季節を描く

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“ザ・ビューティフル――英国の唯美主義1860-1900”展、三菱一号館美術館(2014.4.20)

2014-04-21 21:54:06 | Weblog
 唯美主義者(the Aesthetes)は、19世紀半ば、ヴィクトリア朝の英国に登場した。産業革命がもたらした物資至上主義への批判。
1860年頃に始まり、作品の価値は思想やメッセージでなく、形態と色彩の美だけにあるとする立場。
 イギリスの詩人スウィンバーンは、アルバート.J.ムーアの絵「アザレア」(1868年)について、「この絵の意味は美そのものだ。存在することだけが,この絵の存在理由だ」と述べる。

 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「愛の杯」(1867年):彼はラファエロ前派を率いたが、自然の細密・忠実な描写から唯美主義へ移行する。(部分)


 エドワード・バーン=ジョーンズ「ヘスぺリデスの園」(1882年):E. バーン=ジョーンズは後期ラファエル前派で、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの下で学ぶ。やがて彼特有のスタイルを発展させ、ラファエル前派をイギリス画壇の主流に押し上げた。「ヘスぺリデスの園」には、ヘスぺリデス呼ばれるニンフたちが住む。黄金のリンゴの木があり、竜が木に巻き番をする。


 唯美主義は、新たな上流社会、産業資本家階級を、需要層とする。やがてそれは、中流層・大衆にも広がり壮大なムーブメントとなる。

 フレデリック・レイトン「母と子(さくらんぼ)」(1864-65年):唯美主義の肖像画は、「美しい人々(上流人士)」を描く。


 エドワード・バーン=ジョーンズ「ブローチ」(1885-95年):七宝細工を施した金に、トルコ石、珊瑚、真珠、ルビーを象嵌。美しく華麗。購買層は上流階層。


 第一回ロンドン万博(1851年)での英国産業製品のデザインの悪さも、唯美主義運動の動機の一つ。生活の芸術化が、目指された。

 ウォルター・クレイン「奥方の部屋」『ハウス・ビューティフル』(口絵)(1881年):『ハウス・ビューティフル』は、唯美主義の思潮の中で生まれた空間装飾雑誌。こうした雑誌の時代が、1860年代から30年間続く。


 ブルース・ジェイムス・ダルバート「壁紙『ひまわり』デザイン」(1878年):「美術産業製品」としての壁紙。お洒落!


 ウィリアム・ド・モーガン「大皿」(1894年):クジャクの絵柄の大皿が素晴らしい。クジャクとひまわりは、唯美主義の象徴。


 唯美主義を信奉する芸術家やデザイナーは、新しい発想の源を、“ジャポニズム”と“古代ギリシア”に求めた。

 エドワード・ウィリアム・ゴドウィン「飾り戸棚(フォーシーズンズ・キャビネット)」(1877年):「アート・ファーニチャー」であり、生活の芸術化をめざす。なお、中央上から2段目の両開きの扉のデザインは、「北斎漫画」を参考にする。


 アルバート・ムーア「花」(1881年):美であること以外に「主題を持たない絵画」。あるいは「芸術のための芸術(Art for Art’s Sake)」。縦長の画面は、浮世絵の影響。
     

 アルバート・ムーア「真夏」(1887年):中央の眠る娘の両脇の女性が、手に持つのは、日本の扇である。


 後期の唯美主義は、耽美主義、悪魔主義として世紀末的、無道徳的なデカダンスに至る。

 オーブリー・ビアズリー「クライマックス:サロメ」1907年(1894年初版):オスカー・ワイルド『サロメ』の挿絵。ビアズリーは、ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。25歳の若さで夭折する。皿にのるのは、洗礼者ヨハネの首。
     

“英国ヴィクトリア朝絵画の夢、ラファエル前派展”森アーツセンターギャラリー(2014.2.11)

2014-02-14 09:59:02 | Weblog
 ラファエル前派 Pre-Raphaelitism は、1848年、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827-1910)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96)の3人の画家によって結成された:ラファエル前派兄弟団(PRB)。その後、4人が加わる。
 ロセッティを慕って集まったエドワード・バーン=ジョーンズ(1833-98)やウィリアム・モリス(1834-96)らは美術史上、次世代のラファエル前派とされる。
 ヴィクトリア朝の批評家ジョン・ラスキンが、彼らを擁護した。ラスキンは、「ラファエロ以前の芸術家が誠実で純粋であり、ルネサンス以降、芸術は衰退の道を歩んでいる」という点で兄弟団と見解が一致した。(なおラスキンの妻は離婚し、ミレイと結婚。)ラスキンや初期のラファエル前派は、科学的に厳密な自然観察を主張。ラスキンは中世を理想化し、芸術と職人、創造と労働が同じ水準にあった時代とした。
 余談:ラスキンは、オックスフォード大学で教えていた時、ルイス・キャロルと親しくなる。ラスキンはキャロル著『不思議の国のアリス』のモデルであるアリス・リデルの美術の家庭教師をした。


ジョン・エヴァレット・ミレイ「マリアナ」1850-51年:テニスンの詩がマリアナの気持ちを語る。「わたしはほとほと疲れました いっそ死んでしまいたい」。持参金が海の藻屑と消え、許嫁に見捨てられたマリアナ。刺繍につかれたマリアナが背をそらせた情景。服の青色が輝き、緻密に描かれた刺繍、ステンドグラスの色彩が鮮やか。


ジョン・エヴァレット・ミレイ「オフィーリア」1851-52年:ハムレットに捨てられ、また彼によって父を殺害され狂気になったオフィーリアの悲劇。「その花かずらを垂れ下がった枝にかけようと、柳の木によじのぼれば、枝はつれなくも折れて、花輪もろとも川の中にどーっと落ち、」オフィーリアは水死する。(モデルはのちにロセッティの妻となるエリザベス・シダル。)


ヘンリー・ウォリス「チャタートン」1855-56年:17歳で死んだイギリスの青年詩人チャタートン(1752-1770)。彼は文学に殉死した。アヘン剤の過剰摂取による死。将来を嘱望されながら夭折した者への哀感が漂う。ラスキンが「無欠にして素晴らしい。・・・・厳粛な真実を細大もらさず示そうと試み、それを成し遂げた絵画」と述べた。


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)」1849-50年:天使ガブリエルが処女懐胎をマリアに告げる。伝統的な図像にとらわれず、自由な解釈。「世事に疎い若い女性がこのように不可解で驚くべき出来事に出会って起こす反応」として描かれる。処女マリアの呆然とした表情。白は処女の純潔、青はマリアが後に担う天の女王の役割、赤はキリストの受難、金は神格を象徴する。天使が手にする咲いた二つの百合の花は神と精霊、つぼみはキリスト。赤い刺繍の咲いた三つの百合の花は、マリアがその務めを果たすというしるし。


ウィリアム・モリス「麗しのイズー」1856-58年:「トリスタンとイゾルデ」伝説の1シーン。イゾルデが失った恋人を嘆く場面を描く。モデルは後にモリスの妻となるジェイン・バーデン。なおモリスは、工業化を批判し、手仕事による中世風の価値観を称賛してモリス商会を設立。社会を工業化ではない方法で近代化すべきと主張。(アーツアンドクラフツ運動)


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「ベアタ・ベアトリクス」(1864-70年頃):ロセッティは生涯を通じて自らを、フィレンツェの詩人ダンテに重ね合わせた。ダンテが愛したベアタ・ベアトリーチェ(「祝福されしベアトリーチェ」の意)と、ロセッティ自身の早逝した妻エリザベス・シダルが描き重ねられた。ロセッティが、自らの詩神であり妻だった人に送る最後の別れの挨拶。(シダルは1862年、32歳、アヘン剤の過剰服用で死ぬ。ロセッティは2歳年長。)


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「モンナ・ヴァンナ」1866年:タイトルは「虚栄の女」の意。当初のタイトルは「ウェヌス・ウェネタ(ヴェネツィアのヴィーナス)」だった。この作品は、ロセッティがラファエル前派初期の禁欲主義から、冷ややかで感覚的な物質主義に乗り換えたことを示す。イギリスでは、1860年代から唯美主義の時代が始まる。


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「プロセルピナ」1874年:プロセルピナは古代の女神。地下世界の果実であるザクロを食べたプロセルピナは、地下世界と地上世界の両方で交互に生きなければならない。絵のモデルは、ジェイン・モリス。彼女はウィリアム・モリスの妻でありながら、同時にロセッティと親密な関係にあった。(ロセッティの妻シダルの死の7年後、1869年以前から。)


エドワード・バーン=ジョーンズ「『愛』に導かれる巡礼」1896-97年:作者はヴィクトリア朝の物質主義に反抗する。絵は中世の詩人ジェフリー・チョーサーの『薔薇物語』の一場面。写実を排除する象徴主義の作品。「愛はすべてのものの始まりにして終わりであり、人生は移ろうその光に従う影にすぎぬ」という詩とともに展示された。

“『百段雛まつり』~九州ひな紀行~展” 目黒雅叙園(2014.2.4)

2014-02-08 19:28:19 | Weblog
筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の旧邸(福岡県飯塚市)で例年飾られている約500体の「座敷雛」。賑やかで楽しい。


日田市のおきあげ雛。筑後川上流域で親しまれていた庶民のひな人形。羽子板の押絵のようなお雛さま。不思議な感じ。


「天領日田の享保雛」と「うすき雛」(大分)。天保の改革のころ、質素倹約のため臼杵の町の者たちは、「紙製のお雛様」(「うすき雛」)しか飾ることが許されなかった。


柳原白蓮が愛した人形「みどり丸」は不気味な存在感がある。柳原白蓮は伯爵の娘。最初の結婚の破綻後、27歳で、伊藤伝右衛門と再婚(一種の政略結婚)。しかし伝右衛門との結婚は幸福でなかった。白蓮は、新聞記者・社会活動家の宮崎龍介(宮崎滔天の長男)と出会い彼のもとへ走る。そして伝右衛門への公開絶縁状を新聞紙上に発表。伝右衛門は侠気があり白蓮を姦通罪で訴えなかった。白蓮は、その後龍介と結婚、81歳まで生きる。

こまつ座「太鼓たたいて笛ふいて」井上ひさし作(紀伊國屋サザンシアター)2014/1/31

2014-02-01 13:01:47 | Weblog


劇は、林芙美子(1903-1951)の後半生を描く。
彼女は1930年(昭和5年)に『放浪記』で人気流行作家となった。

しかしやがて彼女の小説は、戦争の時代にそぐわなくなる。
それでも彼女は小説を売らなければならない。

かくて彼女は覚醒する。
国民を聖戦に動員する「物語」を書こうと、決意をする。

彼女は、まず1937年の南京攻略戦に従軍。
さらに1938年の武漢作戦には、内閣情報部『ペン部隊』として参加。

しかし彼女は徐々に、戦争の聖戦の「物語」がウソだと気づく。
聖戦は人々を幸せになどしない。

林芙美子は、率直である。
「日本が負ける」と公言した彼女は、特高警察の監視下に置かれる。

人々は生きるため、戦争の時代に合わせる。
例えば、ある者は、就職先として満州で憲兵隊にはいり、さらに東京の特高警察へ栄転する。

NHKの局員は、戦前は聖戦を鼓舞し、戦後は民主主義を宣伝する。
食べるため、昇進のために、致し方ない。

もちろん国家の偉大な「物語」を信じることもある。

林芙美子は、自分が信じ、太鼓たたいて笛ふいて広めた「物語」のウソを知った。
彼女は戦後、その贖罪をする。

彼女は、つらい責任の気持ちを、小説に書く。
もう、国家の「物語」に頼らない。
最も大切で根本的な日常的出来事と、それに伴う情感のみを描くと、彼女は宣言する。

大竹しのぶが、林芙美子を見事に演じる。

一方で、林芙美子の姐御的な気風の良さ、虚飾を拒否する率直さ。
他方で、事実を受け入れるときの彼女の純情さ。

今、この時代、2014年、日本の国民が、新たな国家の「物語」を欲しているように見える。
林芙美子を描いたこの演劇は、最も大切なものが何かを考える手がかりになる。

“鍋島焼と図案帳展”戸栗美術館(2014.1.21)

2014-01-21 19:35:47 | Weblog
 鍋島藩は江戸時代初頭、中国から輸入した陶磁器を江戸幕府に献上していた。しかし、17世紀後半、中国の内乱で陶磁器が入手困難となり、鍋島家はそれに代わる献上品として鍋島焼を創出する。それは伊万里焼の技術の粋を集めたもので、17世紀末、大川内山で本格製造が開始される(盛期鍋島)。

1 盛期以前の鍋島(17世紀後半):鍋島焼の創出期。
「色絵七宝菊文稜花皿」:初々しく、色が美しい。パイオニア的な溌剌さがある。

「色絵鳳凰文皿」:2羽の鳳凰。色遣いがみずみずしい。様式化以前の生気を感じさせる。


2 盛期鍋島(17世紀末~18世紀初):鍋島焼が幕府への献上品として完成する。
「色絵石榴竹垣文皿」:石榴が多産と子孫繁栄を象徴する。吉祥文であり、めでたい。

「色絵毘沙門亀甲文」:毘沙門天が身につける甲冑の亀甲文様に由来する。

「色絵三瓢文皿」:瓢箪は種が多く子孫繁栄を象徴。地は青海波文が埋めつくす。

「色絵壽字宝尽文八角皿」:7寸皿中第一の名作とされる。中央に「壽」字、その回りに宝珠8個、縁回りを宝尽(タカラズクシ)文で取り巻き、賑々しい。

「色絵紅葉流水文皿」:龍田川と称する和歌(古今集:在原業平朝臣作)に着想を得た文様。

「色絵蒲公英文皿」:可愛い。花弁の色は黄色でないが、一目でタンポポとわかる。


3 中期鍋島(18世紀前半):倹約と増税による財政再建を目指す享保の改革(将軍吉宗1716-45)以後、色絵は禁止、染付のみとなる。
「染付鉄線花文皿」:とてもいい。鉄線は上品でキリリとした花である。


4 後期鍋島:将軍家治が1777年「12通りのお好みの品」(梅、牡丹、萩、葡萄、金魚など)を注文して以降のもの。


 伊万里焼は、1 初期伊万里(17世紀前期)、2 古九谷様式(17世紀中期)、3 柿右衛門様式(17世紀後半)、4 金襴手(17世紀末)と変化する。

「色絵弓破魔皿」:金襴手の伊万里焼で特に富裕層向けの最高級品。破魔弓矢・結び熨斗がデザインされ、おめでたい。男児の初正月に贈る。

東京演劇集団「風」『Touch~孤独から愛へ』ライル・ケスラー作、西垣耕三演出、於:東中野 2013/12/23

2013-12-30 13:37:43 | Weblog
孤児の兄弟、兄トリートと弟ハロルドは、二人で住む。
ギャングのフィリップは、孤児院出身。

兄トリートが、恐喝やかっぱらいで生計を立て、弟の面倒を見る。
弟ハロルドは、気がいい。

酔っぱらったギャングを家に運び、恐喝をたくらんだ兄トリート。
それは失敗し、逆に孤児院出身のギャングのフィリップが、孤児の兄弟を雇い、面倒を見始める。

フィリップは、若い頃の自分と、兄弟たちの境遇を重ねた。

だが、兄トリートとフィリップとの葛藤。

トリートは人を信じない。
父も母も彼らを捨てた。
生きるためには、盗むしかない。
人は常に盗みの獲物としてのみ把握される。
他方、人々は彼らに冷たい。
トリートは、人同士の愛を知らない。
だから人を信じない。

フィリップは、人を信じることの重要性を、トリートに伝えようとする。
しかしトリートの不信感は、深く頑なである。

その途上、敵対するギャングによって、フィリップは殺される。

フィリップの死が、彼のやさしさと愛を、トリートに気づかせる。
トリートは泣く。

しかし、この後、トリートは果たして、人を信じるようになるだろうか?
答えは難しい。
フィリップとトリートとが出会っていた時間が、短かすぎた。

ただ思い出の中で、フィリップの自分たちへの愛が、トリートにとって重い意味を持ち続けるだろう。

“ターナー展”東京都美術館(2013.11.26)

2013-11-26 16:47:33 | Weblog
 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775 - 1851)はイギリスを代表する国民的画家であるとともに、西洋絵画史における最初の風景画家の1人である。

 「スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船」1808年(33歳)
 ターナーは、ナポレオン戦争時に海戦の主題を多く描く。本作は1807年に英国とデンマークが衝突し、降伏したデンマーク軍艦の護送の様子を描く。


 「ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ」1820年(45歳)
40歳を迎えてから以後、ターナーはイタリアに何度か旅をする。当時の英国人にとって、イタリアは古代やルネサンスの歴史、文化について見聞を広げるため、訪れるべき「憧れの地」だった。 
    

 「チャイルド・ハロルドの巡礼―イタリア」1832年(57歳)
 ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)の長編詩「チャイルドハロルドの巡礼」の一場面を描く。バイロンは、イギリスの詩人。ケンブリッジ大学を卒業後、2年のあいだ地中海を旅し、その成果として「チャイルドハロルドの巡礼」を1812年に発表した。

特別展“京都、洛中洛外図と障壁画の美”東京国立博物館(2013.10.14)

2013-10-14 23:14:13 | Weblog
最も興味があったのは、重文「洛中洛外図屏風、舟木本」岩佐又兵衛筆、6曲1双、江戸時代(17世紀)。
これは、もと滋賀の舟木家に伝来したため、舟木本と呼ばれる。
2728名の人物が描かれている。すごい!
右端には豊臣氏の象徴の方広寺大仏殿、左端には徳川氏の二条城。
右隻を斜めによこ切る鴨川の流れが、左隻に及び、2隻がつながる。
右隻右下にある三十三間堂は、方広寺の一部だった。
五条大橋の上は、とても賑やか。
上方に、清水寺、祇園社、知恩院、建仁寺など今と同じ配置。
鴨川の岸、四条河原では歌舞伎や浄瑠璃が演じられ、歓楽街が盛況。
左隻では祇園祭の神輿が町を進行。
東寺と西本願寺が下方に描かれている。
御所が左上方。
一条戻り橋がかかる堀川の川幅が、今とあまり変わらない。
元和元年(1615)の大坂夏の陣直前の景観である。
なお、ミュージアムシアター(東洋館B1F)の“洛中洛外図屏風と岩佐又兵衛”が楽しい。









“プーシキン美術館展:フランス絵画300年”横浜美術館(2013.8.15)

2013-08-16 19:31:52 | Weblog
 ニコラ・プッサン「アモリ人を打ち破るヨシュア」1624-25年頃:17世紀にフランス古典主義を確立したプッサンの作品。バロック様式が全盛の時代にあって、プッサンは均衡と調和を求めた。
          

 フランソワ・ブーシェ「ユピテルとカリスト」1744年:18世紀ロココの代表ブーシェ。ディアナ(アルテミス)に変身したユピテル(ゼウス)がニンフのカリストを騙し、思いを遂げる。ディアナは激怒し、カリストを熊に変える。
          
 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「聖杯の前の聖母」1841年:19世紀前半、アングルは、ダヴィッドの新古典主義を継承。ドラクロワらのロマン主義に対抗。
        

 ウジェーヌ・ドラクロワ「難破して」1840-47年頃:産業革命が市民階級を生み出す。絵画が王侯貴族の独占物でなくなる。ロマン主義は絵画で個人の内面を表現した。
     

 ピエール=オーギュスト=ルノワール「ジャンヌ・サマリーの肖像」1877年:ルノワールの印象派時代の最高の肖像画。女優は10年後、33歳で亡くなった。
     

 アンリ・マティス「カラー、アイリス、ミモザ」1913年:野獣派の奔放な色遣い。ピンクのカーテンが印象的。
     

特別展“和様の書”東京国立博物館(2013.7.25)

2013-07-25 21:25:43 | Weblog
 重文「書状(与一郎宛)」織田信長筆、天正5年(1577)、東京・永青文庫:信長はさすが尊大な権力者とわかる文面。代筆が多いが、これは自筆。
     

 国宝「手鑑(テカガミ)藻塩草(モシオグサ)」、奈良~室町時代、8~16世紀、東京国立博物館:筆跡のアルバムに相当。鑑定に使用。342の断簡が貼られている。壮観。
      

 国宝「御堂関白日記、寛弘4年下巻」藤原道長筆、1007年、京都・陽明文庫:道長がその昔、筆をとってここに書いたのだと思うと感慨。
      

 「玉泉帖(ギョクセンジョウ)」小野道風筆、平安時代・10世紀、宮内庁三の丸尚蔵館:三跡の最初の人。「和様の祖」。『白氏文集』を抄出したもの。カエルの努力に学んだ人。
     

 国宝「平家納経、法師品第十」長寛2年(1164)、広島・厳島神社12世紀:金銀の箔や砂子で豪華。法華経を書写した装飾経。無常観をいやし救いを求めた。法華経は「写経成仏」を説く。
      

 国宝「扇面法華経冊子(センメンホケキョウサッシ)、巻第一、観普賢経(カンフゲンキョウ)」平安時代、12世紀、大阪・四天王寺:扇形の冊子本で風俗画の上に経文。扇の地紙が写経用紙として転用され珍しい。
     

 国宝「古今和歌集(元永本)」藤原定実筆、元永2年(1120)、東京国立博物館:唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙が美しい。 
      

 国宝「熊野懐紙『深山紅葉、海辺冬月』」後鳥羽上皇筆、建仁元年(1201)、京都・陽明文庫:後鳥羽上皇の激しい性格が筆致に出ている。上皇は熊野信仰に熱心だった。
      

 「四季草花下絵和歌巻(シキソウカシタエワカカン)」本阿弥光悦筆、江戸時代17世紀、個人:大きな下弦の月が大胆。