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雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私のアーカイブス・定年後  その6

2021-12-05 07:07:34 | 自分史

2006年という73歳になったこの年は私の定年後の生活が一変した年だと言えるだろう。

この年の9月6日からこのブログ・雑感日記はスタートしているのである。
定年後に「パソコン」に出会ったのが2001年だから5年ほど経っているのだが、
それまでは「パンダ碁」などを楽しむか、ネット散策をやるくらいで、
自ら発信などはしなかったのである。

★この年に新しく藪本吉秀さんが三木市長に当選されて、
 それまでは三木の市政などには全く関心もなく、
 市長の名前も知らないくらいだったので、選挙にも行っていないのだが、
 この新人の藪本吉秀さんの選挙運動の手段広報的に面白かったので、
 ちょっと関心が出来て、メールが打てるようになったものだから、
 三木の市政に関して「市長メール」を打ち出したのである。
 
 やりかけると、一般の方とは全く差別化されていて、
 50通近い提言を続けてやったら、それを市長は受け入れて頂いて、
 市役所で実際に面談するようなことにもなったのである。
 いろんな提言をしているのだが

 「日本一美しいまちをめざそう」がその最たるもので、


 



 翌年の三木市総合計画の中で設定され、今も生きているのである。






★ 私がこのような提言をしたのは
 兵庫県は永年「美しい兵庫」を目指していて、
 その推進委員会もあるのだが、
 兵庫県の各市でそれをフォローしているところがないものだから、

 

 
 兵庫県の職員から三木市長になられた藪本さんは
 是非「美しい三木」の実現を目標にと申し上げたのである。
 

★そんな三木市への提言を考えるために、
 日本のいろんな市のホームページなどを見ていたのだが、
 ひときわ特徴のあった市が「高槻市」で
 そのホームページには「こちら部長室」というユニークなコラムがあって 
 それを主宰されていたのは総務省から高槻市に出向されていた、
 市長公室長の樋渡啓祐さんだったのである。

 その中に樋渡さんの書かれた「ブログ・ブログ・ブログ」というのがあって、
 これに非常に興味・関心をもって調べてみたら
 当時はまだ「ブログ」など発信されている方は極く限られていて、
 政治家では自民党の広報本部長だった世耕弘成さんぐらいで、
 世耕さんはボストン大学でを学ばれているし、
 樋渡さん広報には特に関心があるようなので、
 広報には特に関心のある私も「ブログ」なるものをやってみるかと、
 その年の9月6日にこのブログ雑感日記を立ち上げて
 その最初に取り上げたテーマは「美しい」なのである。
 


★そんなことで始めた私の「ブログ」なのだが
 樋渡啓祐さんとは面識もなく、
 ただ高槻市のホームぺージで、出会っただけなのである。
 今は樋渡さんは超有名人のお一人だが、
 当時は特に名前が売れていたわけでもなく、
 私が勝手に「この人はオモシロい」と気に入っただけなのである。

 そんなことで始めた私のブログの11月20日に
 「市長公室長樋渡啓祐さんのこと」というこんなブログをアップしたのだが


そのブログに当のご本人の樋渡啓祐さんからこんな「コメント」が入ったのである。


感謝 (樋渡啓祐)2006-11-24 22:11:26
文中の前・高槻市市長公室長の樋渡啓祐です。
今日、グーグルの配信メールで、「雑感日記」のことを知りました。
私も、挙げていただいた二つの記事は今でもお気に入りですし、
今では市長という立場から、同僚職員に同じことを伝達しています。
そのためには自分自身が書いた記事そのものでなければならず、自戒しながら頑張っております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。 


コメントなども初めてのことで、舞い上がってしまって返事も打てていないのである。

 総務省にお帰りになったとばかり思っていた樋渡さんは、
 その年から佐賀県武雄市の市長になっておられたのである。


★そんなことから、この年定初めて出会ったお二人が、
 奇しくも三木と武雄の市長さんで、
 この年から始めたブログとともに私の定年後の生活が一変するのである。

 その後も樋渡さんとはブログの中でお互い繋がって、
 三木市と武雄市も繋がったりして、
 翌年5月21日、三木市に来られた樋渡啓祐さんと直接お会いしたりしているのである。

 これはその頃、樋渡さんが書かれていたブログの中の写真で、
 15年も前のことだから、
 樋渡さんもまだまだお若かった「日本一若い市長」の頃なのである。
 
  

 
 私にとってはまだ有名人でもなかった頃の「樋渡啓祐」さんを
 この年、自分の目で見つけ出したのが自慢なのである。
 それ以上に「樋渡さんのお陰」で始めたブログも15年続いていて、

 その閲覧数や訪問数は1000万単位100万単位になっていて

 「トータル閲覧数=12774766PV」延べ1277万人がご覧になり
 「トータル訪問数=3577278UU357万人が訪れているのである。

 これは自分でもびっくりする信じられないような数字だが
 ネットの世界は勝手にこのようにちゃんと記録してくれて、
 毎日その数を教えてくれるのである。


★人生ではいろんな方との出会いがあるのだが、
 樋渡啓祐さんとの出会いが一番劇的で、
 この出会いのお陰で私の73歳以降の人生はそれまでとは
 異質の世界で、且つ充実したものになったのは間違いないのである。
 2006年はそんな節目になった忘れられない1年だったのである。
 
 
 

  



私のアーカイブス・定年後  その5

2021-12-01 06:48:38 | 自分史

★ 私の定年後の生活も5年以上にもなるのだが、
 72歳までの2005年までは社会の中での新しい方とのお付き合いは全くなくて、
 現役時代の延長がずっと続いていて日記を読み返してみても、
 「新しい名前」は全く出てこないのである。

 敢えて言えば、社会の方と接触があったのは、廣野ゴルフクラブの理事長さんだけで、
 それも手紙だけだからお会いしたわけでもないのである。
 この頃のお付き合いの相手はもっぱら娘のほうの孫たちだったのだが、
 その娘家族も2004年の7月末からはアメリカに移住してしまうのである。

 この時期に娘婿が勤めていたノーリツのアメリカ進出があって、
 娘婿はノーリツで日本人最初のアメリカ勤務で、
 会社自体も初めてのアメリカ市場であったことから、
 カワサキのKMCを紹介していろいろと教えて貰ったリしたのである。

 ノーリツとは不思議なご縁で、ノーリツの創始者の太田敏郎さんは、
海軍兵学校時代の厳しい訓練後の入浴で心を癒した経験から「お風呂は人を幸せにする」という理念の持ち主で、こんな自叙伝も書かれているのだが、

  

  
 海兵時代はカワサキの私の長年の上司・高橋鐵郎さんとは同期だし、
 弟の太田武郎さんは、私の大学野球部の2年上のキャプテンで、
 一緒に野球をした仲間というご縁だったのである。

 そんなノーリツのカワサキへの紹介から2004年は始まっているのである。


★ 2004年、2005年の2年間の日記に出てくるのは
 ● トム・ラブという2匹の柴犬
 ● 水泳・ストレッチなどの運動、ひざも腰もすっかり良くなって
 ● 体重・体脂肪率の出る体重計を初めて買っている、体重は76kg
 ● 鯉や池のポンプの話、まだ鯉を飼っている
 ● 薔薇の栽培を始めて何年目かだが、薔薇に一生懸命である
 ● 娘一家はアメリカに、大阪勤務だった息子一家は横浜に
 ● 孫・古谷仁は2005年に中学に入学
 ● 春にはJR西日本の大事故、阪神タイガースがまた優勝している

 そんな項目が並んでいるのだが
 「パソコン関連」では「パンダ碁」に一生懸命でほんの短い間だが「2段」で打ったりしている。
 因みに現在は「2級」だが「1級」に上がったりはするが「初段」は遠くなってしまった。
 「考える」のが面倒になってしまっているのである。
 「メール」が打てるようにはなっていて、初めて「デジカメ」を買っている。
 カメラを自分で持ったのは、この時が初めてだと思う。
 何故それまで持たなかったのかというと
 フィルムを買う・写す・現像する・アルバムに貼るなどの手続きが面倒で、 
 多分この時は「カメラのパソコン処理」を娘婿に教えて貰ったのだと思う。

★ ゴルフはまだ一生懸命で、練習にも行ってるし、クラブも新しいのをよく買ったりしている。
 今も続いている大槻幸雄さんが会長の「Z1会」に入会したのが2004年の9月で、翌年の4月に優勝などしている。

   

 
 まだこの時代は40台が普通に出ていて、
 この時の優勝スコアは44・46だが
 Z1会の初出場は、42・45だったし日記を見ると
 44・42,40・42,など流石に30台は出ていないが
 40台前半は普通だったのである。
 今こんなスコアならみんな「エイジ・シュート」なのだが、
 衰えてはいないと自分では思っているが、やはり歳は歳なのかも知れない。
 まだゴルフがやれてるのが「いい」としなければならないのかも。
  

★今よく走りに行っている
 三木綜合防災公園が完成したのが2005年8月なのである。

 
 
 
 三木にある沢山の公園も1990年代から順次作られていて
 「三木山一帯」が開発されたのも1990年の野球場から始まって
 新しい市役所三木山森林公園が1993年、
 三木山総合公園としてプールなどが出来たのが、1996年なのである。

 定年後、プールに行ったり、公園の散歩なども始めているのだが、
 そんな時代にこのような施設が出来て、
 私の「定年後の生活」を支えてくれているのである。

 2005年・72歳までの定年後の生活はこんなことだったのだが、
 2006年・73歳からはそれまでとは一転した「新しい生活」が始まるのである。
 
 
 

 


私のアーカイブス・定年後  その4

2021-11-27 06:51:28 | 自分史

2003年に70歳になった。
 わが家系は祖母は101歳、母は103歳まで長生きしたのだが、
 祖父は私が生まれたときにはもうこの世にはいなかったし、
 父も伯父も50歳代で亡くなって「男は早く死ぬ」と思っていたので、
 70歳になったときは、「不思議だな」と思ったのである。

 それが今88歳でも元気なので、これは祖母と母のDNAのお陰だと思っている。
 そんな70歳代の始まりである。


★この年には孫の門野真也が小学校に入学している。
魚や昆虫が好きで、魚とりやカブトムシ採りにしょっちゅう付き合わされているのである。

 「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので
 カブトムシなどこんなに沢山採ってきていたのである。

  

 
  
 カブトムシは或る公園のある1本の樹に、なぜか群がっているのである。
 そんな樹さえ見つければ、行くたびに何匹でも取れるものである。
 
 そんな孫たちの遊び相手にも時間を割いているのだが、
 長男の力也と真也がサッカー教室に入っているのだが、
 力也は兎も角、「真也は運動はダメ」と日記に書いている。
 サッカーよりは虫取りに興味があったようだし、こんなに太っていて

 


 リフテイングも「5回出来た」と喜んでた時代である。


★この年よく覚えている出来事があった。
 私は今は、ブログなど毎日世に発信をしているのだが、
 若いころから日記も書き、現役時代は基本方針などみんな文章にして書いて残していたのだが、世の中一般の外に向かっては投書などは勿論一切自分の意見など言ったことはなかったである。

 廣野ゴルフ倶楽部はこんな立地で神鉄緑ヶ丘駅のすぐ前で、
 公道にこんなに長く接しているのである。
 私はこの横を通って毎日明石まで車で通っていたのである。




 廣野ゴルフ場は何度かプレーもさして頂いていて、それは見事というほど綺麗なのだが、
 当時はこの道に面した部分は草茫々で、お世辞にも綺麗とはいえる状況ではなかったのである。
 会社に通っている時代からずっと「何とか綺麗にならないかな」と思ってはいたのだが、それは言い出せないままに何十年も経っていたのである。

 外に対して意見など言ったこともなかったし、
運動部育ちは、年上の人に例え正論であろうとも意見するなどは考えなれなかったのである。
永年の思いをやっとこの年に「70歳になったし、思い切って言ってみるか」と
この年の5月に廣野ゴルフ倶楽部の理事長さんあてに1通の手紙を書いたのである。

公道に面している部分は、社会と繋がっていると言えます。
 社会的地位の高い方がメンバーの廣野ゴルフ倶楽部ですから、
 そこに接する社会の人たちに嫌な思いをさせるべきではないと思います。」と思い切って書いてみたのだが、
 理事長さんからは非常にご丁寧なご返事を頂いて、即刻草は刈られたのである。

 以来20年の月日が流れているのだが、毎年何回か整備をされて、
 今のような状態が保たれているのである。

 この一件は「外には意見を言わない」態度を変えさせたのである。
 ちゃんと発信すればちゃんと対応して頂けるということが解って、
 大げさに言えば、その後の「私の人生が変わった」そんな出来事だったのである。
 そういう意味で、廣野の理事長さんに感謝なのである。


★ そんなこともあった「私の70歳」ではあるが、
 パソコンでの「パンダ碁」を始めたのもこの年だし、
 今も続いている「薔薇」に興味・関心を持ち出したのもこの頃なのである。

 日記を読み返してみると
 飼っていた犬のトム・ラブのトムのほうがちょっと調子が悪くなってる。
 息子と沼島に鱧釣りにも出かけたりもしている。
 この年阪神タイガース星野監督優勝をしている。
 野手では、今岡・赤星・金本・桧山・矢野・藤本など。
 井川がエースで、下柳藤川など懐かしい名前が並んでいる

 娘婿が勤めていたノーリツのアメリカ市場進出が決まって、
 12月には娘婿はアメリカに出張しているし、
 年末の12月30日には単身アメリカに滞在が始まっているのである。

 70歳、ある意味定年後の新しい生活スタイルが始まった年だとも言える。


 



私のアーカイブス・定年後  その3

2021-11-24 06:47:40 | 自分史

★2001年が定年後3年目なのだが、68歳でもう60歳台も最後の2年間である。
北海道川重建機の顧問期間も5月末で終わって、
6月からは「年金」だけの「定年後の生活」が始まっている。

7月8日に突然娘婿の門野匡秀がやってきて「パソコンを買ってくれ」というのである。
何か会社で一括して買ったようだが余ったのでということだったと思う。
富士通のパソコンだったのだが、どんな形だったのかも定かには覚えていない。価格は18万円だったのだが、安かったのかどうかもよく解らない。

それまではパソコンなど全く「無縁の存在」だったのである。
パソコンも携帯電話も普通に使われていた時代なのだが、
私は現役時代は一切関係なく過ごしてきたので、これがパソコンとの全く初めての出会いだったのである。

パソコンに堪能な方と二人でやってきて、セッテングなど全部してくれたのである。
Nifty が何なのか、未だによく解らないが、
ユーザー名もメールアドレスもその時設定してくれたままで、
私のメールアドレスは「・・・・nifty.com」なのである。
パスワードは結構ムツカシイのだが、その時その方が作ってくれたものを今でもそのまま使っている。




 
 どんなパソコンだったのかも記憶にないのだが、
 1998年代のパソコンの写真はこんな感じなので、
 この写真の左のものに近かったのではと思っている。

 そんなことから、突然私の「パソコン生活」が始まるのだが、
 独学で、本など買ってきて結構一生懸命勉強していて、
 「パソコン漬け」の生活が始まっているのである。
 1か月後の日記には「パソコンだんだん解ってきた」とあるし、
 10月にはExciteの表も作っているが、今はそんな表は作ることもないので、
 その作り方などはすっかり忘れてしまっている。

 然し、このパソコンの出現はその後の私の生活の基盤になっていて、
 若し、あの時娘婿がパソコンを持ってこなかったら、多分自分でパソコンなどの世界には入っていなかっただろうと思うし、
 そういう意味では娘婿に感謝なのである。

 だからこの時期の最大の話題は「パソコン」なのである。


★2001年には「アメリカ同時多発テロ事件」が発生している。
 それはこの年の9月11日のことなのである。

 

 
 これは今でも鮮明に覚えている。

    そんな大事件のあった年ではあるが、
 私の当時の生活はまことにのんびりしていて、
 水泳に行ったり、犬の散歩をしたり、庭木の剪定など静かに始まっている。

 なぜか鋏を使うのは好きで、庭木の剪定などは自分でやろうと思っていた。
 だから、将来高い梯子に上らなくても剪定ができるようにと、
 立派な背の高い木の天を思い切って切ってしまったりしているのである。
 このあたりが私らしくて、「思ったらすぐ実行」なのだが、
 今思うと「よく思い切って切ったな」と思う。
 背が高く立派に育っていたのだが、その3分の1ほどを切ってしまったのである。

 そんな判断のお陰で、それから約20年経って今はこんな状態で
 何とか「見られる」ようにはなっているし、
 高い梯子に上らなくても剪定ができるので「正解だった」と思っている。

 尤も、プロに頼んで剪定をしてもらえば、庭の木はもっと立派に育ったのだろうが、
 それでは自分でする「選定の楽しみ」がなくなるので、
 どちらがいいのかは、大げさに言えば「生き方の問題」だろう。

 


 高い梯子は必要ないので、88歳の今も庭木の剪定は大丈夫なのである。


★家もずっと永年手入れもせずに放っておいたので、トイレも直したし、床の張替えなどもやって何とかきれいになったのである。
台所のキッチンユニットなども100万円の単位の出費ではあったが、
思い切って新調しているのである。
そんな「今後の新い生活への備え」みたいなものをやった年だったのかも知れないが、
まだ現役時代の最後のほうの、子供たちへの出費もなくなって「裕福な時代」の生活態度が抜け切れてなくて、
 今思うと「結構な出費」をあまり気にせずにやっている。

大したものではないが玄関にこんな椅子を買ったのもこの時期で、
何度か塗装をやり替えたが、もう20年も経っているのである。

 
 

 なんでも「欲しいものはすぐ買った」そんな時代だったようである。
 それから20年も経った昨今は、全く生活態度が変わってしまって、
 「大きな出費など全くしない生活」が続いている。
 不思議なほど「何も欲しくないのである」のである。

 こんなのが所謂「老後の生活」で、
 まだこの時代は「老後の生活の準備」の時代だったのかも知れない。
 

★この当時は娘の家族もまだ西神にいて、
 孫たち3人がまだ小さかったので、結構いろいろと「遊んでやっている
 水泳は殆ど孫たちと一緒だったし、
 いまよく散歩に行く三木山森林公園に虫取りの付き合いなどしたのもこの頃である。

 1月には74キロだった体重が80キロに増えてしまった年でもある。
 まだ整形外科のお世話にもなっているのだが、
 ゴルフはまだ40台の前半で回れている、そんな60歳台の終わりの2年間である。


 
 

私のアーカイブス・定年後  その2

2021-11-19 06:46:52 | 自分史

★1999年の6月まで札幌の北海道川重建機の社長を務めていたが、
 お約束通り2年間でその職を辞して三木に戻ってきた。
 
 そんなことでこの年の6月以降が私の定年以降の生活が始まったのである。
 
 これは娘のほうの次男・門野真也今はサッカーのプロ選手だが、
 まだこんなに小さかったし、家には柴犬トム・ラブがいて、
 犬の散歩が日課の一つであった。

   振り返ってみると我が家にはずっと犬がいたのだが、
 2匹いたのはこのトムとラブの時代だけである。

 

  

 それ以前には、近所に捨てられていた子犬を娘と私が拾ってきて、
 可愛がっていたのだが、ある日突然車にひかれて死んでしまったのである。
 

 これがそのコロだが、犬も若いが娘も若い。確かまだ大学生のころである。

 


 ちょうど娘の長男・門野力也が生まれた直後のことで、
 娘が悲しむものだから、産後に悪いとまずラブを買ってきたのである。
 その3日後ぐらいに、西神のそごうの犬の売り場にトムがいて可愛いいと思って、
 私が衝動買いしてきたものだから、つがいの柴犬がいたのである。

 何年かのちこんなかわいい子犬も産まれたのだが、
   これは流石に飼えなくて知人に差し上げたりしたのだが、
 血統証をつけるのに8万円ほどかかってびっくりした。

 

 
そんなことで、このトム・ラブは孫・力也と同い年で15年ほどいたのだが、
この頃は8歳ぐらいのころである。

 札幌に2年間いっていた時に三木に戻ってきたときの喜びようは、めちゃ可愛かったのである。
 そんなことで定年後の生活の中で「トム・ラブ」は結構大きなウエイトを占めていた。
 

★ このまさに定年後の始まりの時期は、私もまだ66歳で、20年以上も前のことなのだが、日記を読み返してみると
 体重は75kgで、今の体重の83kgより8kgも軽いのだが、
 運動不足で足腰が痛くて、整形外科にずっと通っている。
 整形外科の先生に「時間が出来たのだから、ストレッチでもされたほうがいい。筋肉は何歳になっても付きますよ。」
と言われてストレッチを始めたのが2000年の2月67のころである。

 毎朝の「ストレッチ」は今も続いていて、22年続いていることになる。
 お陰様で、現在は体も柔らかいし筋肉も結構ついているのだが、
 この時期はストレッチの効果はすぐには現れずに、その後も3年ほどはずっと整形外科にも通っているのだが、
 いつの間にか日記に「整形外科」が出てこなくなって、それ以来筋肉が張ることはあるのだが、ひざや腰痛とは無縁の状態が続いている。
 「ストレッチ」が効いているのだと思う。


★ 定年後と言っても、2年間は顧問料を頂いていたので、
 経済的にはこの頃が一番余裕があったのだろう。
 何にもしなくても毎月結構な額が入ってくるのである。

 そんなことで2000年にはBMWの新車を買ったりしているし、
 家内とも国内だがあちこち小旅行を楽しんでいる。

 それ以前から、私は魚が好きで、庭に池を造って鯉を買っていたのだが、
 札幌から戻って、さらに鯉に凝っている。
 日記に「鯉2匹5万円」などの記述がある。

 池にかけた費用も結構な額だったし、水を循環するポンプの電気料だけでも
 相当な額で、電気代の集金に来るおばさんがいつもびっくりしていたのである。

 

                    



 そんな鯉も2008年までいたのだが、
 この年に「鯉ヘルプス」に罹って全滅してしまったので、
 そこで諦めて池も埋めてしまったし、きれいさっぱり「」とは惜別したのである。

 


 池を埋めてしまった直後の庭はまさに埋めてしまったのだが、
 今はこんな形になっている。




 
 こんな庭の様子の変遷を見ても、生活の様変わりがよく解る。
 今でも魚は好きなので、小さな池に金魚やメダカを飼っているが、
 その出費額は鯉の時代と比べると「カワイイ」ものである。

 そんなことで、私の定年後の2年間は結構豊かな生活から始まっているのである。


★ そのころから20年以上も経って、今は88歳ということもあるのだが、
 コロナということもあって、私は殆ど金など使わない。
 毎月出ていく現金は、ジム代1000円と金魚の餌代、たまに植木を買ったりするぐらいなのだが、
 今月は、今年はじめてのゴルフもしたし、新しいパソコンも買ったので、
 結構な出費だった。

 よく考えてみるとそのほかにも毎月車のガソリン代や、ネット関連の支出もあるのだが、それらは自動引き去りされるものだから、
 「自分で使った」という意識がないのである。
 
 然し定額の年金の中で賄えているので、年金生活は悪くはないのである。
そんな「年金」だけの「年金生活」は2001年68歳から始まったのである。

 
 
 
 

私のアーカイブス・定年後  その1 

2021-11-15 07:10:00 | 自分史

★ 私のカワサキでの現役時代は「単車事業」のスタートの時期からずっと単車事業とともに歩んできたのだが、
 その現役時代は「カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス」と題して10回の連載で纏めている。

 カワサキを引退したのは64歳の時だったのだが、
 まずは80歳までの約15年間がどんなものだったのか?
 日記を読み返しながら、「私のアーカイブス・定年後」と題して、
 何回かに分けて纏めてみたいと思っていて、まずはその第1回目である。
 

★ まだ川重籍だった1997年のある日の夜、高橋鐵郎さんから家に電話があって、
 「突然だが北海道に行ってくれないか」と仰るのである。

 当時は高橋さんは川重副社長で単車と建機を担当されていたのだが、北海道は単車ではなくて建機のことなのである。

    現在は建機事業そのものを日立に移管したので社名も「北海道川崎建機」と変わっているが、当時は「北海道川重建機」という社名だったのである。


 

 

北海道川重建機」という名前から川重の子会社のように思われるかも知れぬが、実はそうではなくて自前資本の優良会社なのである。
 たまたま社長が亡くなられたことから、川重に社長派遣依頼があったようなのである。

 私は単車一筋で建機など全く経験もないのだが、若いころに東北で自前の代理店を担当した経験があったので、
自前の代理店」のことは解るだろうということでのご指名だったようである。

 確かに自前の代理店は伝統もあるし、独特の経営スタイルもあって、
 メーカーの系列代理店や販社とは全く異なった、歴然とした「独立経営企」なのである。
 
 単車事業なども世界に販売会社があってそれぞれ独立経営をしてはいるが、
 所詮はメーカー系列企業であって、独立した自前企業とは根本的に異なるのである。
 単車とは全く違う商品だし、単車の経験など殆ど役に立たないので、
 もし役立つものがあるとしたら、若い時に東北6県の代理店を担当した時の
 「代理店経営」なるものを横からだが見ていてな何となく「解っている」ことだったのである。


北海道川重建機」という名前の通り、二輪車とは全く異なる商品だし、
こんなに沢山の支店・営業所もある企業で、従業員の数も多いしなかなか大変だとは思ったが、
高橋鐵郎さんからの指名なので断るわけにはいかないのである。
そんなことで「2年間」という期間を設けて、札幌に「単身赴任」したのである。

 


 優良企業であることから役員の給料水準は高くて、専務よりちょとだけ高くして頂いたら、川重当時より高くなったりしたのである。
先方からの「社長派遣依頼」であったので、非常に気を遣って頂いて
社用車に運転手をつけましょうか」という申し出だったのだが、
それをお断りして、2800㏄の4駆のトヨタクラウンの新車を用意して頂いたのである。

 
★今更、建機車両の営業や商品のことなど覚えてみても仕方がないと思ったので、 営業内容や商品のことなどは一切覚えたりせずに、
 私自身の独特の経営ノウハウや経営管理システムを導入したのと、
 役員に比べて低かった一般従業員の給料水準を上げたりしたぐらいのことしかやらなかったのである。

北海道各地にある支店・営業所を自分で車を運転してよく回ったので、ある意味北海道旅行をしたような2年間だった。
お陰様で北海道の道は殆ど知っていると言ってもいいのである。
営業所では会食などもあって、従業員諸君とは面識もできたし、すぐ親しくなっていいお付き合いが出来たのである。
この点は二輪時代の販売店とのお付き合いのノウハウが役に立ったと思っている。

 北海道は4月の後半から10月までの約半年しかゴルフはできないのだが、
 期間が短いだけに、ゴルフにかけては熱心でその回数も多いのである。
 私の歓迎会も送別会もゴルフだったし、取引先とのゴルフの回数は多くてこの2年間に100回ぐらいのゴルフをしているのである。

 北海道独特のゴルフでアウト・インを通してやるので午前中はゴルフ場、午後からは会社で土日にゴルフなどはしなかった。
 会社に定時までいたら「社長なのになぜ定時までおられるのか」と仰るのでである。
そのあたりが自前の会社の社長の違うところで、以前の社長は幾つもの会社を兼務されていたので、実務は専務が取り仕切っていたようである。

 そんなことで私もウイークデーでも午前中はゴルフということも多かったので、
私のゴルフ人生」でもこの期間が一番充実していて、30台後半は珍しくはなかったし80台がほとんどというゴルフだったのである。


★そんな2年間だったのだが、北海道を離れてからもいろんな方たちとのお付き合いは続いたし、
会社側からも非常によくして頂いて、たった2年間の務めだったのに、更に2年間の顧問期間も設けて頂いたりしたので、
社長を離れてからの顧問時代も何度も北海道に行っている。

定年後のスタートはこんな北海道時代からスタートしたのである。
そんな4年間だったので、私の仕事を離れた定年後は自分では何となく「68歳から」だと思っているのである。

 
 

 


戦前の子供時代  自分史  その5

2021-04-06 06:04:00 | 自分史

★昭和20年(1945)8月15日、天皇陛下の玉音放送を私は京城城東中学校の校庭で直立不動の姿勢で聞いた。
 よく聞こえなかったのだが『戦争に負けた』ということは解った。

 朝鮮の人たちは既に解っていたのだろうか、
 学校から帰る市電には『歓喜の朝鮮人達』が朝鮮の旗を掲げていっぱいで、
 とても乗ることなど出来ずに家まで歩いて帰ったのである。


 1945年8月9日、ソ連は満州国と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。
ソ連軍が単独で朝鮮半島を占領する事態を防ぐため、
北緯38度線で暫定分割する」という案が画定され、この案はソ連側に提示され、8月17日には決定されたのである。
 同一民族であった朝鮮が世界の大国の判断で分割されてしまったことは、
本当に不幸なことだと思っている。
 
   あの戦争で一番被害を受けたのは、敗戦国の日本ではなくて、
 『朝鮮民族』だったような気がする。
 『南北統一』も言われるが、政治体制の問題もあり、
 現実に実現を図ることはムツカシイのかも知れない。
 

京城(ソウル)は南鮮であったためアメリカ軍による軍政が敷かれ、治安は非常に安定していたのだが、
日本ではなくなったので、日本に引き揚げざるを得なくなってしまったのである。

38度線以北の北鮮にいた人たちは大変だったようだが、
京城など南鮮では特に大きな問題もなく、順次引き上げていったのだが、
引き揚げ時には持てる荷物とお金は1人1000円だけだったので、
家をはじめ財産はそのままに、引き揚げてきたのである。


★我が家は母の出産が11月あたりに予定されていたのと、
私が遊んでいた時に左足が折れたのか、ひびが入ったのか、
医者がいないので診て貰っていないので詳しくは解らないのだが、
歩くのが難しかったこともあって、妹たちだけが楠見の伯父夫婦と一緒に先に引き揚げたのである。

戦時中には母の兄の楠見幸信伯父が楠見組の仕事で京城に来ていてずっと我が家にいたのだが、
ちょうど終戦の年に再婚して我が家の筋向いに家を借りて住んでいたのである。
  その伯母の実家も京城にあって、ちょうどその横がアメリカ軍の基地になって、陽気なアメリカ兵たちが話しかけてきたりしてオモシロいというので、
私も行ってみたら、塀越しにチューインガムなどをくれたりして、
私も初めて『チューインガム』なるものに出会ったりしたのである。

そんなことで、日常の生活は戦前と何ら変わることなく無事に過ごしていた毎日だったのである。


★我が家は前回触れたように、水洗トイレやスチーム暖房など、
 結構『近代的な造り』だったからかも知れぬが、
 アメリカの空軍大佐の家として買い上げられたのである。
   
 
 
 
 幾らで売れたのかは知らないが、
 その時世話をしてくれた朝鮮人の通訳の人

お金を持っていても、一人1000円しか持って帰られないのだから、
 それを金塊に変えて、高価なものを二つほどの荷物にしたら、
 空軍大佐に頼んで、伊丹空港まで飛行機で送ってあげる。
 と言ったようで、父は金の延べ棒に変えて家に置いていた。

 『15本ぐらいの金の延べ棒』で、
 私はそんな大量の金の延べ棒など、その時に見たのが最初で最後である。
 そんなことで、荷物と一緒に通訳の人に渡したようだが、
 伊丹空港に荷物が届くことなどはなかったのである。

 父も全く信じていた訳ではないのだろうが、
 いずれにしても持ち帰ることは不可能なので、
 『ダメもと』でそんなことをしたのだと思う。

 それは『通訳の人』に渡ったのであろうが、
 いずれにしても持ち帰ることは出来なかったので、
 そんなに腹も立たなかったのである。


★妹たちは10月頃に、一足先に伯父と一緒に日本に引き揚げたのだが、
 両親と私と生まれたばかりの妹は、終戦の年の12月8日に引き揚げたのだが、
 京城から釜山までは貨物列車だったのである。
 ほんとに荷物のように貨車の中に坐っての旅だったが、
 特に不満にも思わなかったのは、私の太平楽な性格なのだろうか。

 釜山からは、母が産後だということで病院船で博多まで、
 そして明石までは普通列車で引き揚げてきたのだが、
 途中の広島の街もまさに『焼野原』だったし、
 明石の町も『焼け跡』ばかりで、故郷上の丸の実家も消失して何も残っていなかったのである。

 屋敷跡には1トン爆弾が一つ、500キロの爆弾が2発も落ちていて、
 その跡は逆三角形に大きな穴が開いていて、その一つには水が溜まって池になっていた。
 焼夷弾はホントに無数といってもいいほど地面の突き刺さっていて、
 これは後、掘り返したら幾らかで『売れたり』したのである。

 明石公園の外堀のすぐ横で安全だからと、
 神戸の方などから疎開荷物を預かったりしていたのに、
 なぜ、こんなところに爆弾や焼夷弾が落ちたのだろう。

 伯父の話では、明石の町から公園に逃げてきた人の死体で、
 この池がいっぱいになったそうである。


 


 ずっと西の方に川崎航空機があったから、明石も空襲を受けたのだと思うが、
 ほんとになぜ明石公園などに爆弾や焼夷弾が落ちたのだろう?



★引き揚げた先は、今は立派な街になっているが、
 当時は『伊川田んぼ』だけの全くの田舎だった伊川谷だった。
 その川沿いにあったお稲荷さんのある、その隣の平屋のおうちに、
 伯父家族が疎開をしていて、そこに引き揚げてきたのである。

   


その『お稲荷さん』は今も残っていて、その向こうの立派な建物になっている場所にその『平屋のおうち』はあったのである。

引き揚げた日から、日常生活も全く変わったものになってしまったのだが、
両親は大変だったとは思うが、私自身は『新しい戦後の生活』が物珍しさからか結構楽しんでいたようなところもあったのである。

食糧事情も悪かったが、上の丸の土地に芋や野菜やトウモロコシなどを植えて自給自足の足しにしたし、
その肥料にするために、明石の町に馬糞を拾いに自転車で走り回ったりしたのである。
馬糞は直ぐ1斗缶にいっぱいになるほど取れたので、当時はまだ馬車がそんなに多かったのである。
こんなことも『辛い想い出』ではなくて『懐かしい想い出』として、私の脳裏に残っている。
 

★ それにしても日常生活は全く戦前・戦後では変わってしまったのである。
 こんな凄まじい変化の中を生きた経験からか、
 その後の人生で、私は『大変だ』と思ったことは皆無で、
 人間少々の環境の変化などには、簡単に対応できると思ってしまうのである。
 そういう意味では『いい経験』をさせて貰ったと思っているし、
 『裕福も貧乏も』それなりにいいところがあるものなのである。

 88年の自分史を現在に近いところから、逆に子ども時代に向かって書いてきたが、
 その最後となる『戦前の子供時代』もこの稿を最後に幕を閉じることにする。

 『反省しない』というか『済んでしまったことは仕方がない』と、
 何事にも振り返ったりはせずに生きた私の88歳の人生は、
 この子供時代に身に付いたものかも知れないのである。

     本当に『激変』とも言える『環境の変化』の中で
 戦後の『私の中学校生活』が引き揚げてから4ヶ月目には始まったのである。

 その新しい学生生活は『一人も知った友達のいない』環境の中でスタートするのだが、それも不思議なほど自然に『溶け込めた』し、
 その後の人生で『新しいことに』臆することなく挑戦出来たのも
 こんな『子供時代の経験』がそうさせたのかも知れないのである。


 
 

戦前の子供時代  自分史  その4  

2021-04-04 07:28:19 | 自分史
★昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争が始まった時は小学校2年だった。
 
天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

 こんなムツカシイ『開戦の詔書』が出されて
 毎月8日は『大詔奉戴日』として校長先生がこの詔書を読まれて、
 運動場で直立不動の姿勢でそれを聞いていた。

 そんなこともあったのか、小学校時代にも『こども・こども』したようなところがなくて、
  自分で言うのもおかしいが、結構確りとした小学生だったような気がする。

 小学校に入学した時の記念写真である。


    



 その大東亜戦争はマレーシヤあたりから始まって、
   翌年の2月には『シンガポールが陥落』したし、その後も連戦連勝で、
 フィリッピンも今のインドネシアも日本軍の手中になった。

 小学生3年生の時だと思うが、白地図に日本が占領したところを赤く塗っていく教科があり、どんどん赤いところが増えるので、
 当時の朝鮮・満州はもとより東南アジアがどんどん赤く塗られて、
 これは『世界中が日本になる』などと思ったのを覚えている。

 こんな感じで、どんどん赤く塗っていったのである。
 こんなことが続いたので、地図や地理に興味を持つようになったのかも知れない。

 
 

 

★戦争当初はこんな感じだったので、確か小学校3年生までは戦時中ではあったが、夏・冬の休みの明石帰省は続いていたのである。

 京城から釜山までも、下の関から神戸までも1等車の展望車に乗っていたし、
 
 
 
関釜連絡船も金剛丸とか興安丸など豪華客船の1等船室での旅だった。
 
 


 こんな贅沢な経験があるのは、こどもの時だけなのだが、
 父には旅の途中での行動を結構厳しく躾けられたのを覚えている。

 こんな夏・冬の明石帰省は3年生までは続いたのだが、
 確か4年生の春に関釜連絡船がアメリカの潜水艦の魚雷で撃沈されてからは
 流石に終わってしまったし、
 その後は戦局も一転負け戦に転じて、本土空襲などもあって、
 昭和20年8月15日の終戦に繋がっていくのである。
 その年が中学1年生だった。
 

★『子供時代』には、父母は私には細かいことは言わずに自由放任だったが、
 今思うと父母に遊んでもらったことは殆どないし、
 母方の祖父も、父方の祖母も孫に対しても毅然とした態度を崩さなかったように思うのである。
 子どもを甘やかして育てない、そんな時代だったのかも知れない。

 戦時中ではあったが、朝鮮には空襲もなかったし疎開などもなく、
 食糧事情なども何の問題もなくて戦争をしている実感は殆どなかったが、
 小学生5年生頃からは、兵隊さんが来て『教練』があったりした。
 アメリカの飛行機は飛んでは来たが、爆弾などは落とさなかったのである。

 そういう意味では、内地のような戦時中とは全く違ったものだった。
 

★ 父は特に職など持ってはいなかったのだが、
 何故か経済的には何の問題もない生活を送っていたのである。 

 父は家で絵を画いたりすることも多く、
 大きな絵は展覧会にも出したりしていた。
 明石の出で遠い姻戚に当たるという橋本海関に書を習い、
 その息子の橋本関雪に絵を習ったのが自慢だった。
 当時、橋本関雪は日本画の大家として第1人者だったのである。

これは関雪の絵なのだが、そんな関係で『関雪の絵』は家にいっぱいあったようである。

  

 
  そんな関雪の絵を見て、いろいろと同じような絵を画いていた。
  
  この絵は父の絵なのだが、なぜか戦後2番目の妹の家にあって、
  甥っ子がネットにこんなことをアップしていた。
 
 



 この絵は戦後、引き揚げてきてから画いた小さな絵だが、
 これは今も我が家にある。

  




★ 戦時中だったから小学校時代は、野球は全く無縁でボールを握ったこともない。
 スポーツと言えば冬はスケート、夏は水泳だったと言っていい。
 スケートは前回書いた『将忠壇公園の池』で冬中毎日やっていたし、
 水泳は学校にプールがあって、結構厳しく指導された。
 25メートルプールだが石ころを20個置いて戻ってきたら一個落として無くなるまで、毎日1000メートルは泳いでいたのである。
 先生がたの子供に接する態度も、今の時代と違って厳しかったように思う。

 クラスは男の子ばかりだったが、
 全体によく出来た生徒が揃っていたように思う。
 『級長』などもやらされたし、京城府伊賞なども頂いたので『よく出来た』ほうにいたことは間違いないが、
 『がり勉』などした覚えは全くない小学校時代だった。


  

 
 これがソウルオリンピックの時に見つけて私が写真を撮ってきた
 桜ケ丘国民学校である。
 左手前の建物のところは体育館だったのだが、
 この建物は新しく建てられたものでその向こうにあるのは昔そのままの学校で懐かしい。
 当時の内地の木造の小学校などとは違って、冬はスチーム完備の綺麗で立派な施設だった。
 当時の外地での日本人の生活は、平均して内地よりは水準が高かったのだと思う。



★ 当時の私の家族は、私の下に3人の妹がいて、
  終戦時には4人目の子供が母のお腹にいた、そんな6人家族だったのである。
 妹が言うには、家族で外で食事をする機会も多かったのに、
 私だけは、夕方おそくまで友達と遊んでばかりで『連れて行って貰えてな』ようなのである。

 不思議なぐらい妹と話をした記憶などもない。
 小学校時代の記憶と言えば、『友達と外で遊んだ』ことが殆どで
 家に『シロ』という秋田犬がいて『シロ』と遊んだことなど、
 冬になると『キムチ』を幾つも甕に漬けるのに専門の女の人が来て、
 白菜の間にいろんなものを挟んで漬けていたのをなぜかよく覚えている。

 父とはそんなに話もしたこともないのだが、
 何となく父の背中を見ながら育ってきたようにも思う。
 一言で言うと『ハイカラな父』だった。

 背広は神戸元町の老舗『柴田』のものというのが自慢だったし、
 絵も字も書き、ヴァヨリンを弾いたりもした。
 家の造りなどもサンルームもあったし、結構大きな温室もあった。
 風呂は6畳ぐらいもあって広かったし、何よりもトイレが水洗だった。
 暖房も全室スチームがあって、冬中切らさず石炭を焚き続けていて、
 これは『石炭を夜中にくべる・焚き屋さん』がいてボイラ室だけは外から合鍵で入れるようになっていたりした。
 戦前だったが電蓄電気冷蔵庫もあったし、
 当時の内地の家などと比べると、所謂・近代的なものは殆ど揃っていたのである。

 そんな贅沢とも言える暮らしではあったが、
 伯父と違って父は外では遊ばなかったそんな父を見て、
 私は子供ながらに秘かに父を尊敬して、その背中を見て育ったのかなと思ったりするのである。

 こどもの頃の、ほんの一瞬のちょっと贅沢な生活だったのだが、
 それを『経験できたこと』は、
 それがどんなものかと解っただけで『よかったかな』と思っている。

 戦後の一転した生活や、自分で独立した『三木での生活』が
 戦前の生活に比べて『劣っている』とは決して思わないのである。

 88年、いろんなことを経験できたことが『私の財産』であることは間違いないのである。

 
 
 
 
 

 
  

 
 

戦前の子供時代  自分史  その3

2021-04-02 06:51:19 | 自分史

★ 小学生の頃から、昭和20年(1945)終戦の年まで、
 この時は中学1年生だったのだが、朝鮮京城・今のソウルにいた。
 当時は朝鮮ではなくて日本だったし小学校は国民学校と称していたが、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘の『桜ケ丘国民学校』に行っていたのである。

 こどもの頃育った京城は私にとっては懐かしい故郷なのだが、
 当時の京城も間違いなく大都会ではあったのだが、
 その人口は100万人ぐらいで、
 現在の1000万人を超えるソウルとは全然違った街だったのである。
 
 懐かしい京城の街を思い出しながら、Google マップで今のソウルを眺めてみたので、
 自分のために纏めておきたいので、お許し頂きたいと思います。


★ 今は全く変わってしまったが、
 将忠壇公園の池に冬になるとスケートに行っていたので、
 まずそこからGoogle Map を拾ってみたのである。
 
 その場所は丸い大きな屋根のあるところで、
 そこから逆に我が家の方向を辿ってみると
 上のグランドが見えるところが、『桜ケ丘小学校』で、
 我が家はそのすぐ右側あたりの住宅地だったのである。

  

 
 ただ、当時はこの辺りは山ばかりで、
 我が家のあったあたりが山との境界線だったのだが、
 今は完全に家が密集してしまっている。

 

★ これがその小学校である。


  


 そして、これは外壁や門構えは変わってしまっているが、
 家は間違いなく、私が小学校時代を過ごした我が家なのである。
 瓦の横は銅板が張られているし、煙突のある下はスチームのボイラー室で、
 間違いなく『我が家』なのである。

  
   

 二つとも、私が写してきたものなのだが、
 なぜこんな写真があるのかというと、
 1988年『ソウルオリンピック』の時に、オリンピック委員会から正規の招待があって、
 オリンピック会場のすぐ横を流れる『漢江』で、世界のチャンピオンを集めて、ジェットスキーのデモンストレーションをやったのだが、私はその団長を務めたのである。

 その時の1日、JJSBAの苧野豊秋会長と一緒に、かっての家を探しに行って、 見つけて写真を撮ってきたのである。
   
  
 

 これが門構えの奥、我が家の玄関だったのだが、
 果たして、どんな形になっていたのだろう?
  
 
      
  
   写真には私は写っていないが、
   左は母の長兄・大阪市大の教授をしていた楠見一正伯父である。 


★ 戦前の京城は人口100万人だが、
 現在のソウルの10分の1以下だから、
 まだ家などもそんなに建ってはいなくて、
 我が家の上あたりは山地だったし、
 漢江の辺りも、山野で家などは建っていなかったのである。
     
 


 この地図にある左から印をつけたところが
 『京城駅』・『南大門』・ 『東大門』
 そして其の下に並んでいるのが、『将忠壇』と『桜が丘』なのだが、

 
 それはGoogle マップでみると


 これが京城駅

 


 これが南大門


 
 これが東大門



 そしてこれが今の将忠壇公園公園


 
 そして、ここが小学校の前の大通りで、
 確かに道幅は広かったのだが、まだ地道で、
 この辺りは閑静な住宅街だったのに、賑やかな街に変貌してしまっていて、



 

 30年ちょっと前、ソウルオリンピックの時には
 間違いなく残っていた我が家あたりも
 今はこんなビル街に変わってしまっているのである。





★ 世の中75年も経つと全く変わってしまうものである。

 これが今のソウルだが、
 私が小学生の頃の我が家は京城の郊外に近い新興住宅地だったのだが、
 今観るとソウルの中心と言ってもいい位置である。
 左のマルが『ソウル駅』、真ん中の印が『我が家あたり
 そして、右が『オリンピック公園』なのである。

 漢江の南側など全くの荒れ地か野原だったのに、
 今はこのような大都会なのである。

 



★ それにしても Google Mapなどネット の機能 は凄いなと思う。
 京城には中学生の1年の夏までいたので、大体のことは解っていて、
 いろいろ調べてみると、いろいろと解るのである。


 これが戦時中の京城三越だが、

 


 
それは殆どそのまま残されて、 こんな形になっている。





 南山にあった朝鮮神宮は、よくお参りしたのだが、
 今は公園として残っているようである。

 



 そして、これが朝鮮総督府で、前の韓国風の門はなかったが、
 そのまま残っている。

 


 今の韓国大統領公邸の青瓦台のところに、
 朝鮮総督公邸もあって、たまたま小学校のトモダチに小磯総督のお孫さんがいて、
 『おじいちゃんがいる場所を観に行こう』をとわざわざ見に行ったことを覚えている。
 それは総督府のずっと奥の方だった。
 


  まずは、こんな当時の『京城』について纏めてみた。


 
 

戦前の子供時代  自分史  その2   

2021-03-31 06:57:18 | 自分史
★ 子供時代に『大きな影響を受けた人』と言えば、
 それは『伯父と父』だと言っていい。

 これは戦前の私の子供時代の伯父と父なのだが、
 写している場所は、伯父がオーナーだった『明石の錦江ホテル』の庭である。

 いつ、どんな時に写した写真なのか定かではないのだが、
 結構な正装である。

 
   



 当時、伯父にはこどもがいなくて、
 伯父は私を『古谷家の跡継ぎ』として可愛がってくれて、
 あちこちに連れまわされたので、 
 私は父以上に伯父との会話が多かったように思うのである。

 こどもの頃は、朝鮮京城府に住んではいたのだが、
 小学生の頃、夏・冬の休みには毎年明石に里帰りしていたので、
 私は戦前の日本というか、当時は『内地』と呼んでいたのだが、
 戦前の明石も、神戸の街もよく覚えているのである。

 小学生だったのに、伯父に神戸花隈の夜の席や、有馬温泉での芸者さんが沢山の席などにも連れていかれて『大人の遊び』も見ているのだが、
 伯父の遊び方は、結構派手であったことは間違いないのである。

 
 そんな夜の世界だけではなくて、当時伯父が檀家総代をしていた
 明石藩松平家の菩提寺・長寿院などにも連れていかれて、
 こどもの頃にお上人の話なども聞かされたのである。
  



 伯父は当時は朝鮮の南鮮合同電気という今の韓国をテリトリーとする
 大企業であった電力会社のオーナー副社長だったのだが、
 現地に来るのは数回だけで、ずっと明石に居を構えていて、
 明石では『錦江ホテル』という結構大きなホテルの経営者でもあった。

 その立地は当時の『中崎海岸』に位置していて、
 松並木のある素晴らしい景観で
 夏休みなどそこを拠点に私は海水浴など楽しんでいて、
 ホテルにいた従業員のお姉さん方にもいろいろと可愛がって頂いたのである。


 アメリカ製のクルマが止まっているが、
 これはリンカーンか、パッカードで伯父の自家用車だったのである。
 勿論、運転手さん付だったのだが、よく乗せて貰ったし、
 車にラジオがついていたりしてビックリしたのである。
 車などの名前も、その当時覚えたものである。

 
   
 


 こんなパンフレットもあったし、

 



 装備や調度品や庭なども非常に凝ったホテルで
 当時から外人客なども訪れていたのである。
 ホテルにあった天婦羅やでよく天婦羅を食べたのも覚えている。

 

 
 
 戦前のことだがクルマもあったし、
 上の丸の家の庭には、私のためにプールを作ってくれたりした伯父だったのである。
 神戸に行くにも『車で行く』ことが多かったし、
 伯父の家には『爺や』もいて、私を明石公園の魚取りや明石川での鰻の子を採りにつれて行ってくれたりした、
 そんな上流家庭の生活だったのである。
 
 子どもの頃はそんな環境で伯父に可愛がって貰ったりはしたのだが、
 少々『派手に遊ぶ』伯父を見ていて何となく子供心に、
 『お金があることはあまりいいことではないな』とホントにそう思ったりもしたのである。

 逆に父は一切外では遊ばなかったように思うし、
 子どもの私に対して『金には厳しくて』一切小遣いなどは与えてくれなかったからかも知れない。

 そんな環境で育ったからか、戦後は一転金などない生活になるのだが、
 『お金が欲しい』とか『金を貯めよう』などと思ったことは一切なくて、
 『給料が安い・高い』なども全く関心がない生活が続いているのである。

  二人の子供たちが独立するまでは、家内は専業主婦だったし、
 貯金なども一切なくて『家計は苦しい』時期が続いたのだが、
 その当時もホントに『金には無関心』だった。

 それは何となく『お金があることはあまりいいことではないな』と
 こどもの頃思ったことが、
 そのまま続いているのだと思う。
 
 

★ 父は私が高校3年生の1月に亡くなってしまって、
  それ以降、伯父には大学入試にも世話になったのだが、
  その伯父も大学3回生の時に亡くなってしまうのだが、
  大学卒業後の就職が川崎航空機に当時の社長砂野仁さんのコネで入社できたのは、伯父のお陰なのである。

  前述した『錦江ホテル』は、その後大東亜戦争が始まってから、
 軍の指示で明石の川崎航空機に『軍の人たちの宿舎』として接収されることになり、
 その当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さんで、
 そんな関係もあって伯父は砂野さんとその後も懇意にしていたのである。

 結構な遊び人であった伯父だが、『人の面倒見』は非常に良かったようで、
 戦後の食糧難の時代に、酒などもなかったのになぜか伯父の家には酒などもあって、砂野さんともよく家で飲んでたし、
 後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんは京都の方なのだが、
 戦後明石の相生町で工作所を始められた際、伯父がその場所を提供したのだと思う。
 その土地は伯父や父の妹夫婦が住んでいた場所なのだが、
 二人とも戦災で亡くなってしまって、戦災で焼失したままになっていた場所なのである。
 
 私は戦後1945年12月に、引き揚げてきて翌年4月神戸一中に入学するまでの3か月間、伯父に連れられてしょっちゅう、相生町のその場所に来ていたので知っているのである。

 戦災で亡くなった叔父は『錦江ホテルの支配人』をしていてその家にはお稲荷さんがあったのをよく覚えているのだが、
 そのお稲荷さんは今でも残っているのである。

 
  かっての錦江ホテル跡は、今では『明石勤労福祉会館』となっていて、
 この写真の左上にあるのがその『お稲荷さん』なのである。


 
  

 


 私の小学生時代の懐かしい想い出『錦江ホテル』の辺りは、
 今は海の方に大きく埋め立てられてしまって陸地になり、明石市役所などがあるが、
 私の子供の頃は、そこは海だったのである。

 
  


★ 夏冬明石に里帰りをしていた小学生低学年の時代の想い出は
 朝鮮京城よりはむしろ内地の想い出の方が懐かしいように思うのである。

 ただ、当時の内地の印象は『旧くて小さい家が多いな』と思っていたのが正直な感想で、
 当時の京城の家はみんな、内地の家に比べると新しくて、敷地が大きい家ばかりだったように思ったし、
 神戸の市電や、神戸の三越よりも、京城の市電や京城三越の方が綺麗で大きいと思ったりしたのである。

 内地の小学校は木造だったが、京城の小学校は鉄筋コンクリートで冬はスチームが通っていたし、学校に当時からプールもあったりして、
 全般に近代的だったなと思っているのである。

 
そんな朝鮮・京城の当時の外地の想い出は次回に。


 
 
  

戦前の子供時代  自分史  その1   

2021-03-29 06:09:40 | 自分史

★ 88歳の今現在に近いところから、逆に若いほうに向かって書いてきた自分史だが、
 戦後の中学生からの学生生活を終わって、
 いよいよ生まれてから小学生だった『戦前の子供時代』に入ることになった。

 この世に生を受けてから小学校を卒業するまでの『こどもの頃』は、
 ちょうど大東亜戦争が終わる昭和20年までで、
 当時は日本であった朝鮮京城(今のソウル)にいて、
 それ以降の人生とは全く違った『異質の時代』を過ごしたのである。

 生まれ故郷は兵庫県明石市上の丸で、それは昭和8年(1933)3月なのだが、 
 3歳の頃には朝鮮太田市にいて、小学校に入学当時には既に京城府に移っていて、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘という高級新興住宅地で、
 通った小学校は京城桜ケ丘国民学校だったのである。


★ なぜ、朝鮮などにいたのか?
  それは祖父・古谷虎雄が起業した『電気事業』を引き継ぐために朝鮮に渡ったのである。

  
  祖父・古谷虎雄のことにについては、
  ネットの中にもこのような記述で残っていている。

  
  

  
  そして、このように記述されている。
  
   


 更に こんな記述も残されている。

  


 
祖父・古谷虎雄は私が生まれた時は既にこの世にはいなくて、私は知らないのだが、事業家で一代で財を成したようである。
 早く亡くなってしまったので、伯父・古谷修一も若くして『太田電気』の社長になったようだが、
 その経営の実は、祖父時代からの重役陣や番頭さんであった竹内さんなどで実際には行われていたのだと思う。
 伯父はオーナー社長で明石に住んでいたので、
 その代わりに父が太田市の現地に赴いたのではなかろかと思っている。

 その太田電気は、昭和12年(1937)3月に朝鮮総督府の政策で、
 6社の電気会社が合併して『南鮮合同電気・株』となり、

 当初の本社は釜山に置かれたようだが、

  
 
 
 その後本社が京城(今のソウル)に移った時に、
 我が家も太田から京城に移転したのだと思うのである。


 南朝鮮の6社が合併してできた『南鮮合同電力株式会社』は、現在の日本の『各地電力会社』に相当する位置づけで、
 現在の韓国に相当する地域を担当した『大企業』ではあったのだと思う。

 その『南鮮合同電気』の経営陣は以下の通りなのだが、
 伯父・古谷修一オーナー副社長として経営陣に加わってはいるが、
 この時も伯父の居住地は兵庫県明石市だったので、
 年に何度かは京城府の我が家に来ていたが、
 その時の伯父の移動は、当時の新聞の『人事往来』に掲載されたりしたのである。


  

   
 以上が私の憶測も入ってはいるのだが、
 戦前に朝鮮京城にいた理由と経緯なのである。



★私は昭和8年(1933)3月に明石市上の丸で生まれている。
 ここは祖父の別荘だったところだが、父の新婚時代はここに住んだのだと思う。
 
 この写真に写っているのは、祖父・祖母・叔母など祖父一家なのだが、
 伯父も父も未だ多分早稲田の学生時代なのである。

  

  
 
 これは 明石市細工町20番地でここが住居だったのだと思う。
 今も『魚の棚』で有名だがあの辺りが細工町である。
 小学校時代にはここが私の本籍だった。
 伯父一家も私が小学校に入ったころはここに住んでいたのである。

 



★ これらはみんな祖父が残した遺産なのだが、
 祖父の偉業を偲んで、伯父は祖父の銅像を上の丸の庭園に建てていた。
 これがその『祖父の銅像』なのだが、
 私は子供の頃から、この銅像で祖父と対面していたのである。

 不思議に戦災からも免れて、これは今も少しだけ残っている明石上ノ丸の本家の一隅に残っているものである。


    




★ こんな経緯で、私の少年時代は京城(今のソウル)にいたのだが、
 父は何をしていたのかはよく解らないのである。
 兎に角、勤め人ではなかったし、と言って自分で事業などもしていない。
 どのようにして生計を立てていたのかも知らない。

 ずっと家にいて、好きな絵を画いたり、旅行に行ったりしていた。
 古谷家の次男なのだが、祖父の遺言で伯父と財産分けなどしていなかったようなので、
 何もしていなかったが『暮らしに困る』ようなことは全くなくて、
 まさに悠々自適の生活だったのだと思う。

 伯父の一家には当時は子供がいなくて、私が『古谷家を継ぐ』立場にあったからだと思うが、
 こどもの頃から伯父には『古谷家の総領』として育てられたようなところがあった。
 逆に、父は私に特に何も言わなくて自由に育ててはくれたが、
 金には何故か厳しくて『こどもは金など持つな』ということだけを私は覚えている。
 私は生来そんなことで『小遣いもお年玉も』貰った経験がないのである。


 
 これは私の3歳の頃のそんな父との写真である。
 ほかにもいっぱいあったのだと思うが、戦災で焼けてしまったし、
 朝鮮から引き揚げの時に持ち帰らなかったので、
 父と二人の写真はこれだけなのである。


  



  これも同じころの写真だが、
  この頃も、間違いなく『良家のぼん』のような感じである。
  
   
     



★ 母は岡山の出である。
  
 父は52歳で亡くなってしまったが、母は103歳まで生きて、
 戦後、私と妹4人を育ててくれたのだが、103歳まで長生きした。

 これは若い頃の写真だが、多分結婚後直ぐの頃だと思う。
 明治42年生まれの明治の女で確りしていたと思うが、
 私には何にも言われたりはしなかった。



  



 これは先の写真にもあった、明石細工町の伯父宅での写真だが、
 母に抱かれているのが私である。
 一番右は母の兄・楠見幸信ご夫婦で、真ん中は父の妹の叔母ご夫婦、
 そして本家の祖母と伯母、それに書生の方がいて、
 当家の主、伯父はなぜか家の中である。
 
 
 

 母は岡山・楠見家の出で、
 楠見幸信は次兄・慶応黄金時代・宮武・山下・水原の頃の一番センターで、
 昭和の初期の未だプロがあったのか、なかったのか?
 当時の全日本のメンバーで、戦後は国鉄スワローズの初代総監督なのである。


 これは、岡山の楠見家での写真である。
 祖父・楠見忠三郎も写っているし、母の長兄・楠見一正伯父もいるし、そのお子様も
 母の一番下の弟、昭三叔父も未だ子供時代である。

 母方の楠見家は男3人女3人の6人兄弟で、母は3番目で長女なのだが、
 男兄弟3人は3人3様、長男の一正伯父は学者大阪市大の教授をされていた。
 次兄の幸信伯父はパリパリのスポーツ選手なのに、三男の昭三叔父は、この時代には自転車にも乗れずに、ピアノなどが得意で今は建築家なのである。




 楠見家も朝鮮で『楠見組』という土木事業などをやっていたので、
 祖父はよく京城の家にも来ていたが、
 今の『おじいちゃんと孫』のような関係ではなくて、
 常に毅然としていたし、父と囲碁を打ってたのを私は横から眺めていただけである。


 これも岡山の母方の実家で、同じ時なのかどうか?
 まだ私は小学校前かも知れない。
 
 
        



 子どもの頃は、服装を見てもこんな感じで、
 私など結婚してから今まで、こんな父のような服装をしたことがナイのだが、 
 昔はこんな家庭で『ぼんぼん』として育てられたのである。
 少なくとも、こどもの頃の戦前の生活と
 戦後の中学校以降の生活とは180度違っているのである。

 いわゆる『お金持ち』の生活がどのようなものなのか?
 特に、私を可愛がってくれた伯父の生活は、
 父とは違って『派手だった』のである。
 それを子供心にどのように感じたのか?
 これらはまた次回に。


  
 
 

   

  

中学・高校・大学 私の学生時代  その7

2021-03-27 07:01:26 | 自分史

★ 神戸高商からスタートし、神戸商科大学となり、
 今は兵庫県立大学となっている長い歴史を持つ野球部だが、
 2019年12月8日には『神戸ほっともっと球場』を借り切って、
 創部90周年イベントを盛大に行ったのである。

 
 

 70名を越すOBたちが集まったのだが、
 私が入部したころのマネージャーで2年先輩の多田和昭さんが一番旧く、
 (前列左から2番目)
 二番目がが私だったのである。
 
 


 当時86歳だったのだが、
 私は生まれて初めて『テイー・バッテング』なるものを経験した。
 結構、ちゃんと打てたから、不思議である。

 


 私たちの現役時代は、『ティ・バッテング』もなかったし、
 『金属バット』も、『ヘルメット』さえなかった時代の野球なのである。
 100周年は96歳である。 何とか出席できるように頑張りたい。


★ところで自分史に戻って、
 現役時代一生懸命練習はしたのだが、
 お世話になった運動具店の借金が10万円も溜まって、
 そのまま卒業するわけにもいかず、何とかその借金返済を考えたのである。

 当時は学生主催の『ダンスパーテイー』もよく行われていたのだが、
 大体が300名程度の規模で当時の入場料は100円が相場だったから、
 そんな規模ではどうしようもないのである。

10倍ぐらいの規模のダンスパーティー』が出来ないか? と
私なりに起案』したのである。
 ちょっと無茶なようにも思われるかも知れぬが、
 いろいろ考えると『何とかなる』ものなのである。
 『高い目標』を掲げそれに『戦略的に挑戦する』ことは、何となく私の身に付いていて、
 これは事業家であった祖父や伯父からのDNAかなと思ったりする。
 人生で多くの催し物の主催をやる機会があったが、
 これがその『最初の催し物』なのである。
 兎に角『2000枚の切符を売ろう』とその企画を始めたのである。

 『2000枚の切符を売る』ために、
 その年開場したばかりの『神戸国際会館』を選んだのである。
 会場費も高かったが、それ以上のネームバリューがあり、
 2000人が踊れる会場の広さは『神戸国際会館』であったゆえに可能だったのだが、それでも一つでは無理で、隣のホールも借り増ししたのである。

 一口に2000枚というが、これはなかなか大変で、
 野球部の借金返済が目的なので部員には野球以上にはっぱをかけたのだが、
 私は当時ダンスにも凝っていて、明石のホワイト・ローズでは教師の真似事などもやっていたので、私自身の人脈でも相当数のパーテイ券を捌けたのである。

 このパーテイーの収支が日記帳に挟んであった。

 

  
  ご覧の通り現役も頑張り、OBや体育会の協力が得られたのも、
 『神戸国際会館』というだけで販売しやすかったのである。
  当日の入場券売り上げも140枚もあって、 
  TOTAL 204,000円の収入があり、見事10万円の利益を計上している。
  計画通り、運動具店の借金はほぼ支払うことが出来て目標達成だった。

 
 そのパーテイ券のデザインである。
 ちゃんとデザイン料も払ってまともなものに仕上げている。
  
   


 
 裏面にその内容が記載されているが、
 三つの運動具店の後援も取り付けているのである。





 『峰本運動具店』は中京ー明石のあの25回戦の時のショートだった明石高校の先輩の峰本さん経営だったので、
無理を言って本当によく面倒を見て頂いたのである。


★ 大学時代、勉強は殆どしなかったのだが、
 こんな野球部関連のお付き合いは、
 その後の人生でも大いに繋がっているのである。

 特に私は2年上の先輩の方々には、本当によく面倒を見て頂いて、
 それは社会に出てからも延々と続いていたのである。
 2年上の主将が太田武郎さんでマネージャーが多田和昭さんなのだが、

 つい何年か前までは、こんな野球部のゴルフコンペでも、ご一緒だったのである。
 私の隣が太田さんで、前に印を付けているのが、多田さんである。

 



★太田武郎さんは、お兄さんが創立された『ノーリツ』の副社長をされていたのだが、
 創立者・太田敏郎さんは、川重副社長を務められて、私の長年の上司であった髙橋鐵郎さんとは海軍兵学校の同期で親交があったのである。
 さらに不思議なことに娘婿の門野匡秀はノーリツで若くして労働委員長をやったり、ノーリツがアメリカ進出をした時は、最初のメンバーで渡米したのだが、
当時カワサキの現地販社KMCのメンバーたちが、いろいろとお手伝いなどもしたのである。
 娘婿は現地に留まって今もアメリカにいるのだが、
そんなこともあって、太田武郎さんはゴルフの度に『門野のこと』を聞いて頂いたりしたのでだが、
 ほんとに突然に亡くなられてしまったのである。

  高校時代の野球部の連中ともずっと親交があったのだが、
残念ながら、みんな先に逝ってしまって、ホントに残りは少ないのである。

 上の写真の『淡水野球ゴルフ会』は昨年はコロナ禍で中止だったが、
 今年は5月13日に播磨カントリーで1年半ぶりの開催のようである。
 まだ、ご返事は差し上げていないのだが、
 『出席しようかな』と思っている。

 前回1昨年秋のコンペでは、後輩たちを差し置いて
 『優勝』させて頂いているのである。

 


  その舞台となる『播磨カントリー』はかってのメンバーコースで、
 コースはよく解っているので、
 今年からは『エイジ・シュート』でも狙おうかなと思ったりしているのである。

 
★学生の本文である勉強については神戸一中の2年生までは頑張ったのだが、
 それ以降は、『野球一筋』と言っていい学生生活ではあった。

 いろんな目標に挑戦したのだが、
 最後の『ダンス・パーテイ』は最高の出来で 
 その後の人生でも『大いに自信』に繋がっているのである。

 目標達成のための『戦略的な対応』については
 野球部監督時代に自然に身に付いて行ったように思うし、
 その最後のダンスパーテーでは、
 現役は勿論・OBたちも本当に協力頂いて、
 当時の学生たちがやっていたダンスパーテイーの『10倍の規模』での『成功』は私の学生生活の集大成出あったようにも思うのである。

 これをもって『学生時代の自分史』を終わり、
 あとは『こども時代の戦前の話』になるのである。

 『私の人生の基盤』は、この戦前に受けた教育と家庭環境の中で築かれたようにも思うのである。

 
 
 
 



中学・高校・大学 私の学生時代  その6

2021-03-25 07:31:54 | 自分史

★神戸商大に合格して一番先にやったことは『野球部への入部』だった。

当時の神戸商大は近畿6大学野球連盟に属していたが、私が在学中にはずっと1部に属していて、
ひょっとして2部もあったのかも知れぬが、そんな入れ替え戦とは無縁のそこそこの成績は残していた、そんな野球部だったのである。 因みに現在の兵庫県立大学は残念ながら3部なのである。

この時代は、近畿大学(あの阪神の佐藤の出身校)がこのリーグにいて、
ずっと近大が優勝していて、3回生の頃まではあの甲子園球場でリーグ戦が行われていたのである。

私は1回生の春からショートで出場していたので、
当時は兵庫県の高校野球の予選も甲子園球場で行われていたし、
私が一番多く試合をした球場』は『甲子園球場』というウソみたいなホントの話なのである。
まだ球場の外壁が蔦(つた)で覆われていた頃の懐かしい甲子園球場だった。


     



★ 高校時代は明石高校の野球部だったが、
同期の連中でも旧制中学の1年からいる連中が何となく主流で、
私や溝畑など学区制で途中から加わったメンバーがチームの中心というわけでもなかったのである。

そういう意味では神戸商大での野球部では、
1回生の春からチームの中心にいたし、『名門明石』出身ということで
一目置いて頂いていた存在だったのである。
2回生の時は1回生に有望選手も入部し、チーム力も上がって、
この2回生の秋までが、私の大学での野球選手としての一番盛りだったのかも知れない。

その2回生の秋のリーグが終わって、『肺浸潤』の診断が出て、
流石に3回生の春のリーグ戦は休んだのだが、
その時のリーグ戦の成績が最低だったこともあって、
秋からはベンチも担当する『プレイイング・マネージャー』として復活したのである。
責任上『野球のルールブック』を精読したのもこの時期で、
正直そんなことをしたのは初めてのことだった。

4回生の時には当然のように主将となり、
ベンチも預かる『プレイイング・マネージャー』を続けたのだが、
まだ肺浸潤も完治していない状態だったので、
むしろベンチワークの方に重点が行っていたかもしれない。
 

★ 野球部時代の写真もあまりないのだが、
 これは1回生の夏、兵庫県高砂の鐘化のグランドでの夏合宿の時である。
 当時の鐘化の野球部監督が久留島さんで、
 久留島さんは明石でも神戸商大でも先輩にあたる関係だったのだが、
 そんなことで鐘化のグランドでの夏合宿だったのである。

 二人で写ってるのは商大の選手ではなくて、
 明石高校時代の私と三遊間を組んだ辰巳くんなのだが、
 なぜ彼が商大の合宿に参加してるのか?
 多分、手伝いに来てくれたのだと思う。
 因みに、久留島さんは戦後の全日本にも選ばれていた名選手なのである。 


     

 
 
★ 2回生の秋に『肺浸潤』になって、自分の命も長くないと思ったこともあって、日記を書きだしているのだが、
 今回『自分史』を書いてみて、ホントに日記に援けられているのである。
 人の記憶がこんなに頼りないものだとはホントに思わなかった。

 3回生時代の私が復活した秋のリーグのこんな記録が、
 日記帳にあったのだが全然覚えていないのである。
全員安打』で大工大に延長で勝っているし、
 2位を掛けての工大戦だったので、
 この試合はショート2番で先発しているのである。
 
 そして延長10回私の2塁打2点を取って勝っているのだが、
 そんな勝利なのに、全く覚えていないのである。



  

 
 
 日記にはこのように書いている。

10回表、2死1・2塁でバッターボックスに、
 ワンストライクの後2球目に好きなインコースに直球が来た、
 左翼フェンスにショートバンドで当たる2塁打で、
 2点を取ってこれが決勝点・・』とある。

 

★5回生では『野球部の監督』を引き受けているのだが、
 4月4日からは新チームの春の合宿が奈良橿原球場で始まる予定で、
この合宿には手伝いにはいこうとは思っていたのだが、
その前日の4月3日に野球部長の田中教授に呼ばれて正式に監督を依頼をされて、
この合宿には『チーム監督』としての参加となったのである。
これなども今回日記を読み返してみて『そうだったんだ』と思ったのである。


★この年は春のリーグは3位秋は2位とそれなりの成績を残しているのだが、秋のリーグ戦のことである。

1回生の小山修身投手が凄い記録を作っている。
これは意識的に『造った記録』でもある。

11月2日 市大戦  7-1 小山完投勝利、ここからスタートしている。

1週間空いて後半戦
11月7日 市大戦  2-0 と快勝、小山完投。
11月8日 工大戦  1-0 で勝利、小山の連投。
11月9日 工大戦。 0-0 9回引き分け、小山の3連投である。

ここまでは、惰性できた。3連投も凄いし29イニング連続無失点である。
7-1と1点を取られた1点もエラーからだから、36イニング連続無自責点である。

ひょっとしたら『新記録ではないか』と思って、ここからは記録を意識した。
本人もチームメイトも知らなかったと思うが、私は解っていた。
翌日の経大戦も『行けるところまで』と記録を意識して小山でスタートした。

11月10日 経大戦 4-0 小山完投完封。
少々無茶な起用だが、チームとしての無失点記録も伸ばしたくてやった、4日連続の4連投なのである。

そして翌週、ここまできたら小山しかない
11月14日 経大戦  4-0とまたも完封勝利。5試合無失点である。
11月15日 薬大戦  13-3勝利、だがここで記録は途切れた。

小山修身君の記録は『53イニングス連続無失点・64イニング連続無自責点で、勿論当時は『学生野球の新記録』であった。


小山自身が知らなかったから、出来たのかも知れない。
私自身は30イニングあたりから気付いていて、
チームとしての無失点記録ともしたかったので、
4日連投』という無茶な起用にもなったのである。

 
 
★こんな大記録も創ったこの秋のリーグ戦も、
近大とはいい試合をしているのだが勝てなくて、2位に終わっているのだが、
監督としては『まずは及第』の1年だったかなと思っている。

こんなことで私の大学5年間の野球部生活は終わりとなるのだが、
野球は一生懸命やったのだが
お世話になっていた運動具店には10万円ほどの借金が残っていたのである。
当時の大学出の初任給が1万円ぐらいの時代だから結構な額の借金なのである。
これを幾らかでも『減らす』べく考えるのだが、
この件については次回に。


 

   

中学・高校・大学 私の学生時代  その5

2021-03-23 07:20:33 | 自分史

★ 高校3年生の年の1月2日に突然父が亡くなって、
 『その治療費も要らなくなるので』伯父が『大学に行け』というのである。

 当時は健康保険などない時代で、父の打っていたマイシンの注射は非常に高価で、それも当時は殆ど手に入らなかった貴重品だったのだが、
 父の知人に明石の医者が多かったので、そんな医院から明石に入ったマイシンの殆どを手に入れていたのである。
その値段は、1本1000円と今の金に直したら10万円もするそんな金が要った時代なのである。
その費用を伯父は明石上ノ丸の土地を売って工面してくれていたである。
当時の土地は1坪2000円ぐらいだったと思う。

 それまでは父が寝ていたので、就職をしようと思っていて、
 高校3年時代も全然受験勉強らしきものはやっていなかったのである。
 それが1月になって『突然大学へ』などと言われて、
 兎に角、受験科目が少なかった神戸商大を受けることにしたのである。
 英語・数学・国語・地理の4科目だった。

 その年の神戸商大は歴史的に見ても最大の競争倍率で『16.5倍』もあったので、
 通る訳がないと思っていたのだが、何とか通ったのである。
 英語・国語はそこそこ、数学は何とか答えは合っていた。
 地理は白紙に世界地図を画いて、ジブラルタル海峡子午線を入れる問題で、
 私は地図は好きなのでラッキーだった。
 しかも子午線というのは生まれ故郷の明石を通っているのである。

 それでも『なぜ通ったのか?』自分でも不思議で入学後に野球部長の教授に聞いてみたら、
 『君は県会議長が頼みに来た』と仰るのである。
 これは伯父が手を回したに違いないのだが、『県会議長が頼むと通るのですか?』とさらに聞いたら、
 『当落線上はいっぱいいるからな』と解ったような解らぬ答えだったのである。


★ そんなことで入った神戸商大だったのだが、大学時代は殆ど教室にも入らず、野球一筋になってしまったのは、
 新入生の歓迎会で、先輩がなぜこんなことを言ったのか解らぬが、
この大学に入ったら勉学に勤めること、幾ら運動部など強くてもダと言ったのと、
 当時は就職難の時代で、学生は『一つでも多くの優を取る』ことに集中していた風潮に反発したのだと思う。

 そんなこともあって、学校には行ったが『食堂とグランド』だけで教室には殆ど入らなかったのである。
 それでも単位を取ることは試験さえ受ければ何とかなって、
 『』ばかりだったが単位は早く取ってしまっていたのである。
 野球部の私と同じような連中と二桁モスキート』と『可』が二桁あることを楽しんでいたのである。
 『モスキート = mosquito = 蚊 = 可 なのである。


★ そんな大学時代だったのだが、神戸商大には大いに愛着もあるし、
 食堂のおばちゃんとも仲が良かったし、
 そこに『たむろしていた運動部の連中』も懐かしいのである。

 こんな学舎だった。

 


 今は大学名も兵庫県立大学と変わり新しい場所に移っているのだが、
 当時はこんな立地で星陵高校の直ぐ上だったので、

 


 今は高速道路になっている、この辺りだったのだと思う。
 今でも『商大筋』という道の名前だけは残っている。





★ 大学時代、私は引き揚げ者で母子家庭ということで授業料免除で且つ奨学金を頂いていたので、
 こういうとおかしいが『結構裕福』で『給料を貰って大学に通っていた
 ようなところがあったのである。

 2回生の秋に『肺浸潤』になってしまったが、その後も野球は続けていたのだが、
 ただ『ひょっとしたら早く死ぬかも?』と思って、
 この年から『日記』を書き出したりしているのである。
 
★ 大学3回生の時に、ずっと世話になっていた伯父(古谷脩一)が亡くなってしまって、
その葬儀のあと、当時の川崎航空機の社長だった砂野仁さんに会社に呼ばれて、
若し就職で他がダメだってもその時はうちにいらっしゃい』と言って頂いたので就職は川崎航空機と決めていたのである。

ところが、卒業年次の昭和31年がなぜか大変な年で、就職も大変で、
砂野さんから『今年は採る人数が少ないし、1年大学の卒業を伸ば』と仰るのである。
単位は取れていたので、卒論だけ提出せずに1年延ばすことにしたのだが、
ゼミの先生だった野球部長から『野球部の監督を』という依頼があって、
5回生の時は野球部の監督をやっていたのである。
ただ、この1年は授業など一切受けないのに、
授業料免除も奨学金もなくなって、ちょっと大変だったのである。


★ 私自身の88年の人生は、『何になりたい』と思ったりしたこともなく、『自分の進路』を自分で決めたことも一切なくて、
 周囲の人たちの勧めるままに動いた結果なのである。
 
 そんな『人が薦めてくれた』の上を歩いてきただけなのだが、
 そんな中でも『自分がやりたいこと』だけは常に明確に持っていて、
 それに集中した人生だったなと思っている。
 大学時代はそれが『野球』だっただけのことである。

 それと人を信じて生きてきた。
 川崎航空機の社長の砂野さんが『面倒を見る』と仰ったので任していたら
 『今年はダメだから卒業を1年延ばせ』と仰るのである。
 ホントに1年延ばしたら大丈夫かどうかは解らないのだが、
 100%信じて、その年の就職活動など一切やっていないのである。
 『信じる者は儲かる』とホントに性善説で生きてきた。

 そして野球部長に頼まれての『野球部監督』を務めたりしたのだが、
 その大学時代の野球部関連については次回に書くことにしたい。
 
 
 
 

中学・高校・大学 私の学生時代  その4

2021-03-21 07:38:51 | 自分史
★ 明石高校の3年間は『野球部=100%』と言ってもいい。 
当時はまだ『名門明石』と言われていた。
 これは中京-明石の甲子園での25回戦から来るのだと思うが、 
 その25回戦を戦った先輩たち横内・峯本・加藤さんなど、 
 練習にも試合にも来られて、厳しく指導されたのである。 

特に夏の大会前は殆どが明石公園球場での練習だったのだが、これは大変だった。
1年生の補欠時代は、練習が終わって家に戻るのが夜の11時近くになったりしたのである。 
この時期、1948年から51年まで3年間は日本でも『サマータイム制』が実施されていたのである。
暗くなってノックが出来なくなるのが8時過ぎ、
それからベースランニングなどあって練習が終わるのが9時過ぎ、
1年生はそれからグランド整備などして球場をでるのが10時近くになっていたので、
それから家に戻ると、ホントに11時になったりしたのである。
 
そんな厳しい練習の毎日ではあったが
昭和25年(1950)の夏には兵庫県で優勝し甲子園出場を果たしているのである。

  

 
 当時は組合せが決勝戦まで決まっていて、
 スポーツ新聞などには優勝は『瑞陵・小倉・明石か』などと
 優勝候補の一画に上げられたりしたのだが、


  

 
 1回戦で初出場の鳴門高に4-2で敗れてしまうのである。
 

  




★こんな夏の大会に出たのも『いい想い出』なのである。
 
当時の明石が強かったのはピッチャーがよかったからである。
前回もアップしたが同期の溝畑圭一郎はそんなに大きくもないのだが、
兎に角『野球は上手かった
彼が投げるとホントに2点以上は取られたりしないのである。
野球は』と敢えて書いているのは『ゴルフ』など全くダメなのである。

卒業後は神戸製鋼に入って都市対抗には常に常連で出場していた。
兵庫県のどこが勝っても、『補強選手』で選ばれるものだから、
毎年出場していたように思う。


   



 そんな明石高校の野球部だったが、
 今も甲子園春の選抜をやっているが、昨今の高校野球に比べると
 守備は兎も角、打撃のレベルが全然違うように思う。
 当時の高校球児で甲子園でホームランを打つ選手など見たこともなかったのである。
 甲子園はプロ野球の選手でも広すぎて『ラッキーゾーン』が作られていたし、
 明石球場にもラッキーゾーンはあったのだが、練習でもホームランは見られなかった。

 私はショートだったのだが、これが3年当時の明石の内野陣である。
 飛び抜けて『上手い選手』もいなかったが、
 明石の内野は堅実ということで定評があった。
 当時は、練習試合数なども今のように多くはなかったが、
 私自身は高校時代『エラーをした』という記憶がない。
 『エラー』をしなかった記録などもないのだが、少なくとも覚えていない。
 チームとしても殆ど『エラー』などしなかったように思うのである。

  



★高校時代の写真と言えば
 野球部に関連するものばかりである。

 特に我々の年次は、旧制中学の最後の年次だったので、
 下級生が入ってこずに中学の3年間と高校の1年の4年間を『最下級生』で過ごしたので、
 2年生になって初めて後輩が出来るのだが、
 そんな下級生を本当に歓迎し可愛がったところがある。
 最近よくある部内でのいじめや暴力事件など考えられもしなかった。

 野球部の同期の連中たちである。
 この人たち、社会に出てからもずっとお付き合いがあった。
 

 

 
 小学校・中学校或は大学の同窓生は同窓会で会うぐらいだが、
 明石の野球部の連中とは社会人になってからもずっと付き合いがあったのだが、
 それは明石の野球部時代がよかったからだと思う。
 みんな勉強はそんなにしなかったのに、
 社会に出てからは成功者になっているのは不思議である。
 


★そんな明石高校は兵庫県の自動車試験場の直ぐ近くなので、
 免許更新の時などに覗いてみたりするのだが、
 校舎などは新しく建て替えられている。




  学内には『甲子園の足跡』なども残されていて
 名門と言われた戦前が多いのだが
 昭和23年の春(1948)
 昭和25年の夏(1950)と戦後も2回続いていている。

 


 昔のグランドもそのまま残っていて懐かしい。

 



★なぜ、夏の大会前の練習が明石球場だったかというと、
内野が今のように黒土で整備されていなくて、小石がいっぱいだったからで、
当時、内野が黒土で整備されているようなところはなかったのである。

明石球場は明石公園内にあってこんないい立地の当時から素晴らしい球場だった。







私が高校大学時代は巨人軍が毎年春のキャンプを張っていた。
川上・千葉・青田・与那嶺・別所などのスター選手がいて広岡が入団したばかりの頃である。
長嶋も王も入団時のキャンプは明石球場だった。

私の高校2年の1950年には国鉄スワローズがスタートとしている。
この年の8月に『金田正一』が高校中退して入団しているのである。
その時の総監督が伯父(母の兄)の楠見幸信なのだが、



 
 
伯父楠見幸信宮武・山下・水原など慶応の黄金時代のメンバーで、
1番センターでスター選手だったようである。
当時の全日本にも選ばれアメリカ代表とも戦ったりしている。
卒業後は東鉄でプレーしたのだが、
そのチームメートだった前川八郎さん(後巨人に入った名選手)が当時の兵庫県工の監督をされていて、
明石球場で練習試合をした時、『私のショートの守備』を褒めて頂いたりして、非常に嬉しかったのを覚えている。


★ こんな野球一筋の高校時代であった。
 ようやく修学旅行も復活した時期なのだが、
 野球部はその間、島根・鳥取・山口と野球遠征をしたので、
 私は修学旅行の経験はなく学生生活を終わっている。
 
 高校時代の野球以外の想い出としては、
 学校の先生がたがよかったという印象が強い。
 野球部長の塚本先生にもお世話になったし、
 先生がたにも当時の野球部は人気があったように思う。

 いま、明石商業が野球では有名だが、
 当時は明石高校に商業科があって、そこが分かれて独立したのが
 明石商業なのである。
 前述の溝畑や同期で同じく神戸製鋼の野球部に進んだ藤原は二人とも商業科だった。
 


★ただ、この高校時代は父がずっと病床に臥せていて、家庭環境は苦しかったのだと思う。
 明石の伯父にも世話になったし『楠見幸信』にもいろいろ就職のお世話になったりしていたのだが、
高校3年の卒業直前の1月2日に父がなくなって、私は大学に進むことになったのである。