく怒られたりもしたが、
怒られてもすっきりする『気持ちのいい怒り方』だった。
その反面、『係長も課長も置かない』ということで100%任されていたのである。

広告宣伝課が川崎航空機に移り、カワサキ自販の従業員も吸収ということになって、
カワサキ自販の広告宣伝課長だった小野田滋郎さんは3月末で辞められた。
その送別会の席上小野田さんが私に贈ってくれた言葉、
毀誉褒貶は忘れよ。雑音に耳を貸すな!
その後ずっとそれは守った現役生活だった。


★この年4月初めてのモトクロスを朝霧高原で見たのだが、
残念ながら雨で1日で中止になってしまった。
モトクロスの現場はこの年9月の山梨モトクロスが初めてで、
製造部にいた田崎雅元さんと二人での現場管理で出張した。
その頃はまだレースの実戦は三橋実が監督をやっていたのである。

よく集まったものだ。
事務局発表35000人釜無川の堤防1kmが人で埋まった』と書いている。
 この時初めて『85J1のレーサー』が登場した。

   
カワサキ85J1 Wiki』にはこのような記述がある。

カワサキが1960年代の最新技術であったロータリーディスクバルブ吸入方式を採用。
デビュー前のモトクロスレーにおいてもブリヂストンやスズキを相手に
上位を独占するなど、性能の高さを遺憾なく発揮し、
カワサキ車として初めてのバックオーダーをかかえるほどの人気を博した。

これがその時の山梨モトクロスで、三吉一行が優勝した。


★いろんなことをやっていて、『85J1は富士登山にも成功している

 これは当時のオートバイ誌の記事である。

  


   

これは福田泰秀くん以下の個人の企画なのだが、
富士登山に成功して写真を撮ってきたら、
 費用を負担してあげる』ということになっていて、
 大成功だったので、こんな広告に使わせてもらっている。

  
  
 

 

因みに『福田泰秀くん』は、
一番最初にカワサキに単車営業課が出来たときの
3人のサービスマン』の一人で、
私と一緒に『単車営業を立ち上げた一人』なのである。



★ホントにいろいろとオモシロいことをやっていて、

日活との映画のタイアップで、
幾つもの映画にカワサキの二輪車が登場もするのだが、
明石日活に挨拶に来ていた当時トップスターで人気絶頂の浜田光男
明石工場に連れだして塚本本部長の対談をセットし、
バイクに乗れるというものだからテストコースで乗せたのだが、

浜田光男が来ている』とニュースが伝わって、
彼を見ようと女子たちがラインを離れて、
発動機の製造ラインがが止まってしまったりして、勤労部長に怒られたりした。

それくらいの人気スターだったのである。


    

           



★この年の8月には『源平芸能合戦』に『川崎航空機対三洋電機』で出演している。

源平芸能合戦』は、当時TBSで放送されていた人気テレビ番組で
 いま検索してもWikipedia にこのように現れるのである。




    

ことの始まりは毎日広告がやってきて、
三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というので、
上司の苧野さんに相談すると『出てみるか』と仰るので、
出ることにしたのだが、これからだ大変だったのである。

4種目の出し物』は、
● 当時抜群だった明石工場のコーラスと、
● 手塚部長の剣舞
● 岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは直ぐ決まったのだが、
あとの一種目がどうにもならないのである。

困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業にでも頼んでみるか』ということになって、
専門の演出家がやってきて、
当時アポロの月へのロケットが話題になっていたこととの関連で、
●『かぐや姫の物語』を創ってくれて、
その演技指導なども本格的にやったのである。
これは『吉本興業の専門家の発想』だから本格的な出し物になったのである。

タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変だったのである。
更に岩城さんは『うちは芸人を飼ってるわけではないから芸にに負けても応援は負けるな』と大応援団を結成して、
連日の練習が続いて『その残業代もパンなども出してやれ』と仰ってどんどん大きくなっていくのである。

この応援団を纏めてくれたのが元川重社長の若い頃の田崎雅元さんなのである。
それにフラダンスをしてくれた4人の女性を口説いくれたのも田崎さんである。
彼はよほど印象に残っているのか、『芸能源平合』の話題は田崎さんとの会話の中には何度も登場するのである。

本番当日の三洋電機との対戦は、
普通には出ない100点以上の高得点107-105点の大接戦だったが
本場淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に惜しくも敗れたのである。

本番前の応援合戦の練習では、
練習の成果もあって『圧倒的によかった』と思ったのだが、
テレビの画面になってみると、
三洋電機の応援席の階段を縦に使って女の子が踊っている画面の方が
揃っていなくても派手で印象深く、
完全に『テレビを熟知』した三洋電機に名を成さしめたのである。

当時、いろんなイベントに拘わったが、『源平芸能合戦』は大変だったと
一番印象に残っているイベントなのである。
岩城良三本部長には、いろんなことでお世話になったが、
一番密接に指示も受け一緒に動いたのはこの『源平芸能合戦』なのである。 

出演前日には毎日放送から担当者を呼んで練習を見て貰ったりしたので、
こんなことまでした会社は初めて』と驚いていたのである。
さらに『みんなよくやったので全員に記念品を』とボールペンを贈ることにしたのである。
このイベントに関わった総勢は250名、当日はバス2台で現場に参上したのである。

タダでⅠ時間番組に出れる』と気軽に出演を引き受けたのだが・・・・
まあこんなところも『カワサキらしい』のかも知れない。
私のカワサキでのイベント、第1発目の懐かしい想い出なのである。


★いろんなことがあった広告宣伝担当のスタート時期のことである。
 私も若かったが、単車事業全体が若くて
 活気のあったいい時代であった。

 やっとアメリカ市場に進出しようか?
 という機運が出始めたころの『カワサキ』なのである。

 みんな『素人の集まり』だったからオモシロかったのかも知れない。


 
 
 



カワサキの単車事業のスタート時代 その4 自分史

2021-02-27 06:24:14 | 自分史

★昭和39年(1964)1月から広告宣伝を担当するようになって、
私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。

それまではカワサキの広告宣伝は『カワサキ自販』で担当していたのだが、
この年から単車が発動機から分離され本格的な事業推進を行うに当たって、
日本能率協会は『広告宣伝課を創ること』を条件に入れたので、
川崎航空機の本社は開発費として3年間1億3000万円の広告宣伝費を出してくれたので、
当然『広告宣伝業務』をカワサキ自販から引き継ぐことになったのである。

 
小野田寛郎さんの弟さんの小野田滋郎さんと具体的な仕事を一緒にしたのはこの時が初めてだったが、
小野田さんの凄さ』その仕事ぶりにビックリしてしまったのである。
世の中にはこんなに優秀というか『仕事ができる』人がいるのである。


★カワサキに広告宣伝課が出来て1億を超す予算があると聞きつけて、
電通・博報堂・大広・毎日広告など多くの広告代理店が売り込みに来て、
広告代理店の『売り込み』は当然のことながら、めちゃ熱心にいろんなことをいろいろ言うのである。

向うのペースのままではどうしようもないので、
代理店選定基準』として、各社に共通の質問として『15項目の質問』を創ったのである。

その殆どは小野田さん主導で創られたのだが、
貴社の創造的能力を図示説明してください』
『貴社の当社担当グループの能力・経験・人員・協力頻度を・・』
『広告効果判定の可能性は・・』
 などいろいろあって、
各広告代理店は出先の営業所ではなく、本社の企画部門のメンバーたちが大勢でやってきたのだが、
当方の質問が厳しくて、
とても素人とは思えないポイントを捉えた質問』と感心されたりもしたのだが、
この代理店選定の面接で『広告宣伝の本質』みたいなものがよく解ったりしたのである。

特に『創造能力の図示・説明』には本職の広告代理店が、ちょっと困ったようだが、
小野田さん曰く『口でいろいろ言えても、ホントに解っていないと図示きない』というのである。
確かにその通りで、簡単に図示することはなかなかムツカシイのだが、
小野田さんは陸士仕込みの『戦略・戦術・戦闘論』などホントに上手く『図示できる』のにはびっくりした。

そんな小野田滋郎さんだったが、広告宣伝が川崎航空機に移り
カワサキ自販も川崎航空機に吸収ということになって、
この年の3月末で辞められたのだが、個人的には私はその後も長くお付き合いがあったのである。


★ こんなことで始まった『広告宣伝課』の新しい職務だったが、
 この1年目は折角頂いた予算1億3000万円の内、7000万円しか使うことが出来なかったのだが、
これは『広告宣伝』と言えば『テレビ・新聞』なのだが、
その『テレビ・新聞』が使えなかったからなのである。
その理由は、当時は『実用車のカワサキ』で東京・関西などの大都会では全く売れていなかったので、
東京・大阪などの大都市は広告は要らない』と営業サイドは言うので、
新聞もテレビも使えないのである。

この1年目の実績に本社の専務から『お前ら金を渡してもよう使わん』と怒られたものだから、
2年目は何とか予算は使い果たそうと

新聞は『朝日・毎日・読売は抜き』で
全国40社以上もある『地方紙』に『全頁広告』を打ったのだが、
これは広告業界では『前代未聞』で『カワサキはとんでもないことをする
と広告業界で評判になったのである。

これは中央紙に広告するよりは費用面では『めちゃ多く掛かる』のだが、
こんなことをしたのは、この年のカワサキだけだろう。

更にテレビも関西地区だけだったが、
当時売り出したばかりの藤田まことを使って

あさん ても んせい めた かわさきと喋らした
15秒のコマーシャルなど作ったので、

   
 
 
 
 2年目は広告宣伝予算はちゃんと使い切ったのである。
 因みに『藤田まこと』さん私と同じ1933年生まれなのである。



★1年目の広告宣伝は、新聞・テレビは使わなかったが、
 結構いろいろと面白いイベントやレースはいろいろやってはいたのである。

 カワサキにとってレースは初めての経験ではあったが、
 関東厚木の『カワサキコンバット』を小野田滋郎さんから引き継いだこともあって、
 広告宣伝課で担当することになった。
 スタートしたばかりのカワサキファクトリーチームである。

 右から、梅津次郎・岡部能夫・山本隆・歳森康師・三橋実・安良岡健
 ここまでが契約選手であとの4人は未契約の『カワサキコンバット』所属の選手で、
 安良岡健の隣が『星野一義』なのである。


 


 契約金は私の年収が40万円の頃だったが、
 100万円以上も弾んだので、当時は結構日本でも高額で、
 他メーカーの選手たちがみんなカワサキに来たがったそんな時代だった。
 三橋実には毎月30万円を若手選手育成費として渡していたので、
 全国から有望選手が集まっていたのだが、
 その中に静岡から星野一義秋田からの金子豊などがいたのである。 

それくらい派手に使っても1000万円ぐらいにしかならなくて、
当時の1億3000万円は今の時代なら10億円を超える額だったのかも知れない。
 
 広告宣伝課ではヘリコプターも持っていて
 モトクロスのレース場などにも帯同したりしたのである。

 下の写真は伊豆丸の山であったMCFAJの全日本モの開会式に
 ヘリでお嬢さんを運んできて『花束贈呈』など派手なことをしていたのである。

 この写真はそのレースで最優秀選手になった山本隆さんの提供です。
 
  

  
 このヘリには各社のライダーたちも乗りたがって、
乗せて欲し』と頼みに来るものだから、
私は他メーカーのチームのライダーたちとも直ぐ懇意になったのである。
特に当時の日本のトップライダー久保和夫・荒井市次さんなどとは仲良くなって、
それは現役引退後も続いていて、
ライダーたちとのこんな写真がいっぱいなのである。


 



★    この時代カワサキのレースライダーはみんないい車に乗っていて
    契約金の殆どが車に化けたのだと思う。
 それぞれこんな車に乗っていたのである。

 三橋実   日産 フェアレデイZ
           
             



   安良岡健  日産 プリンスGTB
   岡部能夫  日産 プリンスGTB

            
             


 山本隆           ホンダS500
 歳森康師  ホンダS500


            


 こんな派手な状況だったので、他メーカーの選手たちは
 一体いくら貰っているのか?と思ったに違いないのである。

 ちょうどそのころ私も運転免許を取ったので、
 よく乗せて貰ったりしていたのである。
 星野一義の最初のクルマはホンダS500なのだが、
 彼はホントに律儀で『車を買ってもよろしいか?
 とわざわざ我が家まで訪ねて来たりしたのである。
 ライダーたち当初は名もない若手ライダーだったのに、
 みんな日本を代表するTOPライダーに育っていったのである。
 

 初年度はレースの他にもいろんなイベントをやっているのだが、
 その詳細は次回に・・・


 


カワサキの単車事業のスタート時代 その3  自分史

2021-02-25 07:08:23 | 自分史

★ カワサキの単車事業がスタートした年は昭和35年(1960)なのだが、
この年の10月に私は肺結核三田の療養所に入院することになったのである。
 
当時は肺結核になる人は多かったが、
私の場合は大学の2回生の秋に『肺浸』だと言われたのだが、
そのまま休んだりはせずにずっと野球は続けていたのである。
川崎航空機に入社してからも診療所の先生に『野球はダメだよ』と言われていたのだが、ずっと止めずにやっていた。
 
この年にユニホーム姿を診療所の先生に見つかって怒られて、
検査で『菌が出たから入院』と言われてしまうのである。
三田の療養所で菌の検査をしたら『菌など出ていなかった』のだが、
いうことを聞かないものだがら、そんな理由で入院させられてしまったのである。

結果的には『これがよかったな』と思っている。
肺に空洞』などもあったのだが、1年の入院で手術などはせずに消えてしまって、それ以来全く健康だし、
1年入院したお蔭で『単車事業』に関わることにもなったし、
いい運命』だったと思っている。



★この昭和35年(1960)年は私も未だ28歳なのだが、
それから4年間、個人的にはこんなことがあったのである。

 昭和35年(60) 10月に三田療養所入院
 昭和36年(61) 12月に三田療養所退院・ 単車営業課に異動
 昭和37年(62) 12月に結婚
 昭和38年(63) 9月に長男出生・ 青野ヶ原モトクロス

私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社し業務部財産課に配属になるのだが、隣の課の勤労課に家内はいたのである。
そんなことから翌年の3月から付き合いだして、
私の性格から隠したりはせずに『大ぴらな交際』だったし、
結構『熱烈な恋愛関係』だったので周囲の人はみんな知っていて、
いつ結婚するの?』というようなことだったのに、
三田療養所に入院』ということになってしまったのである。

退院してちょうど1年後に結婚し、翌年長男が生まれたりしているのだが、
この時期は会社の仕事も新しくなったが、
自分の人生も『新しい結婚生活』が始まっているのである。

 
★   当時の写真はあまりないのだが、旧いアルバムの中から。
 
これは新婚旅行、新婚旅行のスケジュールは会社の先輩の坂口さんが決めてくれて、
 
           
        



冬だから『スキーをやれ』と北陸から長野に回って、
人生で1回だけスキーをしたのである。
こどもの頃は朝鮮にいてずっとスケートはやってたし、スキーらしきこともやってたので、ちゃんと滑れると思ったのだが、
ホンモノのスキーは思ったより上手くいかなかったのが想い出である。


 



 結婚した翌年には長男が生まれ、
 30代半ばは、東北仙台だった。

  
  


★ 閑に任せて昭和38年(1963)の日記を読んでみた。

  結婚1年目で9月には長男が生まれている。
       生まれる前から名前を考えているのだが、男の子か女の子か解らないし、
  なかなか思い浮かばなかったのに、生まれたら直ぐに決まった。
  『古谷大治』字画なども結構ちゃんと調べたりした。

  当時、31歳なのだが3月の給料が25,000円なのである。
  そんな額でよく生活出来たなと思う。
  6月の給料が34,700円の手取りだが、10500円の残業料が入っている。
  50時間の残業なのである。

  ボーナスの評価は間違いなく最高点がついて夏のボーナスが手取り62,300だった。


 この年には発動機事業部営業企画課管理課で単車を含めて、
発動機全般の管理一切を担当していて、ホントに滅茶苦茶忙しかったのである。
前回にも書いたが、結婚して新婚旅行などとても休めるような状況ではなかったので、
結婚式も年末12月21日となってしまったのである。

同時にこの年の終わりころには、単車事業部の発動機事業部からの独立が発表されて、
私は単車の広告宣伝課担当候補に挙がっていて、
翌年は会社も個人も新しい生活が始まったのである。


★新しく出来た広告宣伝課の予算は本社開発費で3年間支給されることになって、
1億3000万円というべらぼうに大きな額を
ペイペイの私』が自らの裁量で自由に使えることになるのだが、
その初年度は7000万円しか使えなくて、
本社の専務に『お前ら金をやってもよう使わん』と怒られたりする、
そんな広告宣伝課の1年目、2年目のことなど、

 次回に纏めてみたいので、お楽しみにして下さい。

  

カワサキの単車事業のスタート時代 その2  自分史

2021-02-23 06:55:30 | 自分史

★明石工場内に「単車準備室」が開設されたのは昭和34年(1959)で、当時私はまだ財産課にいた時にお声が掛かったりしたのだが、
当時は財産課でIBMでの償却計算システムを完成すべく頑張ってた時期なのでお断りしたような経緯もあった。

翌年の昭和35年夏ごろには明石工場内に24工場も完成して、
メイハツ・ニューエースと姉妹車のカワサキ・ニューエースを1960年8月より生産したらしいが、詳しいことは解らない。

この年の10月には私自身が肺結核で療養所に入院してしまうのである。
そして翌年昭和36年(61)12月に退院し、
新しく出来たばかりの『単車営業課』に配属になったのである。

カワサキとしての初めての生産車は『125B7』と『カワサキペットM5』が1962年度初頭から生産開始にはなっていたのだが、
正式に単車営業課が出来たのは12月だったのである。


 
★この時代の特に営業関係のことなど、
 今となっては私以外に知ってる人は殆どいなくなってしまったのでは?と思う。

当時の技術部や生産関係には関係のあった方はそれなりに多かったと思うが、
単車営業』と言っても『発動機部門』の中の単車営業課なのでホントに限られていて、機能としては営業部品品証もあったのだが、
部品は正垣さんと納さんの二人、品証というかサービスは吉田さん以下3人、営業は私と女子(藤田孝昭さんの妹さん)
私の上に壱岐係長がおられただけの陣容なのである。
その上に北沢課長と小野次長がおられたのである。

私は入社4年目だったが、部品やサービスの面倒も見ていたし、
出荷や物品税は勿論、広告宣伝らしきものも業界紙対応も、
その他現在の事業本部で事務屋さんがやってることは全てやってたので、その忙しさは大変だったのである。

当初も大変だったが、慣れるに従って
守備範囲がどんどん広くなって、職制変更の度にメンバーも増えるが業務も増えて、
現役時代で『一番忙しかった』のは間違いなくこの時期なのである。



★この時期は単車事業がスタートしたばかりで事業内容は安定せず、
 世の中は『事業部制』なるものが出現した時期でもあって、
 兎に角『職制変更』が頻繁に行われ、
 その度毎に『私の担当業務』はその範囲が増大していったのである。

 よくお解りにはならないと思うが、これくらい頻繁に職制変更が行われたのである。

 昭和36年(61)12月  発動機営業部単車課単車係
 昭和37年(62)3月   単車部単車課業務係 場所も14工場に移動
          4月   発動機事業部第2営業課業務課
          11月  発動機事業部第1営業部業務課
 昭和38年(63)4月   発動機事業本部営業企画課管理課
          11月  単車事業部に発単分離 
 昭和39年(64)1月   単車事業部営業企画部広告宣伝課



この間、1962年の12月に結婚しているのだが、
結婚式の日は12月21日で、ホントはもっと早く結婚したかったのだが、
この時期は休みを取って『新婚旅行』などとても考えられなかったほど、
会社の業務が忙しかったし会議の事務局などやってたので、休むわけにはいかなかったのである。

暮れの21日なら、この年は終わりだし正月休みも含めて休んでも大丈夫だからと『会社の事情』でこんな日になっってしまったのである。
結果的には半月ほどの結婚休暇が取れてよかったのかも知れない。

仲人は私を単車営業に引っ張って頂いた『小野助治』さんが引き受けて下さったのである。

  

★ ただ単車事業の方は、昭和38年度(63)になると
 新しく125B8が上市され、これが期待以上に評判が良くて、
 放っておいてもよく売れたし、
 



  
 青野が原のモトクロスでも1位~6位独占などの成績を上げるなど、
 ようやくカワサキ単車も何となく落ち着いて、
 日本能率協会も『この事業やるべし』という結論になるのである。

 この時の決定の条件の中に『広告宣伝課を創る』というのがあって、
 それを私が担当することになるのだが、
 それまでは広告宣伝は『カワサキ自販』で担当されていて、
 それはあのフィリッピンの小野田中尉の弟さんの『小野田滋郎』さんが総務課長兼務で担当されていたのだが、
 その野田滋郎さんに私はすっかり『見込まれていて』いろんなお手伝いをやっていたのである。

 私の現役時代、『この人にはとても敵わない』と思ったのは、
 『小野田滋郎さんだけ』かも知れない。
 それくらい素晴らしかった。

 陸士出の秀才で、戦略・戦術・戦闘などの実践論を確りと教えてくれたのも小野田さんである。
 当時『お兄さんがフィリッピンで生きてるか』という情報があったのだが、
 『小野田さんのお兄さんなら間違いなく生きている』と私は信じて疑わなかったのである。

  左が小野田滋郎さん、

   



 カワサキのレースのスタートは『青野ヶ原』ということになっているが、
 B7時代に三吉一行などがMCFAJ 全日本に出場しているその仕掛け人が小野田さんなのである。
 青野が原の後、ヤマハから三橋実を引っこ抜いて、厚木にカワサキコンバッを創らせたのも小野田さんなのである。

 私の広告宣伝課担当は『小野田滋郎さんから広告宣伝を引き継ぐ形』で自然に決まったのかも知れない。
 いつの間にか『広告宣伝課を担当』することになったのである。


★ この『広告宣伝』という業務を本格的にやれたということは、
 本格的なマーケテングが学べたし、
 私のその後の人生の『差別化』に繋がったと思っている。
 『レースの世界』を経験したことも本当によかたった。
 こんな世界は、ご縁がなければとても入っていける世界ではないのである。
 その経験のいずれもが、人生を非常に豊かにしてくれたと思っている。

 そういう意味では、『無茶苦茶忙しかった』のだが、
 今となってみれば『いい想い出や経験』ばかりなのである。


   
 
 






カワサキの単車事業のスタート時代 その1  自分史

2021-02-22 07:02:23 | 自分史

★ カワサキの単車事業の明石工場での一貫生産が始まったのは昭和35年(1960)なのだが、
 その年は私は未だ業務部財産課所属だった。
 実はその年の10月から肺結核で三田療養所に入院しているのである。
 ちょうど1年程で退院できたのだが、
 10月頃の話では退院後の異動先は企画ではないかと専らの噂だったのである。

新しく単車生産一貫工場がスタートしたのは昭和35年だが、
その単車を売る単車営業課が新しく出来たのは昭和36年(1961)12月で、
ちょうど退院時期ともがっちして、その単車営業課への異動となったのである。

この単車の営業部門を新しく担当されたのが小野助治次長で、
小野さんも12月に業務部総務課から異動されたばかりで、私を指名されたのは『小野さん』だったようである。
 
小野さんとは同じ業務部所属でお互いよく知っていたし、入社以来いろいろと目を掛けて頂いていたのである。
若し小野さんの単車への異動がなければ、私の単車異動もなかったのではないかと思っている。
そういう意味では不思議なご縁である。


★単車事業がスタートしてからの5年間はこんなことがあったのだが、

●昭和35年(60) 財産課・三田療養所入院(10月)・単車一貫生産スタート       28歳
●昭和36年(61) 12月10日退院・営業部単車課に異動  29歳
●昭和37年(62) 鈴鹿サーキット開場・鈴鹿ロードレース・結婚(12月)  30歳
●昭和38年(63) 青野ヶ原モトクロス・日本能率協会調査  31歳
●昭和39年(64) 単車再建決定・広告宣伝課に異動・レースも担当  32歳

 ざっとこの5年間がどんなものだったのかを粗っぽく纏めてみる。


★新しく出来た単車営業課で、一番先に小野さんから言われたのは、
物品税を研究してくれるか』だったのである。

カワサキが一番最初に発売した125ccはこんなB7というバイクだった。
このバイクはフレームに欠陥があって、
私が営業に異動した昭和35年の年末ごろには、毎日毎日、返却が相次いでいたのである。

当時の二輪車の125cc以上には確か15.5%の物品税が掛かっていて、
掛ける時には工場をでるバイクの台数にその税率を掛ければいいのだが、
その二輪車が戻ってきて『払った物品税』を返してもらう『戻入手続き』は至極ムツカシイのである。




いろんな規定があって、『工場をでた時のまま』でないとダメで、
1台1台税務署員の立ち合い検査などもあって、例えばメーターが回っていたらダメなのである。

だから製造部の人たちとメーターの巻き戻しなどもやったりしていたのだが、
返却される台数が半端ではなく、出荷台数より返却台数の方が多かったりしたのである。

 こんな状態で、販売するより『返却台数』の処理が仕事の殆どと言っていい
大変な営業課だったのである。



★ 当時はカワサキ自動車販売という会社が東京の神田岩本町にあって、
そのカワサキ自販の社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、
明石工場のTOPよりはずっと偉かったし、
更にその『カワサキ自販』からは全国の『自前の代理店』への卸なのだが、
自前の代理店の社長さんはまさに『お客様』だからめちゃエライのである。

明石工場は『カワサキ自販』からはボロカスに言われるし、
それ以上に地方の代理店の社長はうるさい存在で、大変だった時代なのである。
今の『メーカの人たち』は末端の販社が子会社だから、
根元のメーカーの方がエライような関係になってるので、
こんな時代のことを言っても理解して貰えないと思うのだが、
ホントはこんな形の方がいいのかも知れない。
そんなメーカーの営業課の窓口担当が私のスタートなのである。


★さらに、最初に発売したB7が散々な状態だったから、単車事業の経営状況は大赤字で、
当時の川崎航空機本社は『この事業を続けるべきかどうか』を日本能率協会に調査依頼をしていたのが、昭和37年から38年にかけての時代だったのである。

その昭和37年(1962)には鈴鹿サーキットが開場して、
日本で初めての本格的なロードレースが開催され、そのレースを単車製造部の人たちがバスを仕立てて見学に行ったのだが、
レースなるものを初めて見て燃え上がってしまったのである。
 
そのグループはカワサキの中でも最も血気盛んだった中村治道・髙橋鐵郎さんたちで、
レースを観たあと『カワサキも』とモトクロスレース出場を目指すのだが、
この一連のことを仕掛けた張本人兵庫メグロの西海義治社長
 西海さんは元オートレースのプロライダーでレースには詳しく、
後には兵庫県のMFJの会長などもされたのだが、
この写真はずっと後の神鍋で行われたMFJ全日本モトクロスの時の写真なのである。

  
       

 
 
 その西海さんが、実際にはバスを仕立てて
 『カワサキもモトクロスを』という雰囲気を盛り上げ
 カワサキの中にはレースのことなど解る人はいなかったので、
 兵庫メグロの子飼いの『松尾勇さん』を製造部に送りこみ
 モトクロッサーは全て『松尾勇・作』なのである。


そして昭和38年の青野ヶ原モトクロス1位~6位独占という快挙に繋がるのである。


  


  
こんな結果が事業部内の雰囲気を高め、日本能率協会は『末端の意気は盛ん
と感じて『この事業やるべし』という結論を出す一つのきっかけになったのは確かなのである。


 この写真の後列の真ん中の大きな方が『小野助治』さんである。
 このレース出場は、会社が正規に認めたものではなかったので、
 製造部のこのレースに関わった人たちは、定時後自主的に集まってレーサー制作などに当たったのである。
 
勿論、残業料なども出なかったので、小野さんが私に営業の経費から『なにがしか都合してやれ』と言われて幾らかの『パン代』ぐらいのお金を私が都合したので、何かレースらしきことをやってるということだけは知っていたのである。


★ そんなこともあって、昭和39年(1964)度には
 日本能率協会の『この事業続けるべし』との結論から『単車事業再建』が決定され、
 その条件の一つになっていた『広告宣伝課を創るべし』ということから、
 私は川崎航空機で初めて出来た『広告宣伝』を担当することになり、
 レースも含めて『はじめての仕事』を担当することになったのである。


 この5年間には結婚もしているし長男も生まれている。
 今回はざっとこの5年間を総括したのだが、
 この時以降一生のお付き合いとなった単車事業や家内のことなど、
 シリーズで別途取り上げてみたいと思っている。

 まずは『その1』である。

  
 
 

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 8

2021-02-19 07:32:28 | 自分史

★ この時期が1回目の国内出向の10年間だった。
 現役時代国内販社と親会社の間を往復していたのだが、川重に戻った時は営業第1線で得たノウハウを単車事業部が必要としたときに戻ったりしているので、
何となく自分では『逆出向』のような感じも持っている。

その1回目の国内販社出向の10年間は、自分にとっても初めての経験ばかりだったのだが、ホントに末端の第1線を経験したことは、普通ではなかなか経験のできない貴重なものだったような気がする。

中でも『人との出会い』が貴重な経験で、
大会社の従業員でない代理店の方たちや販売店の人たちと密接に繋がって、
一緒にいろんなことが出来たのはよかったなと思っている。

人は歳を取るにつれて成長する』というのだが、ホントかな?と思ったりもする。
 
特約店候補の人たちも、それを推進した所員も、私自身もみんな若かった。
若かったから』思い切って世の中で初めてのことだったのだが、推進できたのではと思ったりもする。

 
★このカワ販出向期間の10年改めて振り返ってみる。

● 昭和40年(65) カワ販出向・山本隆ジュニアロードレース
● 昭和41年(66) カワサキ日本GP初出場・藤井敏雄マン島事故死
● 昭和42年(67) 仙台事務所長・東北6県代理店営業
● 昭和43年(68) マッハⅢ発売 カワサキ中・大型車分野へ本格的に
● 昭和44年(69) 川崎重工業・川崎車両・川崎航空機3社合併
● 昭和45年(70) 三木市に土地購入、10月に大阪母店長に
● 昭和46年(71) 大阪カワサキ共栄会設立
● 昭和47年(72) アメリカ視察団、特約店構想、中日本営業部長、
● 昭和48年(73) 直営部長、 東名阪 特約店制実施、三木市転入
● 昭和49年(74) 管理部長(本社異動)、特約店制全国推進
● 昭和50年(75) 10月川重単車企画室企画部復帰、

 ざっとこんな10年だった。
 明石での広告宣伝課でレースも担当、仙台に白紙から事務所を創っての代理店営業は初めての営業経験だった。
4年間のうち、あとの2年は北海道も担当だったが、流石に広すぎて北海道には2度しか行けなかった。


  


   
その間の3社合併やカワサキ二輪事業の中大型スポーツ分野への転身に伴っての大阪への異動は文字通りの第1線の初体験だった。
 大阪でのカワサキ共栄会の設立から、特約店構想さらにその推進と目まぐるしく動いた。
 
 直営部長時代のテリトリーである。
 広かったが結構現地に行っている。



 


その間個人的には三木の土地購入。三木市への転入などあって、明石本社への異動し、全国の特約店制推進の旗を振った。
1975年には全国特約店制がほぼ完成して、10月に10年ぶりに川重復帰。



 殆ど家のことは家内任せで放っておいたのだが、
 子どもたちは小学生時代、息子は4年生ぐらいからサッカーを始めて、
 小学校5年生ではオール三木で兵庫県優勝、
 6年生では兵庫選抜で全国大会にも出場し優秀選手になったりしたので、
 川重復帰して息子も中学生になってからは、そのサッカーを観るのも楽しみだった。

 兎に角、ガムシャラニ精一杯生きた「10年の出向期間」だった。

 
 


カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 7   

2021-02-17 06:12:43 | 自分史

★1970年代後半の『カワサキ特約店構想』について書いてきたが、
その中には『二輪車新聞の衛藤誠さんの記事』を引用もさせて頂いたのだが、

衛藤さんは 二輪車新聞 の創刊号から関わっておられるベテラン記者なのである。

 二輪車新聞のネットのホームページの中にも衛藤さんの『創刊号作り』の話なども載っている。


  




衛藤誠さんとは、昭和36年川崎航空機に単車営業部が出来た最初の頃からのお付き合いだったが、昨年まで現役記者で活動されていたのである。

この時代の大阪特約店の記事は、衛藤さんにとっても懐かしい想い出なのだと思う。

そこには非常に詳しく当時の取材記事から書かれているので、
ご紹介しながら、私の感想を述べてみたい。
●印の文章が『私のコメント』である。










 
★まずは『カワサキ販売網づくりの今昔(1)』はこのように始まっている。


これは、これまでの“実用車のカワサキ”から脱皮し、“中・大型スポーツ車”を中心とする販売展開を目指すため、新しい販売方式を模索しての動きであり、特に東京・大阪・名古屋など大都市市場で見られてきた。
既にこの前年、70年(昭和45年)には東京で、中・大型機種の販売を指向する販売店約50店による「東京カワサキ会」が結成された。

これに触発された大阪でも、カワサキオートバイ販売大阪母店(近畿地区を統括)大阪営業所が1月、府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長が“中・大型機種を指向する販売店の組織化”を相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。

この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を示し「この早急な実施を図りたい」との話。
そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。

ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の荢野豊秋専務から“大目玉”。
荢野専務曰く「現在、全国にカワサキ車を販売してくれている販売店は1000店以上ある。この販売店は、何の前触れもなくこの記事がいきなり舞い込んできたら何とする。販売店の今後の経営方針にも大きく影響するばかりか、カワサキの今後の営業活動にも大きく支障が出る」というような主旨のお叱りの言葉を約3時間。私は荢野専務のお叱りは“ごもっとも”と思い、大いに反省させられた。


● 衛藤さんはこのように書かれているのだが、確かに本社サイドの決済など受けずに、取材に応じたというか、『取材をお願いした』のは間違いないのだが、当時の大阪市場での『カワサキ』が新販売網政策を展開し、その実現を目指すにはこれくらい迫力のあることをやらないとダメだったのである。
 強烈な反応があったということは、目的は達成できたということだと思う。
 衛藤さんは『反省』と言っておられるが、私は全く『反省などしていない
私の性格テストの中で一番強烈に出る欠点は『反省しない』ということなのである。



ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。
「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。
私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。
これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段であり、物事の実現には大きな“追い風”になります。
もちろん、これには多くの人たちを納得させる正当性がある限りです」とのこと。全く恐れいりました。


●衛藤誠さんとは、カワサキの二輪事業のスタート時点からお付き合いがあり、現役時代私はホントにいろいろとお世話になったが、この時期のカワサキの特約店政策が順調に推移したのも、この二輪車新聞の記事が大いに寄与したのは間違いないのである。
そして、『その2』はこのように続いている。






古谷氏の狙い通り、事はトントン拍子に進み、「半年あれば物事はある程度の現実をみる」とおっしゃる通り、この年の5月には大阪府下の主要な販売店25店が参加して「大阪カワサキ共栄会」の結成総会にこぎつけ、カワサキオートバイ販売から田中誠社長の出席もみた。

名称の「大阪カワサキ共栄会」は、その文字通り“カワサキとその販売店が共に栄える”という願いを込めたもの。また、その会長には船場モータースの岡田博社長が就任した。
さらに5カ月後の10月には、同共栄会の2回目の会合が開かれ、東京カワサキ会から北多摩モータース、城東カワサキの両社の社長さんも来賓で出席し、東京の組織活動などの情報を話し、相互に意見交換を行った。
このあと、カワ販大阪営業所は、カワサキ共栄会メンバーを軸とした販売強化策を展開して、府下の販売店のうち約500店もの販売店との取引中止を実施した。

同時に「カワサキ特約店制度の基本構想」の検討にも着手した。
これにはカワ販本社の田中社長も大阪の展開に強い関心を示し、その取り組みを側面から支援したこともテンポを早める要因になったようである。
おりしもカワサキは、この年(71年)、“二輪車事業10周年” を記念して、全国的な「二輪車事業10周年記念セール」を展開し、このセール成約の優良店100店を“KMC&米国市場視察旅行”に招待することにした。

このセールの主催は全国カワサキ会(小野寺和夫会長)。この会は、全国のカワサキ代理店組織で、カワ販の各地区母店もこのメンバーに含まれており、大阪母店長の古谷氏は同会の副会長に就任していた。

「米国視察旅行」は、72年(昭和47年)1月8日から15日までの7泊8日で、KMC(カリフォルニア)とサンフランシスコなど西海岸の旅で、参加した100店のうち、約50店は東京地区、残る50店が大阪をはじめとする関西と、名古屋地区の販売店であった。この帰国直後には、京都カワサキ共栄会も結成をみた。

● このアメリカ市場視察団は、全国カワサキ会が主催したもので、私自身の発案なのである。
当時のアメリカ市場の販売網がどのようなものなのか?
今後、国内市場で『二輪専門店網』を確立するためには先進市場のアメリカを是非観たいと思ったのである。
この時代未だ『海外旅行』など一般にはなかった時代で、二輪業界では勿論初めてのことだった。参加した国内100社はアメリカ市場を見て『洗脳』されたと思うし、東京を中心に、大阪・京都・名古屋などから参加した人たちは、
一気に燃え上がったとと言っていい。
私はこの視察団の団長を務めたのである。


このあと、4月にはカワサキ本社に東京・大阪・名古屋地区を統括する直営部が社長直轄として設けられ、直営部長に大阪母店長から古谷錬太郎氏が赴いた。
前年から検討されていた「カワサキ特約店制度」の構想も急ピッチで進み、8月中にはその概要がまとまり、二輪車新聞の8月31日付けに掲載。
9月8日、大阪の厚生年金会館で、この正式な発表説明会を開いた。
まずは直営部管内の東京・大阪・名古屋地区で先行することにして、正式なスタートは72年10月1日からだった。

契約第1号は、説明会を行った翌日の9月9日、大阪の船場モータースで、しかも船場モータースの岡田博社長は自店の契約だけでなく、東・名・阪各地で契約促進をバックアップした。

さらに翌年の73年9月からは、この「カワサキ特約店制度」を全国的に導入することになり、首都圏全域や広島、福岡などで積極的な活動が展開された。
これには、東京・大阪・名古屋地区で特約店契約を結んでいた販売店も積極的な協力を行ったという。
また、当時のカワサキは“ZⅡ”をはじめとする中・大型車の販売が好調で、これも特約店契約促進の追い風になったようである。



カワサキが現在取り組んでいる新しい販売網政策の「カワサキ・ネットワーク」と、46年前に取り組んだ「カワサキ特約店制度」は、新しい販売網を構築しようという狙いは共通している。しかし、唯一異なる点を挙げると、現在進めている制度は、寺西猛社長、清水泰博取締役を中心に、本社で綿密な計画を練り、これを全国展開している点で、

46年前の制度は、販売店の声などを汲み入れる形で地域の営業所長などが考え、これを可能な地域から全国的に拡大しようとした点だと思われる。

この差異は、混沌とした46年前の二輪車市場と、すでに成熟しきっている現在の二輪車市場という、全く異なる時代的な背景がもたらすものだと思う。


● この衛藤さんの原稿は2017年に書かれたものであり、
現在も進行中の『新しいカワサキの販売網政策』との比較が行われているのだが、時代も違うのだが最も異なる点を挙げるなら、
 現在の『カワサキネットワーク』はホンダさんも殆ど同じような政策を採られているのだが、
 1970年後半の『カワサキ特約店制度』は二輪業界でカワサキだけが先駆けてその『先頭を走った』ということだろう。

私自身は常に『二輪業界に貢献』ということがベースにあって、この時点の特約店制もそうだが、
カワサキ専門店システム』ではなくて、他メーカー車の販売OKなのである。
なぜ今は、各メーカーオンリー制に走るのだろうか?
末端のユーザーにとってみると、いろんなメーカーのクルマがある方がいい筈だと思う。
ずっと後、創ったユーザークラブKAZEも、その基本コンセプトは、
カワサキだけのユーザーのものではなくて、for Everybodyなのである。

 
 
 



カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 6

2021-02-16 06:56:36 | 自分史

★ このカワ販出向中の10年間、個人的にもいろいろなことがあったが、
 子どもたちはまだ小学生時代なのである。
 この間の住所は 明石ー仙台ー高槻ー三木 と移っている。
 
 何と言っても『三木に土地を買って家を建てた』というのが、個人的には最も大きな出来事だっただろう。
 当時、誰しもが自分の土地を買って家を建てようという機運にあった世の中であったことは間違いない。
 ただ私の場合は、仙台から明石に出張しているときに突如話が出て、
 出張中に独断で決めてしまっているのである。
 なぜそうなったのか?
 大体のことは覚えているが、当時の日記を読み返してみた。

 昭和45年(1970)6月12日に、かって広告宣伝課時代に付き合いのあった田中さん大和ハウスに移っていて
廣野にいい土地があるから』というのである。
 翌日には現地を見て『6月14日には予約書にサイン』をしている。

土地という大きな買い物なのにあまりにも簡単に決め過ぎるきらいがあ』と日記には書いているがその通りなのである。


★ 大体、何でもこんな調子で『決断は早い
 『いいと思ったこと』は直ぐ決めてしまう。

 それは『人を信じる』というのがその根底にある。
 田中さんは広告宣伝課時代には印刷屋さんに勤めていたのだが『いい奴』だった。
 大和ハウスに転勤して三木に開拓中の土地を川重の明石工場人たちに売り込んでいるのだが、なかなか決まらないという。
そこに私が出張で戻ってきたものだから『いい土地だから買ってくれ』というのである。
 
現地を見たら、廣野ゴルフ倶楽部の前の広大な土地なのだが、
まだ造成中で土地の地肌だけが見えるだけで、
家の場所さえ解らなかったのだが、細部は全て田中さんに任して『サインした』のである。

信じる者』と書いて『儲かる』という。
信じる者』は『儲かるように出来ている』と何となくそう信じている。

 当時直接担当した『大阪の特約店制』なども25店の販売店を信じて、
 500店の自転車屋さんを切ってしまったのである。


★ いま住んでいる三木はこんな立地なのである。
 今は周辺も開拓されているのだが、
 当時は明石からはずっと奥の田舎だったのである。

 

 
 三木に住んでもう50年近くになるのだが『よかった』と思っている。
 
 当時の給料や物価は年々20%以上も上昇している時代で、  
 三木の土地は75坪を280万円で買ったのだが、
 土地も給料もどんどん上がって実際に家を建てた4年後の1973年の春ごろには、
 私の給料も土地の値段も2倍ぐらいになっていたのである。

 そんな私の『やり方』を見て周囲の人は、
 『そんなになることを読んでいたのか?』と言われるのだが、
 そんなことはなくて、ただ『田中さんの言うこと』を『信じた』だけなのである。


★ホントに『人を信じる』のである。
 大阪・京都・名古屋の3地区でスタートしたカワサキの特約店制なのだが、
 京都の所長をしていたのが『藤田孝昭』くんで、
 彼は川崎航空機入社の同期で野球部で私と三遊間を組み、1・2番を打った球友でもある。
 
京都営業所を任すときに『すべて自由にやれ』と言ったこともあったのだが、
突出して『徹底的に進めた』のが『京都営業所』なのである。
当時の京都営業所はオモシロいメンバーが揃っていて、
久後淳一郎・関初太郎・柏原久・吉川健一など今でもお付き合いのある人たちがいたのだが、
京都府は京都市内の9店と宇治カワサキの10店だけに絞ってのスタートだったのである。

ホントに10店だけで大丈夫かなと思ったが、当時の京都営業所の経営実績は抜群だったのである。
 
 『信じる者』というのは本当に『儲かる』のである。

 これは吉田純一さんの受賞のお祝いに集まったメンバーだが、
 右から二人目が『藤田孝昭』くんである。

 

 
 このメンバーもそうだが、お付き合いのあった方、
 みんな立派になられるのである。

  
 これは 会が始まる前だが、
 藤田くんもいるし、一番右が柏原久くんである。
 明石カワサキも和歌山の阿部ちゃんもいる。
 みんな当時の仲間たちである。

 一番左は村島政彦さんなのだが、昨日はFacebookのこの写真に、当時の出会いのコメントなど頂いたのである。

 

 

 同じ会だが、受賞者の吉田純ちゃんを囲んで一番右が関初太郎くんである。

 



★ 『カワサキ特約店制』に没頭していた1970年代後半だが、
 それから50年近く経つた今も、Facebookなどでは毎日のように繋がっているのは、

 みんな『信じ会えた仲間たち』だったからだと思う。
 いまお会いしても昔と同じように話ができる。

 人生、長く生きてきたが『人を信じて』生きていると
 本当に『いいことばかり』なのである。
 そういう意味では『バカみたいな性善説者』で、
 世の中でお付き合いした人たちは、みんな『いい人ばかりだ』と信じて生きてきたし、
 今後も間違いなく『そう生きる』と思っている。