★ひょんなことでスタートした『カワサキジェットスキー物語』だが、10話になろうとしている。
このきっかけを創ってくれた、田崎雅元さんから頂いた長いメールの中で、このように言って頂いているのだが、非常に意を強くしているのである。
古谷さん、
ジェットスキー物語、これは複雑な背景で生まれた「お神輿製品」で、その歴史は貴方以外誰も書けないと思います。流石です。
発動機 + リンカーン + KMC で生まれたジェットスキー は放っておけば、再建中の単車事業の中で、継子の商品となり、スノーモビルと同じような運命をたどったかも知れません。スノーモビル事業からの撤退を陣頭指揮した私が、同じような継子のジェットスキーに全力投球する、不思議な運命ですが・・・・ 大きなリスクを背負い、山田熙明さんから直接ブレーキをかけられた拡大戦略、結果オーライで語れることをとても幸せだと思っています。・・・・KMCの販売拡大が背景にあったとはいえ、J/Sの今日があるのには、当時の単発関係を偏見なく、フェアーに対応した単車企画部門の力が大きかったと思っています。
そんなことから当時の単車企画室が非公式に旗を振って始まったジェットスキープロジェクトであったが、88年9月の『ソウルオリンピックのデモンストレーション』により、ジェットスキーという世界で初めての製品の事業展開は、世の中が認めてくれた存在になり、ヤマハさんも参入されて、業界としての活動がスタートしてゆくのである。
★この年88年の10月からは、私自身が国内販売の責任者としてカワ販に異動することになり、二輪もジェットスキーもその直接の担当となるのだが、当時の事業本部長(カワ販社長兼務)髙橋鐵郎さんからは、国内市場で7万台販売という途方もない目標を与えられることになるのである。
7万台というのは、大変な目標なのである。
従来の販売活動の延長で頑張るだけでは、とても達成など出来ないような倍増台数だったし、二輪6万台、ジェットスキー1万台という目標は年間200台の規模からスタートするJSにとっても、とてつもない台数であったことは容易にご理解頂けると思うのである。
そんな目標を与えられて、私が具体的に採った戦略は、従来のやり方の徹底的な放棄で、ベースにしようと思ったのは、二輪もJSも元来が遊びの道具だし、そのベースにあるのは「レース」なので、この遊びとレース活動だけは『プロのレベルでの展開』を図ることだったのである。
まず、10月1日に赴任して真っ先にやったことが、『カワサキファクトリー結成25周年のOB総会』で10月15日に開催したのである。
これは、かってのレースOB達や、山田副社長・髙橋本部長・苧野・中村・大槻さんなどカワサキのレースの先輩たちに対しての私の『決意表明』だったのである。
2番目にやったことは、従来のユーザークラブKGRC(Kawasaki Good Riders Club)を解散して、KAZE(Kawasaki Amuzing for Everybody )の創設だったのである。
従来の延長上の販売台数ならカワサキファンだけを集めたら達成できるだろうが、7万台の目標は二輪を愛するEverybodyを対象にその枠を広げる『イメージ戦略』でないとダメだと思ったのである。
そして、『遊び半分ではいい遊びはできない』と遊びやレースの専門の「ケイ・スポーツ・システム(KSS)」という『ソフト会社』を立ち上げて、この会社を中心にグループ全体の活性化を図かり『新しいカワサキのイメージ創造』に挑戦したのである。
従来の孫会社KATから、ジェットスキー専門販売のKJSと名称も変えて子会社に格上げし、その二つの会社KSSとKJSは私自らが社長として旗を振ることとしたのである。
KAZEは3か月後の89年1月に、KSSは6か月後の89年4月に共に正規にスタートして、文字通りその後の展開の中心となっていくのだが、これはひとえにこの二つの新しい会社を担当してくれた、当時の精鋭たちが素晴らしかったと言えるだろう。
ジェットスキーのKJSには藤田孝明・潤井利明・渡部達也さんなどの実力者に加えて、鶴谷将俊さんがKHIの籍のままではあったがJJSBA会長なども引き受けてくれての事業展開だったのである。
全く新しいソフト会社KSSは、南昌吾さん以下がレース・KAZE活動など今までにない全く新しい『遊びの世界』に本格的に対応したこともあって、KAZEなどは55000人の会員を集め、当時のホンダHARTなどを圧倒した実績を実現したのである
二つのグループは、カワサキの人たちだけでなく、レース関係者や業界のプロと言える人たちが沢山手伝ってくれての展開となり、ジェットスキーで言うと、JJSBAが果たした役割は非常に大きかったと言えるのだろうと思っている。
★これらの活動は、確かにこの時代私が旗を振ったのは事実なのだが、私は『本田宗一郎さんの真似』をしただけの話なのである。
ずっと昔、未だ日本の二輪需要が50㏄のカブ全盛期の時代に、本田宗一郎さんがやられたのは、世界GPへのレースへの挑戦であったし、あの鈴鹿サーキットをあの規模で造られたのは昭和36年(1961)秋なのである。 カワサキはその初めてのレースを観て、カワサキの二輪事業が立ち上がったと言ってもいいのである。カワサキの二輪事業がホントにスタートしたのは「青野ヶ原のモトクロス」だと言われるが、それは昭和37年5月のことなのである。
本田宗一郎さんのレース展開の壮大な仕組みの構築が、当時の日本の二輪事業を世界的水準に押し上げたと言っていい。
遊んでいても『自然にモノが売れる、仕組みの構築』こそが大量販売のMUST条件だということは『本田宗一郎』さんに教えて貰ったのである。
二輪もジェットスキーも、遊び道具なのだから、一番大事なのは『遊び心』ではないだろうか?
確かに、マシン開発だけは、今も各メーカーは間違いなくプロのレベルだと思うのだが、マーケッテングに関しては『遊び心』が抜け落ちて『売ることばかり』に熱心で、真面目過ぎるのではと思ったりしているのである。
★ジェットスキーこそ二輪以上の遊び道具なのである。
86年にやっとスタ―トしたカワサキのジェットスキーだが、ホントに数年の間に、業界にもカワサキの中にもプロたちが育っていったのである。
松口久美子さんが送ってくれた当時の写真だが、福井昇くんのチューンしたジェットスキーに松口姉弟は乗っていたのである。
こんなコメントも頂いたのである。
★この88年当時、ジェットスキーの販売はどんな規模だったのか?
当初は、孫会社KAT で年間2~300台でスタートした国内のジェットスキーだが、86年にはジェットスキー専門店を立ち上げ、JJSBAのレース展開に専念したこともあって、86年に立てた目標3000台は、88年には達成するという躍進ぶりだったのである。
年間300台でも、何とかペイしていた販売会社がその規模が10倍になれば、どのような経営状況になるのか?
当時のKJSも、ジェットスキー販売店も、すばらしい活気で、89年の10月にはジェットスキのDealer MeetingをアメリカのJS生産拠点リンカーン工場を訪ねて、オマハのホテルで盛大に開催し、レイクハバスの本場のレース観戦をするまでになっていたのである。
そして、それは7万台販売目標に向かって、最盛期の90年代に入っていくのである。